「彼女と先輩」(『スクリフェッド』)①
これは、宇宙の何処かにある世界「リバーシア」でのお話。
* * *
「珍しいね、ハーミィが追試なんて」
ユーフォリナが、二段ベッドの下から言ってくる。
私は背凭れが撓む程椅子に寄り掛かり、首だけをがくりと垂らす。その引っ繰り返りそうな姿勢のまま、目薬を点しすぎて三重くらいになった目をしばたたきながら彼女に応えた。
「元々私たちの霊薬療法学科はなかなか難しいところなんだよ。全校で共通試験やったら、学科から純医学科の人たちが九割占めている上位の辺りに食い込む人が出るくらい。私は元々中学での成績がそんなに良かったって訳じゃないし、今まで何とか授業に着いて行けてたってだけなんだから」
「じゃあ、何でそんな学科に入ったのよ?」
「私は魔法操作が苦手なんだもん。他の学科の方がもっと難しいの」
ユーフォリナの居る暗がりで目を少し休めると、眉間を指で揉みつつスタンドの下の参考書に向き直る。今回の実技試験である吸入型晶素鎮痛剤の調合は、時間との勝負なのだ。各種霊薬を聖晶水へ投入する順番、分量の把握を事前にしておかないと、ミスト状にした時に蝶の鱗粉の如くきらきらと綺麗に光るはずのものが、見るも無残な結果になる。
結局は、暗記なのだ。授業でも繰り返し言われた事だが、ここは多くの霊薬療法士が突き当たる壁であるが、特に手順が複雑な訳ではない。する事自体は今までと変わらないのだ。事実、同級生の多くは既に一回目の試験を無事パスしていた。
おまけに、この調合で使用する霊薬はどれも高価なものばかりなのだ。費用は学科が負担しているが、あまり何度も失敗して材料を無駄にすれば、周囲から自分に向けられる視線が痛い。何としてでも、次で合格せねばならない。
「試験は明後日なんでしょ? ハーミィが努力家なのは分かっているけどさ、寝るべき時には寝るっていう事も大切だよ。それで明日の授業も眠くて集中出来なくて分かんなくなって、また別の試験で追試とかになったら、元も子もないじゃん。今何時だと思っているの? もう十一時半だよ?」
「そういうユーフォリナこそ、もう寝るんじゃなかったの?」
「ルームメイトの何とかちゃんがずっと机のスタンドを点けっぱなしにしているせいで、眩しくて眠れないのよ」
「はいはい、もう分かったよ」
私は参考書を閉じてスタンドを消し、椅子から立ち上がる。シャワーを浴びてパーカー一枚になったのが三時間程前なので、いつもの就寝時間から一時間半以上机に向かって補充の勉強していた事になる。
人間は、ずっと同じ姿勢のまま静止していると、体はそれを「寝ている」のと勘違いし、眠気を催してくるらしい。自作した霊薬効果のある特製目薬と、ルームメイトの親友との会話で何とかそれをごまかしていたが、体には相当眠気が蓄積されていたようだ。
欠伸と共に、机に胸を預けるように大きく伸びをすると、私は二段ベッドの方へ向かう。だが梯子に手を掛けた瞬間よろめき、力が入らない事に気付いたので、「ごめん」と一言断ってからユーフォリナの隣に潜り込んだ。
「……ハーミィは可愛いなあ」
彼女は、毛布から腕を出して私の髪を梳いてくる。
「揶わないでよ」
「頑張り屋さんなんだもん、私なんかよりずっと。実を言うとね、私も明日、熱系魔法グレード三の追試なんだ。一昨日の実技試験が上手く行かなかった」
「ええっ!?」
私は思わず一瞬眠気を忘れて声を上げかけ、ユーフォリナに「隣の部屋の子たちに迷惑だから」と窘められた。
全然知らなかったし、彼女自身そのような気配は全く見せていなかった。
私の所属している霊薬療法学科の授業終わりは十五時、そこから私は美術サークルに顔を出すようにしている。ユーフォリナも同サークル所属だが、彼女の魔法コーディネート学科は十五時半に放課となる。彼女は、一昨日も昨日もいつも通り、授業が終わって五分程で美術室に現れたし、今日も追試になった私が放課後、試験内容のポリゴン映像シミュレーションでの練習の為三十分弱いつもより遅く美術室に行ったら既にそこに居た。
「少し遅れるかも」とHMEを送った時もすぐに「先に行っている」と返信が来たし、サークルが解散した後二人でカフェテリアに行った時も、部屋に戻ってきた時も、普段と何も変わらない様子だった。
熱系魔法グレード三は、ジャンルはともあれ自生魔法を使用する魔科学者になる為には、一学年の今の時期でマスターしておくべき基礎中の基礎だ。学科に上位合格し、負けず嫌いで夏までの試験で常に名前を十位代の半分より上に連ねていたというユーフォリナが、これを落として躍起にならないはずがない。
「あのねえ……自生魔法が全然出来ない私が言うのも何だけど……」
「ストップ、ハーミィ」
ユーフォリナは、私の唇に人差し指を当ててきた。
「別に、術式の構築が分からなくなって、とか、魔力出力の調整が苦手で、とか、そういう事で出来なかった訳じゃないの。あれは……何て言うんだろうな、初歩的な事だから緊張が欠けちゃったっていうか、気が散ったっていうか。術式操作にちょっと狂いがあって、第二運動場の防護壁を少し焼いただけ」
「焼いたって……」
「幸い私が最後だったから良かったけど、当然試験は中断、あとは受験者総掛かりでバケツリレーと水系魔法の一斉射。防護壁の薄い運動場だったらあわや大惨事だったね」
「ええー……」
「外を、ニーカが通り掛からなかったら成功していた」
彼女は、そこだけ独白のように小さく、低い声になった。私は思わず、はっと息を呑む。先程大部分が蒸発してしまった眠気の最後の一欠片が、完全に飛んでしまったように思えた。
胸郭の内側を、注射針で突かれるような鋭い疼きが走った。
「ハーミィもきっと、最近同じ事考えているんでしょ?」
「……そうだね」
サークルから寮に戻る帰り道。あるいは、昼休みの美術室から見える窓下のベンチで。私の中に、今と同じような胸の疼きを宥めている自分が居る。
ニーカはユーフォリナと同じく、私がこのエアルサミア魔科学学園に入学する以前、中学校時代からの親友だった。
リバーシアで最高峰の名門校に及第したとはいえ、私は勉強も運動も容姿も至って普通の女の子。これに対してユーフォリナは先程も言った通り勉強熱心で成績優秀、黒髪の似合う清楚系美少女。ニーカは、成績は中の下辺りで、内向的と言っていい程大人しく、恥ずかしがり屋で人見知りの激しい少女で、私たちの中では妹のような雰囲気があり、つい守ってあげたくなるような愛着を抱かせる存在だった。
外見も成績も性格も全く違う私たちだったが、不思議と波長は合った。私立の中学校だったので、皆小学校からの友人は教室に全くと言っていい程居ない、という状態だったが、席の近かった私たちは事務的な事柄を話すうちにいつの間にか打ち解けていき、そのまま”仲良し三人組”というようなグループになっていった。
交友関係が狭い頃に打ち解けた友人というのは、必然的に一緒に居る事が多くなるので、仲が深まっていく。そうなると、次第にそれらが付き合いの中心になり、他者との付き合いの機会は減っていく。
思春期を迎えていない子供にしては自立心の強く、大人びていて生真面目なユーフォリナと、他人と積極的に付き合いたがらないニーカは、私を間に挟んで独自の”世界”を作り、薄くではあるが他のクラスメイトたちと隔たりが生まれた。
当然、中学を卒業まですれば、自分のパーソナリティを維持したまま他者と協調する、という事もとっくに出来るようになっている。私たちも、同じエアルサミアとはいえ別々の学科を志望し、将来に向けて別々の道を歩むようになって、自分たち以外の他人との付き合いも上手くこなせるようになった。
だがそれは、三人がいつも一緒に居る訳ではなくなった、という事でもある。私とユーフォリナは同じ女子寮で同じ部屋となったが、ニーカに至っては学科も寮も異なる。サークルが同じでなかったら、顔を合わせる事が彼女だけ極端に減っていたかもしれない。
擦れ違いや誤解があった訳でも、喧嘩をした訳でもない。ただ、日常を共有しなくなった私たちの物理的・精神的な距離が多少広がっただけ。
その非常に微妙な距離の開きが、現在私を悩ませる原因となった。
「クリード先輩と、ニーカの事」
ああ、やっぱり。
「おめでとうって思う気持ちは、嘘じゃないんだよ。でも私……まだクリード先輩の事が好き」
クリード・ヴィンセンシア先輩は、私たちの所属している美術サークルで一学年上の先輩だった。エアルサミアの運営母体であるリバーシア魔科学連盟(RMTO)の幹部である貴族、五摂家の一門ヴィンセンシア家の次男。だが、それを鼻に掛けるような事はなく、常に謙虚で物腰柔らか、誰にでも分け隔てなく接し、自らも普通の生徒として扱われる事を望む。
成績は無論優秀で、昨年からずっとニーカと同じ経営法学科で首席の座に着き続けている。また美的センスにも優れ、今年の春にはサークルから王立美術館でのコンクールに出展した絵画が、国王陛下の激賞を受け、勲章を賜った。
そして何より、格好良いのだ。背はすらりと高く、瘦せていて一見すると儚い王子様のような雰囲気があるが、傍で創作活動に勤しんでいる時の表情は凛として意志の固さを窺わせ、内なる雄々しいものの片鱗が顕れたように見える。艶やかな黒髪は仄かにウェーブを描きながら、ほっそりした色白の顔の輪郭を柔らかく見せ、鼻筋がツンと通り陶器の如く冷静で鋭利に見える美貌に人間らしい温かみを添えている。
……などと言ってはみるものの、私もあまりまじまじと彼を直視する事は出来ないのだ。優しく、一緒に居て安心感のある先輩だとは思ったが、段々自分が彼に惹かれていると自覚するようになると、照れ臭くなってしまってちらちらとしか顔を窺う事は出来なくなった。
そう。私も、ユーフォリナも、ニーカも──私たちに限った事ではないが──、当然のように同じクリード先輩に恋をしてしまったのだ。しかし、性格がバラバラな私たちだ、その感情に伴う行動は、それぞれ違っていた。
私は今述べたように、心の中で淡く、先輩が恋人になったら嬉しいだろうな、とは思っているものの、それを実らせる事については、どちらかと言えば消極的だった。そもそも告白などしたら、イエスと言われようがノーと言われようが、そもそもその事を考えた時点で心臓が高鳴りすぎて持たなくなってしまうだろうと思う。
まあ、それは半分は事実だが半分は建前で、はっきりとは言わないが恐らくユーフォリナとニーカも同じ気持ちだろう、抜け駆けは申し訳ない、という彼女たちへの罪悪感にも似た思いが働いた、というのもあるかもしれない。だが、それは決して自制などではなかった。
他方、ユーフォリナは勉学、成績第一で、入学して早々恋愛に現を抜かして学問的退廃に追い込まれるくらいなら名門校になど来るな、というような持論の持ち主なので、先輩への感情を時折仕草や態度に無意識に滲ませたりはするものの、意図的に恋心を忍ぼうとしているようだった。
彼女には私と違い、勇気がある。掴むべきものを掴み、切り捨てるべきものを切り捨てる取捨選択の勇気だ。だからこそ私は、私が恋を実らせられないなら、ユーフォリナにその意志を継いで欲しい、とすら思っていた。
ニーカの事を考えなかった訳ではない。だが、私はニーカについては、私と同じ理由で、彼女が先輩に想いを告げる事などはないと思っていた。人見知りで、初対面の人との間に壁を作りがちで、結果的にあまり誰かと積極的に関わる事を好まない彼女が、いわゆる”学校のプリンス”である先輩への想いを貫こうとするはずなどないだろう、と。
だが、私は彼女について、一つだけ知らなかった事があった。
ニーカは、確かに内気で、自分と他人との関係性に関わる決断に於いて、しばしば思考を低徊させ、逡巡する事があった。だが、いざという時、自分の心から望むものに対しては、普段の彼女からは想像の付かないような気概を発揮し、字のままに齧り付いていく事の出来る人間だった。
クリード先輩が、恋愛に対してどのように思っているのかは分からない。自分を慕う女子生徒の多い事は否が応でも知らざるを得ないだろうが、その事について彼が面映ゆいと思っているのか、あるいは年相応の男子らしく、嬉しいと思っているのか、それさえも窺い知れない。
私たちの知らない経営法学科の講堂か、もしくは校外の何処かで、二人の仲が親密になるような何かがあったのかは未だに不明である。私の見た限り、ニーカから打ち明けられる前日まで、彼女とクリード先輩は、少なくともサークル内では目立って仲が接近しているような様子はなかった。だが二人はいつの間にか、間違いなくそのような関係になっていた。
無論、私たちはニーカから、事が起こったその日のうちにHMEを受け取っていた。週末、街中のお気に入りのカフェで、時間を取って事の経緯の説明が行われた。だが彼女は、見ている私とユーフォリナにまで伝播しそうな程赤面して模糊とした言葉を繰り返すだけで、分かった事と言えば、告白は彼女から行った事、別段特殊なアプローチを行った訳ではない事などのみだった。
おめでとう、とは勿論言ったし、友達らしくわざと揶ったりもした。だが私は、勝負あり、というような失恋の感慨に加え、先輩が本当に手の届かないところに行ってしまったのだ、という事だけではない理由で、心の中に一抹の寂寥を感じた。
ニーカは、私とユーフォリナの仲が親密なまま、自分だけが離れた場所に居る事を思いの外憂えていて、別の誰かの温もりを求め始めたのかもしれない。同室で、朝からそれぞれの講演に行くまでも一緒で、授業時間以外ずっと二人で居る私たちから取り残されたような気がして、心配になったのではないか。
彼女はクリード先輩と交際を始めてから、しばしば彼を自室に招くようになったという。先輩は実家から学園に通っており、五摂家の一つという事でニーカ側から気軽に彼を訪ねていく事は出来ない。だから、友人の寮に泊まるという口実で彼を自分の部屋に招く事にしたのだそうだが、私たちには「他の生徒には内緒にしておいて欲しい」という事でニーカはこれをカミングアウトしてきた。
無論女子寮は男子禁制だが、当然のように交際相手を引っ張り込む女子生徒は居る。だから寮生間で自分たちの棟内に異性が居ても見て見ぬ振りをする事は暗黙の了解となっていたが、何しろニーカの場合、相手はクリード先輩である。先輩も生徒である以上自由な恋愛は当然の権利だろうが、関係が始まってから一ヶ月も経たないうちに宿泊を是とするような関係となっては、他の生徒たちは男女問わず非難囂々だろう、という事で、この事は黙っていてくれるように私たちは頼まれたのだった。
私は彼女を、異性に対してすぐに女を売るような節操なしだとは思っていない。人見知りな彼女は、私たちと交流する中で、他人と触れ合う喜びや楽しみを知った。だからこそ、反動があった。自分の恋人となった彼と、なるべく一緒に居たかったのではないだろうか。
別に、私たちの仲が悪くなった訳でもないのに、と言われれば、私は返す言葉がない。だが、これはナイーブな彼女の、非常に微妙な感情の機微なのだろうと私は解釈していた。
「好きになっちゃったものは仕方ないんだよね。でも、八十億の人が居る世界で男女比がほぼ同じなら、お互い好き同士になる可能性なんて、四十億×四十億、分の一、でしょ? むしろ私は、自分じゃ届かなかった高嶺の花に、親友のニーカが届いたなら嬉しい。……そう思う事になる」
ユーフォリナの言葉に、私ははっと物思いから覚める。
「気になっちゃうのも仕方ないし、自分の心に嘘は吐かなくていい。だけど、あんまりこの事で成績を落としたり、授業に集中出来なかったりって、露骨に悪い影響が出るのは防ぎたいよね。そんな事をニーカが知ったら、それこそ気に病んじゃうだろうと思うから」
「……私も、そう思う」
私は、ユーフォリナの手を布団の中でぎゅっと握る。
「今は、ニーカと先輩を温かく見守る事にしようね。友達、なんだから……」
「……約束だよ?」
ユーフォリナが、そっと私の小指に自分の小指を絡めてきた。