「奨学生流節約術」(『スクリフェッド』)②
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妹が、塾に通っていた頃の友人たちとクリスマスに遊びに行く事になったそうだ。
家ではあれ程他人に不満ばかり溜まっているようなのに、外ではどのような立ち振舞いをしているのか、彼女には妙にカリスマ性があり、特に同性から好かれる傾向があるようなのだ。彼女の兄である僕の、慣れや贔屓目といった恣意的な主観も含まれるのかもしれないが、妹はまあ美人の範疇で、成績も学年でトップクラスに優秀である。そのようなステータスだと、大抵女子は他の同性からは疎んじられる傾向にあるとはよく聞く話だが、妹はそうでもないらしい。
以前から、妹は友人と週末に気軽に約束をして出かけたり、休日に友人とLINEをして暇だから遊びに行こう、という事になって午後からふらりと出掛ける事などがよくあった。その際、家族は彼女に昼食代などを手渡す事があり、僕や兄にも誰かと遊びに行く事があればその時は臨時のお小遣いをあげる、と言っていたが、さすがに申し訳ないのでそれはしなかった。
兄は、今最も金が掛かっているのが自分であるだけに、それはとても彼自身が自分に許さない事のようだった。帰り道の自動販売機で飲料を購入する事さえ、最近ではしなくなった程だ。
彼は、学校の勉強が忙しい忙しいとぼやき、その上で週末に「あって当然の息抜きの権利」とばかりに外出する妹をどのように思っているのだろうか、と僕は時々考える。
たまたま、その妹について兄が母と話しているのを、僕は耳にする事となった。来週数日で兄が冬休みという週末の夜、無限に湧いてくるのではないか、と思われる小テストの勉強をまたこなし、休憩しようと夜食を探して一階に降り、台所に入ろうとした時だった。
「……あいつさ、あの調子だと本気で病むんじゃないかなって思うんだけど」
最初に聞こえてきたのが、兄のそんな言葉だった。
「もう寝てるかもしれないから言うけど、あいつ年明けたらもう受験じゃん? 不安になるのは分かるんだけどさ、あんなに夜遅くまで勉強詰めだったらヤバいよ」
「お母さんもそれが心配なのよ。凄く心配」これは母の声だ。
「思うんだけど、俺が高校入試の時、公立受験で落ちたからじゃないかな? 俺さ、あの時家に帰ってから、ずっと部屋に籠って勉強してたから……それなのに、落ちてさ。あいつ、あんなに一生懸命やった俺でも落ちるんだって思って、あんなに自分を追い込むんじゃないか?」
「それはないよ。だってあなたの志望校が、その年でいちばん倍率が高いところだったんだから。そこまで気に病む必要はないって」
「本当にそうかな? 何とか聞き出せないか? 俺が言ったら嫌味に聞こえるだろうし、大学に合格した俺が口を挟むなって言われそうだし」
「本当に大丈夫。あの子も今年のクリスマスに出掛けるとか、そういう息抜きして何とかやっているんだから、あなたこそ考えすぎたら病んじゃうよ」
「……だから、俺も強く言えねえんだよな。あいつには、力を抜くところがどっかには必要だと思ってさ。それが言えないから、電気だの石油だの、そういう事まで言えなくなる」
何だか、言っている事が祖母に似ているな、と思った。家族が皆、変な気遣いや同情で距離感を測りかねているのが、そしてその結果として誤解や擦れ違いが生じるのが気持ち悪い。何故、皆これ程立ち回りが下手なのだろう。
そう考えると、お前はどうなのだ、と、僕の心の中で誰かが問い掛けてくる。
それに答えられない僕自身も、自分が気持ち悪いと思う。
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サイニーク財団の小論文テーマは、基本的に毎年変わらないらしい。
他人から見て、自分がどう思われているか。つまり、「客観的に見た自分」を書くという事だ。
これは、なかなか難しい事である。自分を客観的に見ようとしても、客観という他人の視点を想像するのは自分であって、他人の気持ちを再現しようとするのは自分の気持ちだからだ。それは、客観の振りをした主観に過ぎない。僕にとっては、あまりにも難しすぎる。
だが、兄には書けそうな事だ、と思う。兄は目の前の事には熱くなるものの、同時に彼の中に、そんな自分を冷めたような目付きで俯瞰する別の彼が居るのだ。そのもう一人の俯瞰的な彼は、兄が冷静な時に現れる。兄の哲学やアイデンティティは中学校時代から明確に形成され、それに基づいて自分の”言動”を評価する。
本当の客観は僕だ。僕から見た兄は、どのような存在だろう。
口やかましい、とか、些細な事に拘泥する、とか、そのような事は小論文に書く訳には行かないので考えないとすると。
兄は、責任感のある人だ。一度決めた事は最後までやり遂げようとするし、頼まれた事はすぐに引き受け、課題も自ら取り組み、それを決して消極的にではなく仕上げて満足の行くものを生み出す。だが一方で、責任を一人で抱え込みすぎる。そしてどうしようもなくなると、自分にその責任を負わせた誰かに恨み言を言う。この辺りはとても妹に似ている。
また、兄は計画性のある人だ。学習習慣は中学時代から身に着いていたし、何日後までに終わらせると決めた事は必ず予定をオーバーしようとしたりしない。反面、臨機応変という事には欠ける。几帳面も度を超すと頑固になる、という事を知らず、柔軟さに欠けるのでしばしば自分の首を絞める。
それから、兄は自己をしっかりと持った人だ。自分がどんな人間なのか、何をしたいのか、価値観がしっかりと出来上がっている。しかしそれは、自分以外の考え方をなかなか理解出来ないという事である。”自分が絶対に正しいとは思っていないという事”を、”絶対に正しい”と思っており、他人の視野の狭さに苛立つ、自分のある意味で狭い視野に気付けていない。
やはり、兄は不器用だ。僕は、不器用を人間味の裏返しと思える程、優しい人にはなれない。
これを兄が書くとしたら、と考えると、何だか胸が詰まるようだった。
* * *
クリスマス前日、イヴの日、兄と妹が言い争った。原因は兄の軽口だった。
「……でさ、皆の中学校も同じみたいなんだよ。こっちは受験勉強で忙しいっていうのに、意味分かんないワークの課題大量に出されてさ、それに加えて技術家庭科とか美術とかの授業でやり残した作業も休み中に課題としてやらなきゃいけなくなって、本当に学校馬鹿なのかなって思うんだけど。それで休みは二週間くらいしかないし、何考えてるんだろうね」
いつもの通り妹が喋り続けているのは、彼女の学校が三学期を終了したその日だった。因みに偏差値が低いとはいえ公立高校に進んだ僕も、妹と同じように今日で今年の登校が最後だ。兄の私立高校は若干早く、先週の金曜日から冬期休業が始まっている。
彼の所属しているコースは推薦試験に向けての資格取得に特化している為、授業自体は今年中に殆どの教科が終わっており、課題も特に出されていないそうだ。だが、彼には大学からの事前学習課題や奨学金の為の小論文練習など、しなければならない事が多数残っており、受験が終わった瞬間に生活態度を崩す同級生たちには思う事があるようだった。
「そんなに課題があって、遊びに行く時間もあるなんて、お前は俺よりよっぽど充実しているんだな」
ストーブを入れていない部屋ではさすがに無理があったのか、兄はその時リビングに降りてPCを操作していた。高校生になるとデスクトップPCを購入する者も増えてくるようだが、彼は未だにノートPCを使用しているので持ち運びが出来る。兄はまた何か課題をこなしていたのだろう、何のつもりがあったのかは分からないが、ごく自然に妹と母の会話──と言ってもほぼ妹が一方的に話しているだけだが──に口を挟んだ。
それが皮肉めいて聞こえたのだろう、リビングの空気が一瞬にして白けた。
「いいや、もう。面倒くさ」
小馬鹿にするように言い、妹は席を立つ。兄は「あ?」と怪訝な顔をし、「俺、何か良くない事でも言ったか?」と呟いた。その事が、妹の「呆れ」に留まっていた苛立ちの火花に酸素を送ったようだった。
「そうやってさ、他人の喋る事にいちいち口出すのやめてくれないかな。喋るのにまで節約が必要なの?」
「……別にさ、そこまで言ってないじゃん、俺」兄も、ここで本当にむっとしたらしい。「お前さ、自分が不快に思う事全部が他人のせいだと思っているだろ」
「言いたい事があるならはっきり言えば?」
「いつもは、うるさ、とか言って俺が喋るだけで不愉快なのにか?」
兄はPCを閉じ、コードをコンセントから抜いた。
「じゃあ言う。お前は、自分が正しいから周りが絶対に間違っている、というものの見方しか出来ない。だから、そうやって毎日毎日愚痴を吐く。聞かされる方の身にもなってみろ、辛いのはお前だけじゃないんだよ。お前が貰って当然みたいに思っている金は何処から出ている? お嬢様が通用するの、今だけだからな」
「何それ、嫉妬? 苦労自慢?」
「苦労自慢してんのはそっちだっつうの。ムカつくんだよ、同情して欲しいからって、休める時間がないみたいに辛い辛いってさ」
兄は、自分の事については口に出さなかった。口に出してしまえば、妹の言う通りだと思ったのかもしれない。妹は、兄が決して口に出さない事を言っている。
「いちばんお金掛かってるのはお兄ちゃんでしょ」
「掛けたくて掛かってる訳じゃねえ! 大学入学にはな……」
「私だって、高校入試の年になって塾やめたんだよ? それは仕方ないって言うの?」
「だから俺も、無駄金使わないようにしてるんじゃねえか。誰かが我慢すればいいって訳じゃないのが家族だろ、同じ家に住んでいるんだし」
「お祖母ちゃんみたいな事言うんだね」
「ああ?」
兄は拳を握って立ち上がったが、すぐに自制心を取り戻したかのようにその手をテーブルに下ろし、PCを持ち運び用のバッグにしまってドアに向かった。
「まあ、どうせ俺は公立で落ちるような奴だし、お前みたいに頭が良くないからな。上手く喋れねえわ、悪い」
母が止めに入ろうとした気配があったが、兄はそれ以上何も言う事なくリビングを出ていった。
* * *
数分後、妹も部屋に引き揚げた後、兄はコートを羽織って戻ってきた。否、戻ってきた訳ではなく、リビングをただ通過しようとしただけのようだった。
「頭冷やしてくるわ」
彼はそう言うと、すたすたと廊下に出ようとする。彼の口調からそこまでの怒気は感じられなかったが、逆にそれが彼のどのような感情を表しているのか、窺い知る事は難しかった。
「あ、そう」
僕は言い、兄が廊下への戸を閉めるのを待つ。一瞬吹き込んだ、冷えた空気にはっとした時、戸が閉まってそれが遮断された。足音が遠ざかっていくと、僕はすぐに二階へ向かった。
自分のコートに袖を通し、身を翻す。殆ど滑るように階段を下りる。
兄の駆け出して行った──見てはいないが、きっと彼は速足だっただろう──冷たい外気の中に、僕も足を踏み入れた。クリスマスイヴなど、意識した人にした訪れないのだな、と思える程平凡な夜の空気だった。
* * *
大通りに出ると、イヴだからだろう、午後八時を過ぎているというのに、往来する人は多かった。だが不思議な事に、兄は人混みに居た方が、住宅街を歩いていた時よりも目立っていた。
浮き足立つように熱を持った空気が、独りで歩く兄の周りには流れていないのかもしれない。彼の吐き出す白い息だけが、夜闇と街灯の薄明かりの色に混ざって灰色に浮かび上がっている。
兄は、歩調を一切乱さなかった。心持ち頭を下げ、灰色の息を等間隔に、湯気のように外気に刻み付けて進む。僕が尾けている事には気付いていないようだ。
追っているのではないぞ、と自分に言い聞かせた。追っているなどと思えば、兄が遠くへ行ってしまう事を恐れているのか、と問いを投げ掛けてくる胸の中の僕自身の声を、無視する術を持てないような気がした。
兄の歩行は何処までも続き、次第に雑踏を離れていく。
何だか、闇の果てまで行ってしまいそうだった。
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無人の交通公園までやって来ると、宏闊な敷地は閑散としていた。周囲に建物もないので、帳が降りたように通りの灯りは届かない。淡い光がちらちらと揺らめいているのは、なけなしの街灯全てにに無数の羽虫が群がっているからだ。
兄は、路傍の一画に作られた築山に上がった。
見られないように、僕はその裏側へ回る。
唐突に、兄が叫んだ。
「ふざけんなよ!! 黙っていりゃ皆好き勝手言いやがって!!」
びくり、と僕は震える。緩やかな斜面に掛けていた足が滑りそうになり、咄嗟に屈み込んで音を殺した。
「俺だってさあ、吐き出してえ事くらいあるんだよ! でも、皆に迷惑掛けてんのは俺だし、そんな我儘言える訳ねえだろ! 何が皆で支え合ってだよ、結局俺が何か言えば、お前の為に皆も頑張ってるとか言うんだろうが! じゃあ俺が現実見て何が悪い!? 俺だって本当は見たくねえよ、そんなもの!」
兄の声は、遮蔽物のない公園では響く事もしなかった。ただ、闇がブラックホールのように、その声を吸収しているようだった。
「申し訳ねえって思ってんだよ! だから俺も、金使わねえように精一杯やってんだよ! 分かってるって何だよ、そう言えばどうせ『悪いね』だの『ごめんね』だの、そういうのもう飽き飽きなんだよ! 心配掛けるって思ってるから、謝る事も出来ねえんだろうが! 俺がやって欲しいのは、そういう事じゃねえんだよ! なのにさあ……同情だけして、俺の本当に思ってる事、察してもくれねえよ!」
そこで一転して、今度は弱々しくなる。
「……こんな事言ったら、今度は精神年齢ガキの馬鹿野郎が吠えてるくらいにしか思わねえんだろ。それくらい我慢しろとか言うんだろ。俺の言っている意味も、半分も分からねえんだろ。……今までみたいに本心隠す振りして誤解されて面倒臭え奴扱いされる事しか、俺に出来る事はねえのかよ? 俺だって我慢出来ねえ事くらいあるってんだよ!!」
イヴに湧く世間から僕たちを隔てるように、いつも通り夜の色をしたカーテンは兄の咆哮を吸収し続ける。語彙力がない訳ではない兄でも、本当に口に出したい事は言葉にならないのだな、と思った。不器用は、やはり罪だ。
今、兄にとって、不幸だった事と幸福だった事がある。
不幸だったのは、兄が長男として生まれてきた事。
幸福だったのは、この叫びを聞いているのは僕だけだという事。
(奨学生流節約術・終)