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「奨学生流節約術」(『スクリフェッド』)①

 カタカタカタ、とパソコンの鍵盤を叩く音が聞こえてくる。薄いドア一枚と踊り場を隔てただけの隣の部屋で、兄が何か作業を行っているらしい。僕は、またか、と溜め息を()いた。

 先日、流行ってきた風邪のせいでクラスの半分近くの人数が欠席した。そのせいで平常点に関わる化学の小テストが延期になり、元の予定に入っていた英語と数学を含め、僕は明日一日で三教科の小テストを同時に行う羽目になった。だから現在机に向かい、作業用BGMと化しているお気に入りの曲をスマートフォンで流しながら、その詰め込みを行っているのだ。

 それにしても、熱が入っているのか兄のタイピング音が激しい。僕はイヤホンをしていたが、その分近くで響く音は生活音ではなく、雑音として聞こえる。教科書の練習問題と向き合っている間、メロディとタイピング音が同時に耳に入ってきて、夾雑物に変わる。問題に集中出来ない。

 僕はガタリと椅子から立ち、踊り場への戸を開けて兄の部屋をノックした。

「うるさい。少しは俺の事も考えてくれ。音楽が入ってこない」

 高校一年という年齢上仕方のない事かもしれないが、どうも兄に対してぶっきらぼうな口調になってしまう。兄は、チッと舌打ちをして睨んできた。

「じゃあ耳栓でもしてろよ。第一俺はやらなきゃいけない事をやってんだ、ゆっくり音楽聴いてるお前みたいに暇じゃねえんだよ」

「BGMだっつうの。俺だってテスト勉強してんだぞ」

「勉強してる時に音楽聴くなよ、頭に入らねえだろうが」

「音楽は海馬を刺激して、記憶力も高めるしモチベも上がるんだよ」

「歌詞がない曲の話だろうが! 家に居るのがお前一人だと思うんじゃねえよ!」

 兄はバンッ! と鍵盤を(てのひら)で殴る。画面に意味不明な文字列が生まれ、兄はまた舌打ちをしてそれをバックスペースで消した。

 ふと見ると、何やら小難しい文章が並んでいる。それを見て、僕は気付いた。同名の株式会社から設立されたサイニーク財団の、奨学生採用試験である小論文課題の練習だ。


          *   *   *


 兄は大学受験を合格という形で終えても、戦いを終える事はなかった。

 うちは、僕と兄、妹、母とその両親である祖父母の六人家族だ。母子家庭で、母は非正規雇用の為、収入の多くを祖父母に毎月給付される年金に依存している部分が否めない。今年、僕が高校に進学した為、受験と入学手続きで貯金の大部分が崩れ、生活はかなり厳しくなった。

「うちは暮らしていくだけで精一杯だから」とは、祖母の口から繰り返し聞いてきた言葉だ。あまりにもうちが貧乏だ貧乏だと家族が言うので、兄がある時(ごう)を煮やし、何故それ程財政が困窮しつつあるのか、と祖母に尋ねた。僕も傍でそれを聴いていたのだが、どうやら原因は僕たちにあるようだった。

 高校受験の為、昨年まで僕は妹と共に塾に通っていた。僕たちを不安にさせない為か金額は教えて貰えないのだが、その月謝が月々かなり掛かっていた。その上で、僕の高校入学が重なり、兄の大学への入学金も五十万円近く掛かった為、収支が釣り合わなくなったそうだ。

 高校になると何かとお金が掛かると言うので、しっかりと話し合った上で僕は塾をやめた。妹もやめざるを得なくなり、不満そうではあったがその分副教材を取り寄せる事で埋め合わせが行われた。

 兄は、私立高校に通っていた自分のせいで金が掛かっているのではないか、という不安を時折口にしたが、祖母も母もそれは否定した。

「心配しないで、あなたはちゃんと学校に通えばいいの。しっかり大学まで出て働けるようになれば、うちを支えて貰うから」

 何かにつけ金がない金がないと仄めかし、もう大人なのだから家の現状を知るべきだと言う癖に、面と向かって聞けば「心配するな」かよ、と兄が零しているのを聞いた事がある。

 兄は大学に通う間、国の制度の一環としての奨学金を借りる事になった。この間申請が受理され、採用が決定したらしい。良かった、と母は心から安堵したように言った。だが、給付が始まるのは入学後であり、入学金の五十万円をこれで支払う事は出来ない。

 母は何とかお金を工面しようとしたが、叶わなかった。その時、助け舟を出したのは祖母だった。祖母が自分の口座にあったお金を引き落とし、奨学金の給付が始まったら母から返して貰う、という事で支払ってくれたのだ。

 祖母は、母が仕事をしている為家事全般を行っており、僕たちの家庭での面倒も見ねばならない為、昔から忙しい日々を送ってきた。穏やかな老後、というべき理想形はなかなか現実にならなかった。その為か、言葉を選ばずに喋るわ小言は多いわで、家族を苛立たせる事も多い。だが、誰よりも家庭で頑張っているのは祖母だという事も家族は皆分かっていた。


          *   *   *


 前置きがかなり長くなったが、ここでサイニーク財団の奨学金の話になる。

 奨学金の採用が決定した直後、母や兄が調べるうちにそれは見つかった。何でも、国内で大学進学希望者五百人を採用し、毎月七、八万円近くの奨学金を文字通り「給付」するのだそうだ。国の制度のものとは異なり、これに返済の必要はない。これに採用されれば前述の奨学金を借用する必要がなくなり、将来返済での負担が大分軽減される。

 しかしこれは、毎年全国、東大や早稲田なども含めた全ての大学進学希望者に出願の権利があり、一万人近い希望者が出る。倍率は実に二十倍である。採用者を決める方法は八百字の小論文だとされる。

 文章を書く事は、兄の得意分野だった。母は「駄目で元々のつもりでやってみて」と言ったものの、兄は何が何でもこれに採用されるのだ、という様子だった。

 兄は、何度否定されても自分のせいで家族に負担が掛かっているのだ、という状況に我慢がならないようだった。祖母が「水道代節約の為、風呂を沸かすのを二日に一回にして沸かさない日はシャワーだけにしようと思う」と提案した時は即座に賛成したし、暇さえあれば点けっぱなしになっている廊下の電気などを片端から消した。更に、自室に石油ストーブが置いてあるのに石油を入れようとはしなかったし、リビングのストーブが十一月上旬で点けられた時には怒りを露わにした。

 妹は、そんな兄を疎ましく思っているようだった。何かとストーブの温度を下げたり、夜に廊下の電気を消そうとしたりする兄に文句を言ったり、節約に関してぶつぶつと呟いている兄を見て「うるさ」と聞こえよがしに呟く事もあった。

 兄は、金がないと言いつつスーパーを使わず家からすぐのコンビニで食材を買ったり、夕食を作りすぎたりする家族にも口出しをした。だが、それは彼自身が積極的に節約を試みているからであり、家族に世話になっているという事もあってか、あまり強くは言えないようだった。

 要するに、兄は見ていて苛立たしい程不器用なのだ。しかも、短気。

 祖母と口論をすると、彼は「悪いところだけ遺伝したんだな」と吐き捨てた。


          *   *   *


「兄貴が中心に家が回っている訳でもねえよ」

 捨て台詞を残して部屋を出た僕は、自室のドアをバタン! と閉めてイヤホンを嵌め直した。曲を流す前に、兄の部屋の音を確認する。タイピング音は、小さく、遅くなっていた。

 まあ、大変なのは兄も僕も妹も同じなのだよな、と思う。

 妹は、夜になって母が帰ってくると怒涛の如く愚痴を吐き出す。学校で何々のグループ活動があって誰々が何々したせいで自分に何々が任されて大変だった、学校の試験で自分は何々な点数を取ったがクラス全体の平均点は何々と低かった為誰々先生が説教して意味分からない話を延々と聞かされる事となった、自分はこれから何々と何々と何々の自主勉強をせねばならず死にそうだ、など。特に最近は、年が明けて間もなく滑り止めの私立の受験がある為、緊張や憂患が溜まっているらしく、それが顕著だ。

 妹は頭が良い上、何事にも手抜きが出来ない性分だった。それは美徳でもあるが、息を抜く事が出来ないというのは時に短所にもなり得る。彼女は模範生すぎるが故に他の同級生の瑕瑾が目に付くのだろう、毎日のように誰かに対する愚痴を数十分近く話している。また、それは優秀な自分にばかりリーダー的立場や責任、作業を信頼の元に押し付ける教師にも向けられた。

 聴いているといらいらするが、考えれば僕が兄にしている事も同じなのかもしれないな、と思った。吐き出すか、吐き出さないかの違いで。本人に対して我慢するという事を知らない僕の方が、余程性質(たち)が悪いかもな、とも考えた。

 でも、苛立つ気持ちは理屈ではないのだ。分かっているからこそ、僕は兄に対してどうしようもなく腹が立つ。


          *   *   *


 ある夜の事だった。

 その日の夕食はうどんすきであり、これは僕も兄も妹も好物であった。大きな鍋にうどんを入れ、(ねぎ)や白菜、人参、じゃが芋、豚肉や鶏肉をそれと一緒に、麵つゆと鰹出汁(だし)をベースにした汁で煮込む。

 普段うどんすきを食べる時は大抵母が家に居る時で、祖母が作る事は滅多にない。今回は祖母が作り、「久々に作るから味が分からなくなった」と言って僕たちが味見を行った。

 いざ食卓に着くという時、兄が別の小型鍋に入れられた味噌汁に目を付けた。これは昨日の夕食の残りであり、具材は小松菜と油揚げで、兄は朝もこれで白飯を食べて学校に登校した。

「一日経ったけど、これはまだ取っておけるのか?」

 兄が祖母にそう尋ねた。回答はよく聞こえなかった。

 その後、兄はその鍋をコンロに掛けて加熱した。彼は、以前から量も品数も多いメニューには小言を言っており、食べきれなくて翌日捨てる事になると露骨に不愉快さを顔に出した。特に最近、金がないと言うのに食材を無駄にするな、とはよく口に出しており、それでも残りが翌日以降も消費されないと自ら全部食べ切って無駄をなくす、という事を繰り返していた。

 祖母に、量が多いと昔から言う度、あなたたちの年代はそれくらい食べるのが普通なのだ、と返された。成長期だ、成長期だと何度も言われた。いつまで成長期なんだよ、と兄は言った。ある時、結果的に食べすぎて兄が胃腸の調子を崩した時、彼が祖母に文句を言うと、今度は「お祖母ちゃんは分からないんだから自分の腹に聞いて食べなさい」と言われたようだ。

 兄は今日も、無駄をなくす為に残り物の味噌汁を食べ切ろうとした。だが、彼が加熱を始めた途端祖母が言った。

「何やってんの?」

 その口調が強かったからか、兄はむっとした表情で言い返した。

「味噌汁は食べちゃ駄目なのかよ?」

「せっかく汁物のうどん作ったんだから、そっちを食べなさいよ」

「何で味噌汁を食べると、うどんを食べない理屈になるんだ?」

「どっちも汁物なんだから味が違うでしょ」

 祖母は自分でも頭が回らないと言っているが、絶望的に言葉選びが下手だ。こうなると面倒臭い。

 たかがこれだけの事で、馬鹿馬鹿しいと思うだろう。僕もそう思う。

「どっちも食べるのは駄目なのか?」

「せっかく作ったんだから……」祖母は溜め息を()く。兄は苛立ったようだった。

「あのさ、鍋を火に掛けただけなのに何でそんな言われ方をしなきゃいけねえの? どうせこれ明日まで取っておけないんだろ?」

「お祖母ちゃんとお祖父ちゃんは昼も食べたんだよ。あなたが言うから、無駄を減らそうと出来るだけ努力して」

「だから俺も食うって言ってんじゃん! 何で分かんねえかなあ……」

「明日に食べればいいでしょ」

「そんな事言ってこの前捨てただろうが!」

 妹はこれ見よがしに「うるさ」と呟く。兄は「俺までうるさい奴だと思われるじゃねえか」と言った。

 食卓に着いてからも、やり取りは続いた。兄は味噌汁は諦めたようだったが、彼が黙ると今度は祖母が「自分も頑張って作っているのに」だの「そういう言われ方をすると作りたくなくなる」だの延々と被害者口調でぼやいた。

 すると、兄が再燃する。

「鍋を火に掛けたのがそんなに悪い事かね?」

「それだけじゃない、色々だ」

「色々って何だよ」

「あなたが出来るだけ色んなものを無駄にしないようにしている事は、お祖母ちゃんだって分かっているんだよ。だから悲しくなってさ……」

「勝手に被害者ヅラすんなよ! 俺が被害者だわ!」

「うるさ」と妹。

 兄はそれから無言で黙々とうどんを取り分け始めた。テレビで総理大臣がよく分からない記者会見をやっており、腹が立つので消した。

 妹は煩わしそうにさっさと食事を済ませ、二階に上がって行った。兄も一言も発さずに食事を終えると、すぐにパーカーを羽織ってリビングを去った。いつも日課のように、祖母が皿洗いをする際に食器を拭く事も放置したようだった。

 僕は食う気を失くした。


          *   *   *


 季節は十二月中旬だった。この頃になると、僕たちの市ではクリスマスまでの期間に、ターミナル駅を越えた先にある街中の通りで街路樹をライトアップするイルミネーションイベントが行われる。

 兄に恋人は居ない。彼は、冬のその界隈は魔窟なので立ち入るべからずを主張していた。更に去年は、このイベントの為に市営バスのダイヤにに一部変更があり、帰宅するバスが通行止めで遅れて怒髪が天を衝いていた。

 行政がメサイアの生誕を祝うイベントの為に市営バスにこのような事をするのは、政教分離の原則に違反するのではないか、と言っていた。別にイルミネーション自体はクリスマスとは関係ないだろう、とは思ったが、明言しなくても期間が二十五日までの時点で確信犯だろう、というのが兄の主張だった。

「兄貴は、クリスマスに予定とかないの?」

 彼の学校は二十日から冬期休業に入る。丁度その最初の週末がクリスマスに当たる訳だが、彼は極めてドライに返した。

「ない。金がないから」

 彼は入学当初から、前にも述べた通り私立に一般入試で入ってしまった事に引け目があったのか、学問一筋だった。家に帰るとすぐに部屋に閉じ籠り、夕食まで二階から降りてこない。アルバイトも部活動もせず、逆にそれらが出来ている人はよく時間があるな、と言った。

 兄の高校と自宅はどちらも市内であり、登下校は駅を使えば一時間も掛からない。同級生には市境の方から、学校の運営するシャトルバスで往復四時間掛けて登下校している人も居るというのだから、圧倒的な速さだろう。そんな自分にもアルバイトの時間がないのに、出来る人はいつしているのか、と。

 昨年まで中学生だった僕と、妹と同様、兄の収入は月々のなけなしのお小遣いのみだった。だが最近では家の財政も逼迫している為、それも貰えない事が多い。ごめんね、と母や祖母は言い、兄はその度「別に俺は物欲がないからいいよ」と返していたが、何かが発売されて話題になり、友人たちが買うか買わないかという話をしている時に、彼が無意識に爪を噛んでいる事に僕は気付いている。

 冬期休業中、何処かに遊びに行かないかという誘いが、彼がつるんでいる友人たちから何件かあったらしい。だが、兄はその全てを断ったそうだ。

 小論文の練習をする時間で一杯一杯だから、との事だった。

 恋人も居ないと出費が少なくて気楽だよ、とは、強がりだったに違いない。

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