「嫌いなあいつ」(『スクリフェッド』)②
中間由介
呉島耕明を見ていると、こいつは本当に人生を楽しんで生きているのか? と時々疑問に思う事がある。
今時、彼程道徳の教科書に出てくる人物のような高校生も居ないだろう。教師たちからは好かれそうな人物で、同級生たちからは嫌われそうな人物だ。俺も、好きか嫌いかで言えば彼の事は嫌いだった。
まず、面倒臭い。教師たちが一応形許り守れと言い、どうせ従わないだろうと思っているようなルールを、彼は馬鹿真面目に守れ守れと口うるさく言う。そんなに人を固く縛りたいなら、そういう校則の厳しい学校に行けよと思う。
頭はいい方なのだろう。高校に入ると、学区制で生徒のスペックがピンキリの中学校とは異なり、同じような偏差値の人間が集まるようになるが、彼はその中では試験をすれば学年では常に五位以内に入り、成績も今のところ個人的なスキルの関わる美術や音楽、体育といった実技教科を除けばオール五なのではないだろうか。
俺は別に、それをやっかんでいる訳ではない。むしろ、頭が良くなると彼のようになるのか、と思うと、一生馬鹿でいいやというような気になる。
彼は、自分が頭がいいことを努力の結晶のように自負し、ほら、出来ただろ、凄いだろ、自分頑張っているだろ、と誇示したがる。それだけに留まらず、その成績を盾に、あたかも自分が他人を見下す権限を持っているかのように振舞う。
イソップ童話の兎と亀に込められた寓意は、亀のように一歩一歩着実に努力しろというものではない、というのが昨今の見解だ。何でも、兎と亀は元々定めている目標点が違うという。俺と呉島も、そのようなものだ。呉島は高校生活に対して、将来の事を考え、今は努力をする時だという認識をしている。俺は、今を精一杯楽しもうと思っている。
だが彼は、自分の生き方だけが正しいと思っている。自分とは考え方が違う人は頭がおかしい人だと思っている。だから、真逆の価値観を持った俺を色眼鏡で見てしまう。粗探しをして、攻撃してもいい理由を作る。
中学校の国語の教科書に「非の打ちどころがないという悪徳」、という言葉が出てきたのを思い出す。運動面を除けば、彼はまさにそれだ。言っている事がある意味では正論なので、頭の悪い俺には反論出来ない。
いつから彼がそうなったのかは分かっている。中学校時代だ。
* * *
小学生は、コミュニティが狭い。大抵教室や家の周辺、広く言っても学区内というところが平均的だろう。特撮ヒーローに憧れてもいいし、学校もまだ「学ぶ」というより「習う」性格の方が強い。先生の言う事を疑わずに信じてもいい。善悪二元論でものを言ってもまだ許される。
だが、中学生になればより強い自我が芽生える。自分はこのような人間だ、という自己同一性も生まれるし、他人への意識が「壁」「仲間」「先輩」「後輩」「同性」「異性」など細分化される。悪ガキでも模範生でもなかった子供が、どちらかに偏るようになり、だが一つとして完璧に同じ性格の子供は居なくなる。
呉島は、成績がより重要視されるようになった事で、同級生への対抗意識が生まれるようになった。他人から見られているという自意識も小学生より強くなり、出来るだけよく見られようとするようになった。
それは、良い子というペルソナを被り始めた訳ではない。自分は努力が出来る奴だ、やれば出来る奴だ、という事を自覚したのだ。
俺は、自分が「好きな事」を知った。ネットゲームを始めとした趣味も、それを通じて誰かと出会い、楽しみを共有する事も覚えた。だが、呉島はそれに着いてこられなかった。
自発的な集団下校が当然となるような中学生時代、彼が俺よりも先に帰るようになった時、俺は明確に、呉島は変わったのだという事を実感した。真面目が個性になり、何かとリーダー的な役割を任されるようになった彼が、俺では届かないような場所に行ってしまったような気がした。
当時、俺はまだ彼を友達だと思っていた。だから、彼が離れていく事をまだ寂しく思えていた。しかし彼は自分から離れていったのだから、そんな事は思っていなかったのだろう。
* * *
俺が呉島を嫌いになった瞬間は、当然それよりも後だった。
中学二年の頃、市内小中学校音楽会に出場する事になり、俺たちの学年は地方の伝統音楽をリコーダーで合奏するという事が決定した。その練習の為、一学期中間考査が終わった辺りから毎日、朝と放課後に合奏練習が行われた。呉島は、音楽会の後すぐにある校内合唱コンクールの男声パート──これがバスとテノールに分けられるのは三年生からだった──のパートリーダーを行っていたが、誰も立候補する人が居なかったのでこちらの指揮者も務めていた。
俺はその頃、呉島を警戒していた。二年に進級して間もない頃、こっそりゲーム機を持ち込んで昼休みに校舎裏でプレイしていた事を担任に報告したからだ。担任は告げ口した奴の名前は言わなかったが、俺は彼から一度注意されていたので、すぐに彼の仕業だと分かった。彼と最初に本気で口論したのは、その時だったと思う。
最終的に頭に血が昇った俺は、これくらいの事誰でもやってる、と言い、何人かの名前を出した。その時は「今は君の話をしているんだよ」と言った呉島だったが、後から聞いた話によると、馬鹿真面目にその一人一人に注意して回ったという。その行動力には学級委員ですら呆れる程で、友人たちは陰で彼の事を、あいつ緑化委員じゃなくて──彼は二年生の前期は緑化委員だったのだが、そうではなくて風紀委員にしようぜ、などと言っていた。
大分話が脱線してしまったが、そんな訳で俺は、当時呉島に目を付けられないようにしていた。この時はまだ、ただ彼を恐れていたと言ってもいい。ませてきた中学生らしく悪さも色々やったが、常に彼の目を掻い潜っていた。
で、その音楽会の朝練の時だった。大野という、クラスから駅伝の選手として選ばれた男子生徒が、毎日のように練習に遅刻してきてはずっと椅子に座り込んで、やりたくない、やりたくない、とぼやいていた。一回の通し練習が終わった後、指揮者の呉島から話があり、それを踏まえてもう一度、となる時だが、彼がずっと項垂れて最寄りの椅子に座り込んでいる為、なかなか二回目に入れない、という事が毎日のようにあった。
そして、そんな彼に呉島が業を煮やした。
「あのさ、君やる気あるの? ないんだったら出ていってくれないかな。皆のモチベーションが下がる」
「やんなくていいんだったら是非そうしてえよ……」
如何にも怠そうに、大野が言った。呉島は、そんな彼の肩を軽く平手で打った。
「皆朝から頑張って練習しようって思っている時に、何でそういう事言うかな。君のせいで、ここに居る皆の時間が無駄になってるんだっつうの」
「俺さ、毎朝駅伝の練習で走り込みだの何だのやってんだよ。疲れたって事くらい言ってもいいだろ……」
「他の朝練がある部活だってそれは同じだよ。だからって、皆でやる練習を疎かにしていいって法はないだろう。第一さ、そんな事やってクラスでの活動を蔑ろにするくらいなら、やめろよもう」
そこまで言う事はないだろう、と俺は思った。大野が毎朝、校門が開いてすぐに校庭に現れ、夕方は延長届けを出してまで走っている事を、俺は友人たちを通じて知っていた。彼は、文字通りそれに全力を挙げていたのだ。
「皆、皆って、ここにやりたくてやってる奴がどんだけ居るんだよ?」
自分の努力を否定されたと思ったのか、気怠げだった大野の声が強張った。「何なんだよお前は。自己満足に皆を巻き込みやがって」
「合奏を完成させたいって思っているのは僕だけじゃないはずだ。サボってる癖に、偉そうな事言うなよ」
「イキんな馬鹿。じゃあ聞くぜ、お前らの中に、俺はリコーダーやりたくてやってんだ、って奴、どれくらい居るんだよ?」
大野が言うと、皆目を逸らすように俯いた。呉島はその様子を見ると、やれやれというように首を振った。
「僕は誤解していたみたいだな。もうちょっとマシな奴らだと思ってたのに」
「この野郎!」
全く関係のない男子生徒から、彼に拳が飛んだ。馬鹿にされたと思ったらしく、俺とつるんでいた奴らも口々に彼を罵った。最初に手を出した男子生徒は何度も拳を振るい、女子の誰かが担任を呼びに行った。
担任が来て、呉島とその男子生徒と大野を廊下に連れて行った。俺たちはドアに耳を付けてその話を聴いていたが、呉島は平然と
「僕は大野君に、ちゃんと練習に参加してくれって言っただけです」
などと言っていた。殴ったという事実と、練習をサボったという事実は、呉島の吐いた侮辱よりも重く捉えられたらしい。それに呉島が、最初はやる気のなかった大野を注意しようとして口論が激化しただけだ、というのも事実だった。
結局男子生徒と大野には指導があり、呉島はお咎めなしだった。
俺は、凄く不快な気分になった。
この時明確に、俺は呉島を嫌いになった。
* * *
嫌いになった彼にあれやこれやと言われるのは、俺は耐え難い事だった。明らかに言いがかりとしか思えないような事まで指摘してくるのには閉口した。だが、何も言われないようにとそれに従うのは、彼に汚染されているような気がして余計に嫌だった。
思い返せば、意地だったのだろう。彼の前ではわざと制服を着崩したし、買い食いもした。その度に彼が口うるさく小言を言うのに対して、「何キレてんだよウケる」というように油を注いだ事もあった。
一方で、彼と友達だった時の競争意識も一層激しいものになった。友達に先を越されるのも嫉妬の原因になるが、嫌いな奴に先を越されるのは屈辱でしかない。
勉強が面倒臭い俺は、頭では彼には敵わない。だが、彼にないものを俺が持っているのも確かだった。主に、運動面での事だ。
呉島は、勉強ばかりしていたせいで日に当たらなくてビタミンD不足になったのではないか、と思われる程背が伸びず、華奢で、色も白かった。女子だったらそれも可愛いのうちだが、口うるさく、頭の切れる彼がそうだと、何だかこましゃくれた小僧のように見えて苛立たしい。
体育の時間に、陸上競技の一環として五十メートル走の記録測定をした時だった。
記録測定は、四人の生徒がスタート位置に並び、徒競走のような形で四人同時に測定する。俺はゴール付近でストップウォッチ四つを砂の上に置き、走者が俺の前を通過した瞬間に止め、タイムを伝える、という事をしていた。
呉島がスタート位置に着いた時、俺はニヤリと笑った。一年生の頃からこの記録測定はやってきた事だが、彼とは後から「タイム何秒だった?」と聞き合い、教え合うだけだったので、実際に彼が走る姿を見るのは小学生以来だ。
オンユアマークス、セット、の掛け声で彼がクラウチングスタートした時、俺は腹を抱えて笑ってしまった。笑いすぎて、ストップウォッチを押すのが遅れそうになった。
上体を起こしきれていない為、彼だけタックルするかのような前傾姿勢になっている。他の三人が速い為、遅い彼の動きは目立つ。その上、手の振り方がロボットのようにぎこちない。こいつ、こんなに変な走り方だったっけ、と思った。
「七秒六二、七秒七五、七秒七八……九秒八九!」
「はあ!?」
よろめくように減速した呉島が、俺に詰め寄ってきた。
「絶対盛っただろ、中間!」
「いや、盛ってないって」事実、盛っていない。「何なんだよお前の姿勢、空気抵抗でも減らしてるつもりか?」
「知らないよ! っていうか、中間の記録は?」
「へへん、七秒三三。勝ったな」
「ぐっ……! まあ、別に競争しているつもりはないけどね」
呉島は往生際が悪い。彼に対する日頃の鬱憤を晴らせる機会など滅多にないので、俺は追い討ちを掛けた。
「おやおやー、悔しがってんの? 何だ、お前も可愛いところあるんだな」
「筆記試験だったら負けなかったね!」
「やっぱ負けたって思ってんじゃん!」
言い合っていると、次の走者四人から「中間君まだですかー?」という声が飛んできた。いつの間にか皆スタンバっており、俺たちが言い争っている様子を痺れを切らしながらも待っていたらしい。
何だか、非常に恥ずかしかった。
* * *
「頑張らないで、彼を超す事なんて出来ると思う?」
スポーツ推薦でなければ、俺は高校に入学する事すら出来なかったかもしれない。教師は「窮地に立ってから勉強するのでは遅い」などと集会の度に説教をぶったが、捻くれていた俺は「じゃあ自分はもう手遅れなんだよ」と考え、より一層の学問的退廃と不良化を促進した。漠然と、このままではマズいのではないか、と思いながらも何から手を付けていいのか分からないでいる時、現在通っているこの高校からスポーツ推薦の声が掛けられた。部活動のサッカーには熱を入れていたので、まさに芸は身を助く、という事になった訳だ。
なけなしの面接練習と、持ち前の「何とかなるだろ」の精神で受験に挑み、何とかなってしまった。無論、顔も知らない先輩たちから、サッカーの面で舐められるのは嫌だったので、入学と同時にサッカー部には入部届を出した。
頑張らないで云々という言葉を俺に掛けてきたのは、部の三年生の紅一点にして鉄壁のディフェンサーと言われるキーパーの百川先輩だった。不良の俺にも分け隔てなく優しくしてくれる先輩に、俺はつい呉島の愚痴を吐き出してしまう。
呉島が公立受験に失敗して滑り止めの高校であるここに入学したと知った時、ざまを見ろという気持ちよりも、マジかよ、という驚きと、嘘だろ、という焦りで頭が一杯になった。高校に入ったらやっとあいつともおさらば出来る、などと考え、青春の予感に胸を躍らせて舞い上がっていたのが、一気に地獄、までは行かないが、砂漠に突き落とされたような気分だった。
しかも、中学校の同級生の中でこの高校に進学したのは俺と彼だけだったので、クラスの連中の顔と名前が一致しない頃、業務連絡を取り合える同級生は彼しか居なかった。不本意ながら、やむを得ず彼にLINEとメールを交換して欲しいと言った俺の気持ちを想像して欲しい。LINEに至っては「友だちリスト」に彼の「呉島耕明」という無味乾燥な登録名が入っているのが嫌だったので、その名前の後に「(友だちではない)」と付けておいた。
交流が限定されるようになったので、彼はあたかも俺が親の仇ででもあるかのように容赦なく舌鋒を振るってきた。遅刻ギリギリで登校するな(廊下を走るから)だの、髪の色を抜くな(軽薄に見えるから)だの、授業中にスマホを弄るな(視界に入ると彼が集中出来ないから)だの、「そこまで言うか?」というところまでを指摘し、お決まりのように「これだから馬鹿は」と付け加えた。
「努力しない馬鹿はただの馬鹿、だって。努力出来るのも才能とか、甘えた事吐かすな、って。皆が皆自分と同じだって、思わないで欲しいんですよね」
分かるよ、生意気な奴だね、などと相槌を打ちながら話を聴いてくれていた百川先輩だったが、俺がこのように言うと「でもさ」と優しく先程の問いを投げ掛けてきたのだった。俺は、思いがけない問いだったので面喰らった。
「俺は別に、あいつを超そうとなんか……」
「悔しいんでしょ、試験でいい点数取ってる彼を見ると? 本当にどうでもいい奴って思っているなら、そんな事思わないはずだよ」
「そんなの……あいつが正しいって認めてるようなもんじゃないすか」
「ムカつくのって、自分がそう思いながらも目を背けている事を指摘されるからなんだよ。例えば私が中間君に、『女誑し!』って罵ったら、ムカつく?」
「……いいえ。俺、別に女誑しではありませんから」
「ほらね。でも呉島君に、『努力しろ』だの『不良』だの言われるとムカつくでしょ? 自覚してるんだよ、彼には、中間君自身が持っていないものがあるって」
先輩の言う通りだったのだろう、俺はその言葉に腹が立った。
「それでも俺、あいつみたいにはなりたくないです! いつもスカして、他人を見下して自己中で、大人に尻尾を振る事しかしない。頭が悪くて何ですか、俺だって、あいつが持っていないものくらい持ってますよ!」
社交性とか、身長とか、サッカーとか。列挙したところ、先輩は──先輩からすれば、俺の方が生意気なガキだったに違いないが──「知ってる」と笑った。
「呉島君も、それが悔しいって思っているんじゃないの?」
「先輩に、あいつの何が分かるんですか?」
「分かんないよ。だから想像で話してる。中間君の方がよっぽど分かってると思う」
言葉に詰まった俺に、彼女は「これも想像なんだけど」と続けた。
「友達から聞いた話なんだけど、最近陸上の方のトラックで、放課後になるとランニングしてる奴が居るんだって。最初中学生と間違えたくらい、高校生にしては背が小さくて、色白で、物凄い前傾姿勢で走ってたんだって。これ、今までの中間君の話を聴く限り、呉島君としか思えないんだけど」
「あいつ……?」
やはり、心底俺を苛立たせる奴だ、と思った。
* * *
もうすぐ二回目の定期考査がある。百川先輩の言葉は、納得するにはかなり屈辱的な内容ではあったが、意地と見栄を一緒くたにする考え方だけは棄てねばならないと痛感した。そこで、呉島が運動面で俺を追い駆けているのなら、俺も勉強面で少しは彼に追い着かねばならない、と考えたが、悲しいかな、中学時代から逃避に逃避を重ねていた俺には、宿題以外の自主勉強の方法というのが分からなかった。
悩みに悩んだ挙句、節を屈して彼に勉強を教えて貰おうか、などと考えたのが昨日だった。だが、彼はとことん俺の意気を挫いてくる。
帰りのホームルームの前の清掃の時間に、購買に用事を思い出し少し急ぎ足になった俺に、彼は「掃除をサボるな」「箒を持って廊下を走るな」という事だけを言う為にわざわざ放課後教室に残るように言ったのだ。あんな事をされては、素直に頼めるものも頼めなくなる。
先生にはちゃんと怒られたのだ。怒られたのは、職員室前の廊下で俺と格闘し、掲示板に箒の柄で大穴を開けた彼も同じだった。それなのに、彼はまた俺だけが悪いような言い方をしてくるし、説教はいつの間にか政治への愚痴になるし、全く訳が分からない。
結局説教は中途半端に終わり、俺も彼も何だかすっきりしたのか不完全燃焼だったのか分からないまま教室を出た。いつもの事ではあるが。
「なあ、この後暇?」
クールダウンはしていたので、俺はわざと軽い調子で聞いてみた。畏まったら、彼をいい気にさせるだけだと思ったからだ。
「暇な訳ないだろう。僕はこれから図書室に行って勉強しないと。再来週から試験じゃないか」
──知ってるよ、そんな事。最初からそのつもりで聞いたんだから。
そう言おうと思ったが、自分は勉強熱心でお前とは違う、と言われているような気がしたので、俺はやれやれと首を振った。
* * *
彼は、これから取り組む教科は物理基礎と数学Ⅰだと言っていたのに、図書室に入るや否や彼が向かったのは辞典のコーナーだった。どう切り出すべきか分からないまま着いてきてしまい、彼にも嫌味を言われたが、ここで引き下がっては負けだ、という思いは変わらなかった。
色々と考えていると、彼が高い棚の上にある辞典に手を伸ばし始めた。だが、その手は指先が背表紙を撫でるだけで、掴めていない。どうやら、身長不足のようだ。俺はつい吹き出しそうになったが、相変わらず無理なものは無理なのだな、と思うと、何だか彼に対する嫌悪感が希釈された。
どうせ借りを作る予定だったし、最初に貸しを作って相殺するか、と思い、俺は彼が一旦手を降ろした瞬間に割り込んだ。「ちょっとどいてろ」反射的に彼が身を引いたところで、目標の本を手に取る。
「ほらよ」
渡すと、彼は呆けた声を出した。「えっ? あ……どうも」
「相変わらずチビだな、お前。牛乳を飲め、牛乳をよ」
調子に乗って言うと、彼ははっと表情を戻し、むっとしたように言い返す。
「飲んでるよ。毎日、朝と帰ってからと夕食後の三回、コーヒー入れて」
「コーヒー飲むと背が伸びなくなるって、うちの祖母ちゃんが言ってたぜ?」
「俗信だよ、そんなの。その噂の出所は多分、コーヒーを飲むとカフェインを摂取する事になるから眠れなくなって、成長ホルモンが出なくて背が伸びなくなるっていう理屈なんだろう。規則正しい生活をしている僕が伸びなくて、エナジードリンクで昼夜逆転している君が伸びるのは、単純に神様の不平等だ」
「俺は学校で寝てるから。寝る子は育つって言うだろ?」
「成長ホルモンがいちばん分泌される夜十時から深夜二時までの間にノンレム睡眠状態にある子は育つ、が正確だ」
「やれやれ」
素直じゃない奴だな、と思っていると、棚の向こうを通り掛かった図書委員から「図書室ではお静かに」と注意された。びくりとし、言い訳しようと
「いや、こいつが……」
口を開くと、悪魔的なタイミング、彼とハモってしまった。おまけに、口を閉ざした瞬間も同じ。癪だったが、不思議と居心地の悪さはなかった。
「ほら、戻った戻った」
呉島が、棚の間から出ようと俺を押してきた。
俺は引き返しながら、「なあ、呉島」と口を開く。今なら、自然に言える。
「俺にさ、勉強教えてくれねえかな?」
「へえ?」背後で、彼が笑った気配があった。「僕の薬が効いたのかな?」
「勘違いすんなよ、お前しか頼める奴が居ねえから……」
心の準備はしていたのに顔が熱くなり、つい余計な事を口走った。彼の楽しそうな気配が強くなり、肩に手が置かれた。
「そういう事なら任せなさい、中間君。但し、僕が教えられるのはワークの答えじゃないぞ。勉強方法だ。それをやるのかやらないのかは、君のやる気次第だから」
「……何でもいいよ、見てやがれ」
「図書室じゃ駄目だね。君に勉強を教えるっていう真面目な目的を持った僕が、さっきみたいにうるさいと注意されては堪らない。……駅のDOUTORなんかはどうかな? 先日ホワイトショコラのケーキがデザートに追加されてね」
へえ、と思いながら、俺は一言を忘れない。
「辛口な癖に甘党なんだな、お前も」
「頭をよく回す僕には糖分が欠かせないんだ。車も、どんなに性能が良くても燃料がないと走らないだろ? 頭を使わずに生きられる君には分からないかなあ」
「俺も頭使うぞ、今日は!」
「じゃあ、二人分僕が払おう。君は毎日色々買いすぎてるから、財布がどうなっているやら分かったものじゃない」
「言ったな!?」
相変わらず、俺とこいつはとことん馬が合わない。喧嘩する程仲がいいとか、物事を捻くって斬新な視点に立った気で居る昔の人に、喧嘩は仲が悪いからするものなんだよ、と教えてやりたくなる。
明日もきっと、俺たちは一戦交えるだろう。そう考えると憂鬱になるが、だからこそここは大人しく、彼の言う通りカロリー補給でもして明日に備えよう。などと考えながらカフェに行くのは、店員さんに失礼だろうか。
「図書室ではお静かに!」
俺たちよりもうるさい図書委員の声が、またしても背中に飛んできた。
(嫌いなあいつ・終)