「嫌いなあいつ」(『スクリフェッド』)①
呉島耕明
「それがあれば皆が幸せになるかもしれない、本当に幸せになるかは分からないけどなるかもしれない魔法の道具があったとする。それが、泥に塗れて淀んだ沼の中に埋まっているんだ。それを、汚泥を被って掬い上げようとする。政治っていうのはね、元来そういう作業で在るべきなんだよ。綺麗事だけで治世は立ち行かないもので、時々思い切った決断も必要になる。国民からも、その時は叩かれるかもしれない。でも、結果的に少しだけいい未来に進む。進まなかったら、ちゃんと説明をした上で謝罪する。それを今の政治家はさ、説明を求める国民に対してのらりくらりと言い訳して躱すだけで、曖昧な言葉でお茶を濁して、反省が伴わない。だから、国民もああなる。政治=腐敗の印象を持って、何をやっても批判するだけの、批判したいから批判するだけの奴らが現れる。文句を言うだけで、一丁前に国民主権に参加した気になっている奴らも出てくる。税が高いの、対応が遅いの、叩くべきはそういうところじゃないと思うんだ、僕は。そもそもだね、やれ若者の政治離れだ日本は終わりだって言っている輩こそ、選挙でそういう現状を自ら作り出して……」
「……で?」
口角泡を飛ばして、とは自分では言わないのかもしれないが、それ程熱を込めて話していたら、説教の相手である中間由介のゼラチンのように反発力のある、冷たい一言が飛んできた。いや、一言ですらない、一文字だ。僕は思わず、むっと彼の顔を睨み付ける。
中間は見る者を不快にするような、嘲りの込もった笑みで口元を歪め、お手上げのポーズを取って言葉を続けた。
「がっきゅーいーんちょー、結局何が言いたいんすかあ?」
「だからね、僕は学年の風紀を整えるという意味では政治を行っている訳だ。恨まれるのは当然と言っていいが、クラスの総意で選んだ委員としては、君たちに着いてきて貰わなきゃお話しにならないって事さ。君のような奴が居ると、学年の団結や向上心を損なう。延いては学校全体の面汚しになる。改めなさい」
言いながら僕は、暖簾に腕押しである事を経験から実感しているので、半ば諦念を含んだ口調になってしまう事を矯正しようとした。僕が諦めれば、こいつの悪行は増々校内にのさばるに違いない。
「あー、あー、俺馬鹿だからよく分かんないっす。結局呉島、何に怒ってんの?」
「まず人の話を聴く時に背凭れに寄り掛かるのをやめなさい。シャツは第二ボタンまで閉める事、ズボンの中に入れる事。上履きの踵を潰さない事。それからその飴食べた棒、直にブレストポケットに入れるのも。そして何より、掃除中に箒を持って走り回った事について反省しているの?」
僕は、放課後に入る直前に彼の愚行により起こされた事態を思い出し、むらむらと怒りが蘇ってきた。本当に呆れると怒りすら湧かないと言うが、あれは嘘だ。彼くらいの馬鹿を見ていると腹が立ってくる。
帰りのホームルームの前に廊下の掃除をしていたら、急に彼が何か用事を思い出したらしく、箒を持ったまま廊下を駆け出した。廊下には雑巾がけをしている下学年の生徒も居り、蹴り倒されたりしたら大変なので、同じ清掃班だった僕は追い駆けた。彼は曲がり角を曲がる時、防火扉に箒の先を引っ掛けてよろめき、僕がそこを取り押さえた。
すると彼は、箒の汚れた部分を僕のズボンに擦り付けて撃退を図ってきた。僕は彼の手から箒を捥ぎ取ろうとし、揉み合っているうちに職員室前の壁の掲示板に激突した。学校紹介のポスターが貼ってあった掲示板には大穴が開き、ドタバタという音に驚いた教師たちが次々に集まってきた。
「結局僕まで怒られたじゃないか。君と居るとろくな目に遭わない」
「廊下ダッシュくらいで怒りすぎだろお前、それから後の事は自業自得だよ」
「お前が言うな!」
棒リレーのように箒を二人で横に持ち、学年主任を含む教師たちに取り囲まれた時の屈辱と言ったらなかった。謝るのは僕ばかりで中間は不貞腐れたような態度を続けており、業を煮やして僕からも注意すると、彼は「お前も先生かよ!」と言って箒で僕の頭を叩こうとしてきた。僕も箒を取り上げようと応戦し、何だか江戸城の松の廊下で私闘を行っているような気分になった。
教師陣の堪忍袋の緒が切れかけた時、担任の先生が現れて彼らを宥めてくれたので事なきを得た。その隙に中間は逃走し、僕が事情を説明すると、担任は「呉島も大変だな」と憐れむように言った。
教室に戻ってきた中間から話を聴くと、昼に購買で買い忘れていたスナックの事を思い出し、丁度棚の整理が行われる時刻だったので秒を争うと思い、走り出したとの事だったので、全身から力が抜けそうになった。
「高校生にもなってさ、自覚が足りなすぎるんじゃないの? 中学四年生、いや、小学十年生だな。君みたいな奴に合格をやるこの学校もどうかしてるよ」
「俺から言わせて貰えばな、お前が真面目すぎるよ。高校生なんて、もっと楽しんで生活すればいいじゃねえか。そこまでビシッビシッとやってたら、今に自家中毒起こしちまうって」
「ほら、これだ。モラトリアムは遊蕩期間じゃないし、楽しむって事は誰かに迷惑を掛けるって事でもない。そうやって貴重な若い時間を、生産性のない馬鹿三昧に蕩尽して社会に出て、右も左も分かんなくなるからろくな仕事も出来ない奴が増えるんだ。僕は少なくとも、そうはなりたくないね」
「社会だ仕事だって、誰も彼も同じ事しか言わねえよ。学校はコピー人間製造工場かよ。個性を尊重するだ何だって、口だけじゃんか」
「君みたいに一端の技能も持たない奴が、好きな事して稼ぎたいだの縛られるのが嫌だだの、そんな甘えた事言ってるから労働力不足が解消されないんだ。夢もない癖に夢見たがるんじゃないよ」
言いながら、何の話をしていたんだっけ、と頭を捻った。どうも、こいつと話しているとどんどん本題から外れていく。自分まで馬鹿になってしまったような気がするのだが、これも彼のペースに巻き込まれているという事なのか。
「とにかく」僕は、自分で軌道修正すべく手を叩いた。「僕は君の、その腑抜けた生活態度を更正するまで諦めないからね」
「おお、怖っ」
中間は戯けたように肩を竦める。僕は机の横に置いておいた鞄を肩に掛け、黒板の端に掛かっていた鍵を手に取って出口に向かった。
「説教してくれる人が居るだけで感謝して貰いたいね。そっぽ向かれた時点で終わりなんだから。……ほら、さっさと荷物持って出ろ。施錠しないと」
「はいはい」
彼はガタンと椅子を鳴らして立ち上がり、その上で胡坐をかいていた足を上履きに突っ込む。僕が「踵っ!」と叫ぶと、渋々というように指を入れ、潰した踵を立て直した。
彼が出るのを待って教室を施錠し、廊下の靴箱から外靴を取り出して履き替える。彼もそれに倣う。さすがに彼も、革靴の踵は潰していないようだ。
「なあ、この後暇?」
「暇な訳ないだろう。僕はこれから図書室に行って勉強しないと。再来週から試験じゃないか」
僕が答えると、中間はぶるぶると頭を振る。勉強という言葉を聞いただけで蕁麻疹が出るような奴だ、汚いものでも飛んだかのように激しい動きだった。
「全く、お前はどうしてそこまで固いんだ……」
「生まれつき」
「嘘だー、小学校の頃はもっと丸かっただろうが」
「小学校時代を知る者として、泣いた話と恋の話と、根本から変わった思想については口に出さないのがマナーだよ」
「思想だなんて大袈裟だな。でも俺は、あの頃の呉島の方が好きだったぜ」
「僕は嫌いだ。ガキだったんだ、あの頃は。君が成長しないだけさ」
何故、僕はこの中間と友達だったのだろう、と思う。
* * *
小学生時代、在学中にアパートから転居した僕の家は学区外にあった。朝は六時半頃から家を出て、誰も歩いていないような通学路を石を蹴って歩き、帰りは夕焼けチャイムが鳴る時間まで、疲れた矮躯にランドセルを乗せて歩いた。
道中に貨物列車の線路があり、当時の僕はそこを通る列車が怖かった。夕暮れ時、黒々とした巨大なコンテナを積んで轟音と共に駆け抜けるそれは、傾いた夕陽を遮り、延々と続き、あたかも僕を家に帰すまいとする怪物のように見えた。線路に近づいた時、カンカンという音と共に遮断機が下りてくると、僕はそれが百鬼夜行の往来を告げる合図でもあるかのような、焦燥に飽和した気持ちで身を翻し、少し離れた坂の上まで逃げた。
坂の上で、何分も掛けて通り過ぎていく貨物列車を絶望的な目で見ていた時、彼が話し掛けてきた。その時の会話はよく覚えていないが、恐らくごく普通に、「何しているの」という類の話だったのではないか、と思う。
中間の家は丁度踏切を越えて五十メートル程進んだ場所にあり、ぎりぎりで学区内だったが、遠い事には遠かった。だが僕と同じように余裕を持って登校、という事はせず、午前七時四十五分の朝ドラが終わる頃に家を出て、八時半の朝の会が始まる直前に教室に駆け込んできた。僕は毎度彼が遅刻寸前だな、という事は知っていたが、別段興味があった訳ではなかった。クラスメイトA、もしくはB、のような認識だったと思う。ごく普通に鬼ごっこをしたり、木登りをしたり、漫画を読んだり、宿題を忘れてきたりする、普通の小学生と同じように思っていた。
僕は誰とも対等に付き合っていたので、とりわけ親友と言えるような子供も居なかった。ここで中間が、踏切が怖いと言った僕を笑い飛ばし、手を繋いで渡った事が特定のクラスメイトとの深い付き合いの端緒、もしくは特別な感情の萌芽というべきものだったのではないだろうか。
中間は、方向が同じ友人たちに混ざるでもなく自然に紛れて、いつもだらだらと帰っていたらしい。
それからどんなやり取りがあったのか、僕たちは帰宅を共にするようになり、教室でもよく話すようになった。小学校六年生まで奇跡的に、否、偶然にもクラスが変わらなかったので、腐れ縁の交友は続いた。
中学時代、同級生たちにも独立の思想や趣味嗜好、アイデンティティや性意識などが芽生え、人格が出来上がってくると、交友関係というものは一気に拡張される。自分を保ったまま場に溶け込む、という事が出来るようになるからだ。
僕は成績を意識するようになった。小学時代の通信表など、一年に二回貰って親に見せて称賛を貰ったり指導を受けたりする紙程度の認識しかしていなかったものが、試験には順位が付くようになるし、「受験」という言葉が飛び交うようになり、必然的に意識せざるを得なくなる。寝室とは別に部屋も与えられるようになり、僕は学習習慣を自ら確立しようとした。
一方中間は、スマートフォンを与えられた事でネットゲームに目覚め、友人たちと界隈を形成したり、部活動に所属して僕の苦手なサッカーなどの試合にも積極的に参加したり、図書室に入り浸ってライトノベルに耽溺したりするようになった。噂話や陰口や猥談に花を咲かせる事もあったし、帰りに寄り道して買い食いしたりなどもあった。
僕は、自分の趣味というものをあまり持たなかった。読書は好きだったし、休日は家でネットに繋がっていない古いPCを弄ったりもしていたが、他人と話せる程のものを持っていなかった。結果、中間に着いて歩きながらも誰と話す訳でもなく、彼らが放課後の校門前で雑談の為にたむろしたり、寄り道したりするのに付き合うだけとなった。その間ずっと、周りの目、特に教師や地域の人の目に怯えていた。彼らと同列に扱われる事が嫌だ、という気持ちが、その頃既に萌芽していた。
当然にやっている事が、段々真面目と呼ばれるようになった。学級委員やイベントの実行委員、生徒会選挙の管理委員や合唱コンクールのパートリーダーなども、信頼という名目で任されるようになった。そして、多忙な日々が訪れた。そうなると、僕も同級生たちとのそのような時間が、非常に無為なものに感じるようになってくる。そのうち僕は、独りで帰るようになった。
* * *
最初に中間を注意したのはいつだっただろうか。確か中学二年生の始まった頃、僕が緑化委員会の活動の一環として、昼休みに校舎裏の花壇の水やりをしていた時の事だった。
そこには、理科の観察の授業で使う為に学年で一人一人花を植え、結局有耶無耶で流れてしまった鉢植えが幾つも置いてあった。皆水やりなど忘れているようで、殆どの鉢が黄檗色になって乾燥した花を寂しく突き立てていたが、僕は辛うじて枯れていない鉢を探しては、それにも水をやっていた。
花壇の縁に腰掛けて俯いている中間を見つけ、具合が悪いのかと思って声を掛けた際、彼が両手に収まる程の携帯用ゲーム機を操作しているのが目に入り、咄嗟に僕は「何やってんの!」と叫んでしまった。
「ああ?」
「学校にそういうものは持ち込んじゃ駄目なんだよ」
「知ってるよ、そんな事くらい。でもバレなきゃ犯罪じゃねえって言うだろ」
「校則を守れって。僕が告げ口すればバレるよ」
「お前、友達を売る気かよ?」そこまでは、彼も冗談めかした口調だった。
「不良の友達になる気はないし、ルールを破ってる奴の事を先生に言うと『売る』って事になるのか?」
僕は、そのような自分と敵対するものに対して、如何にも相手の方が悪いような言い回しを使う奴が大嫌いだった。注意に留まっていた口調に紛れ込んだ棘に、そこで中間も反応した。
「ルール、ルールってさ。お前も染まってきたよな、そういうのに。授業中にやってる訳でもねえんだし、誰かに迷惑掛けてる訳でもねえしいいだろ」
「迷惑掛けなきゃ何でもありだったら不公平じゃないか。ルールを破る奴が得するような仕組みになっちゃったら、皆が破っちゃうじゃないか」
「不公平? 堂々やる勇気もねえ奴らが勝手に言ってるだけだろ。ダセえんだよ、そういうの」
「そうやって自分に酔ってろ、不良」
僕は、彼の鉢に残っていた、当然枯れていた花の残骸を引き抜いて投げ付け、さっさとその場から離れた。背後で、中間が鉢を蹴り上げる音が聞こえた。
結局その後、僕はこの一件を教師には報告しなかった。まだ、そこまでの勇気は僕にもなかったようだ。
* * *
あって欲しくなかった二度目があったので、さすがに僕も担任に告げた。担任の先生は理解のある人で、中間の言葉で言えば「告げ口」があった時、後から逆恨みが生じるのを防ぐ為、指導する生徒にはその出所を言わないようにする人だったが、僕の場合前例があったのですぐに中間に知られた。
「呉島。お前さ、担任にチクっただろ?」
僕は間違った事をしたつもりはないので、平気だった。
「ああ。僕が言っても効果はなかったみたいだからね」
「ふざけんなよ。少し頭いいからってお高く留まりやがって」
「そんな語彙、よく君の辞書にあったね」
君の頭が馬鹿なだけさ、と言う前に、中間が僕の肩を軽く突き飛ばしてきた。それも校舎裏の地面がコンクリートの場所での事だったので、やりすぎるといけないという自制は働いたのだろう。僕は校舎の壁に背中をぶつけ、彼は僕の顔のすぐ横の壁に右手を突いた。僕よりも十センチ近く身長が高かった彼に至近距離で上から睨まれたが、僕は彼の頭は海綿のようなものだと思っていたので、威圧感も何もあったものではない。
「僕みたいになれとは言わない。でもさ、少しは真面目になれよ」
「ノリが悪いのは別に構わねえけどさ、それを他人にも押し付けんな」
「見解の相違だと思うね。真面目という言葉を頑固まで布衍した覚えはない」
「いいや、誰が見ようとお前は満場一致で頑固だ。お前、友達欲しいのか欲しくねえのか分かんねえよ」
「友達は選ぶ。君みたいな悪ガキと付き合って汚染されたくないからね。絶交だ」
「絶交すんなら絡むなよ!」
「僕の言ったのは、友達としての関係を切るって意味だよ!」
「言葉の意味を勝手に変える程、お前は偉いのかよ?」
「少なくとも君よりは褒められてしかるべきだと思うね!」
「思うね!?」
僕が彼を本当に嫌いになったのは、この日だったと記憶している。
* * *
嫌いな奴に越される程屈辱的な事はない。身体能力も、頭脳も、身長や容姿の美醜も、作業の速さも。努力しない馬鹿はただの馬鹿、と思っている僕は、不真面目で頭の悪い彼に負ける事はないと思っていた。だが、彼は思いがけない場所で僕を越えてくる事がある。
「なあ呉島、お前持久走の記録どうだったよ?」
濡れタオルを首に巻いた、上半身裸の中間が話し掛けてきた。うざったい奴だ、と思いながらも、内心びくりとした自分が居た。
「……七分二十三秒っ」散々走らされた後で四階の教室まで階段を登らされ、体力のない僕は息も絶え絶えだった。顔が真っ赤になっている理由を、呼吸器への負荷だと自分に言い聞かせながら答えると、彼は「よっしゃあ」と叫んだ。
「俺六分五秒! 勝ったぜ!」
「……別に競争しているつもりはないから……」
僕は、熱気が籠って重くなっているジャージを脱ぐ。
「おやおやー、負け惜しみですかな?」
「じゃあ中間、この間の漢字百問テストの点数は?」
うっ、と今度は彼が詰まった。
「……三十三点っ」
「僕は百点だ!」高らかに言い放つと、彼は青筋を立てた。
「今持久走の話してんだろっ!」
半裸で言い合っていると、いつの間にか教室の男子たちは既に着替えを終えており、別室で着替え、廊下で遅い遅いと言いながら待っていた女子生徒たちが入ってきて「キャーッ!」と叫んだ。
大変極まりが悪かった。
* * *
「呉島と中間ってさ、ライバルなの?」
高校入学から間もない頃、恐らく第一回定期考査が終わった辺りの事だった。高田というクラスメイトからこう尋ねられた。
僕は公立高校が第一志望だったので、この高校は滑り止めで受験した。不安症の僕は、模試で導き出した自分の偏差値よりやや下の学校を、勿論ただの滑り止めにはしたくなかったので自分に適性のありそうな場所を選び、過去問を買って何度も解いた結果、国語、数学、理科、社会、英語の五教科を全て九十点以上、百点も何教科か取って及第した。公立受験には、誠に恥ずかしい事だが僅かに力が及ばず、こちらの学校に通う事になったのだが、そこに中間が居た事は予想外だった。
中学校三年次、僕と中間が対立している事は教師陣の間でも話題になっており、予想以上に深刻に捉えられたのかクラスが初めて分けられた。だから彼の希望進路については全く知らなかったのだが、後で話を聴いたところ、どうやらスポーツ推薦で受験を乗り越えたらしい。
現在の高校に進んだのは僕と中間だけであり、どちらか一方が休んだ時は、クラスに馴染むまで諸々の連絡や課題についてお互いしか尋ねられる人が居なかった。ので、高校入学と同時にスマートフォンを与えられた僕は彼からの要請により、不承不承ながらメールとLINEの連絡先を交換した。
LINEの「友だちリスト」に彼が居る事がムカついたので、「ユカイなナカマ」で登録している彼の登録名を「中間由介(事務連絡用)」に設定した。
教室でよく一緒に居るのに、しょっちゅう口論したり競争したりしている僕たちを怪訝に思ったのだろう、高田は尋ねてきたが、僕は全否定した。
「ライバルなんて、同じくらいのスペックがある奴に使う言葉だろう? あんな不良に、僕がそんな意識を持つはずがないじゃないか」
「でも、中間はお前に順位で負けて、すっげえ悔しがってるみたいだったぞ?」
「あいつは脳筋野郎だから。何事も競争しないと収まらないんだよ」
「呉島も、バスケのシュートが入らなくて悔しがってた」
「それは、自分が悔しかっただけだよ。中間に負けたからじゃない」
「彼の事、どう思ってる?」
「消えて欲しいくらい目障りだ。大嫌いだよ」
「ふうん……」高田は意外そうに眉を上げた後、「でもさ」と言った。
「好きの反対は無関心って言うよな? 呉島はさ、意識はしている訳だろ?」
「言わないよ。マザー・テレサが言ったのは『愛の反対は無関心』だ。好きの反対は嫌いだよ、単純に」
「じゃあ、愛だ」
「気持ち悪い事言う奴だな、君も……」僕はげんなりした。
「どうしてそこまでして、中間を更生させようとするんだよ?」
「不良が居ると不快だし、学年の調和も乱すからな。本当は消えてくれって思うけど、それが出来ないから直すしかないんだ」
「放っておいた方が、よっぽど不快さを感じないと思うのは俺だけかなあ……」
僕もその辺りは、よく分からない。
やはり僕は、少し頭が固いのだろうか。
* * *
職員室に鍵を返してから図書室に行くと、何故か中間も着いてきた。入口のロッカーに靴を入れ、代わりに中に入っていたスリッパに履き替えてロックを掛ける。
「具体的には何の教科を勉強するんだ?」
「数学Ⅰと物理基礎、その他諸々。っていうか君、何で僕に着いてくるのさ?」
「何となく。お前がどんな勉強方法をしているのか、見てみてもいいかなって」
「暇かよ……」
僕は溜め息を吐き、彼に構わずテーブルの一画に鞄を置いた。それから、三メートル近い本棚の迷路に体を滑り込ませる。
私立高校だけあって、この図書室の規模は文化センターの図書館を上回っているかもしれない。半ば古本と化した背表紙の文字列が一気に四方八方から目に飛び込んでくる様は、何度来ても圧倒される。だが、三メートルも縦に棚を伸ばす意味はよく分からない。あれでは誰も届かないだろう。
僕は、広辞苑や大辞泉や大辞林の並ぶ辞典コーナーに進んだ。
「あれ、やるのは数学と物理じゃないのか? 何で国語辞典なんか……」
「その他諸々っても言っただろう。国語ワークの読解問題の小説に、読みも意味も分からない漢字があってさ。調べようと思ったんだよ」
「スマホでいいじゃん、そんなの」
「読みが分からなかったら入力も出来ないじゃないか」
「レンズとか、IMEパッドとかさ」
「それに僕は、今までスマホがなかったから辞書の方を多く使ってきたしね。自分で索引を見たり、ページを捲ったりした感覚の方が忘れられないからしっかり定着するような気がするな。分かんない事、検索してその場は分かって、使って忘れて終わりになっている人とか居るだろう?」
「……それ、俺への当て擦りじゃねえだろうな?」
「自覚はあるんだ?」
言いながら、僕は一冊の辞典に手を伸ばそうとした。が、そのタイミングで気付いた。僕の愛用していたものが、いつもの位置にない。辞典の貸し出しは行われていないのにな、と思いながらその周囲の本を見回すと、すぐに理由が分かった。
前回使った人が、元の位置に戻していないのだ。背表紙に番号のラベルが貼ってあるのに、無視した人が居るらしい。全く、これだから、と思いながら視線を暫し這わせていると、見つかった。
棚のかなり上の方、三メートルの天辺辺りとまでは行かないが、僕の身長では届かない辺りにそれはあった。無造作に置いたのだとしたら、余程背が高かった人に違いない、と思い、地震になった時に危ないのだから、重いものをそんな高い場所に置くなよ、と内心で文句を垂れた後で、途方に暮れた。背伸びしてみたが、背表紙の下の方に微かに指先が触れるだけだ。
椅子でも持ってこようかな、と思い、棚の迷路の入口の方を振り返る。中間が立ち塞がっていたので、邪魔だ、と言おうとしたところ、それより早く彼が「ちょっとどいてろ」と言った。
反射的に退くと、彼はこちらに進んできて、少し踵を上げただけで難なくその辞典を手に取った。「ほらよ」
「えっ?」ごく自然にそれを渡され、僕は呆けた声を出す。「あ……どうも」
「相変わらずチビだな、お前。牛乳を飲め、牛乳をよ」
相変わらず一言多い奴だ。
「飲んでるよ。毎日、朝と帰ってからと夕食後の三回、コーヒー入れて」
「コーヒー飲むと背が伸びなくなるって、うちの祖母ちゃんが言ってたぜ?」
「俗信だよ、そんなの。その噂の出所は多分、コーヒーを飲むとカフェインを摂取する事になるから眠れなくなって、成長ホルモンが出なくて背が伸びなくなるっていう理屈なんだろう。規則正しい生活をしている僕が伸びなくて、エナジードリンクで昼夜逆転している君が伸びるのは、単純に神様の不平等だ」
「俺は学校で寝てるから。寝る子は育つって言うだろ?」
「成長ホルモンがいちばん分泌される夜十時から深夜二時までの間にノンレム睡眠状態にある子は育つ、が正確だ」
「やれやれ」
何の話をしているのか、またもや意味不明な会話になってしまった。棚の向こうを通り掛かった図書委員から「図書室ではお静かに」と注意された。
「いや、こいつが……」
二人で同じ言葉を言いかけ、同じタイミングで口を閉ざす。僕は肩を竦め、通路を塞いでいる彼に「ほら、戻った戻った」と言って背中を押した。
「……なあ、呉島」
先を歩きながら、中間が矢庭に声を出した。