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「通学電車」(『スクリフェッド』)

 受験に合格した途端に堕落するような人間にはなりたくない。

 そう彼は思っていた。


          *   *   *


 彼の通っている高校は、午前八時四十分に始業である。この時刻を過ぎれば朝のショートホームルームが始まり、出欠を取られる。この時刻までに教室に入っていないと遅刻と見做され、遅刻者はわざわざ執務室に行って入室許可証を貰わないと入室する事が出来ない。

 とはいえ、これには各学級担任の匙加減も大きく関わってくる。

 一、二分教室の床を踏むのが遅れただけで通信表に遅刻数がカウントされるのはあまりにも酷だという事で、活動に支障を来さない程度の遅れであれば許容する教師も居る。ホームルームで重要な連絡がない限り、ここを丸々過ぎても遅刻扱いにしない教師も居る。更に土砂降りや豪雪の際、公共交通機関が少なからず遅れる事は当然だろうという事で、その時は完全に公認欠席とする者も。

 ただ、公共交通機関が遅れたからという理由で遅刻を公認とする場合、遅刻者には遅延証明書の提出が義務付けられる。だがこれに関しても、明らかに天候が悪かったり、事故があったというニュースが大々的にネットに出回っていたりすれば、免除をする教師は居る。

 彼の学級担任は、これらを許容する部類の教師だった。

 午前八時四十一分。席が教室中央の辺りに位置する彼の視界に入ってくるのは、五割方空席となった机と椅子の群れだった。現在集まっている生徒にしても、始業の数分前からちらほらと集まり始め、担任が教室に現れると同時に鞄を下ろした者たちばかりである。

 ──一年次や二年次は、こうではなかった。

 担任が出席簿を開いた瞬間、

「すいません、遅れました」

 形(ばか)りの挨拶をして、平然と教室の前の扉から入ってきた生徒が数人。後からも続々とそれが続く。

 何故、彼らの内申点がなくならないのだろう、と彼は思う。日常茶飯事すぎて、これを遅刻としては彼らの進路に関わると先生方も思っているのだろうか。

 そんなの、自業自得じゃないか、とも思う。

 もしくは、先生方も自分たちの学年から出席日数不足で留年になるような生徒が出ると自分たちの責任になる、と思っているのだろうか。ある個人の問題が一定数を越えると、またか、仕方ないな、と甘く見られてしまうというのは、どうにも真面目にやっている生徒にとっては不条理だよな、と彼は感じる。

「お前、最近毎日遅刻しているんじゃないか?」

 先生に軽く注意され、最初に「すいません」と言った男子は言い訳する。

「俺が乗る電車、八時半にS**駅出発なので、学校に着くとギリギリになっちゃうんですよ。もう少し始業時間遅らせてくれてもいいような気がするんですけどねえ……」

 ほら、これだ。

 それなら、それより一つ早い電車に乗ればいいじゃないか。

 彼は、何事も早くしないと落ち着かない性分である。一年次、彼は学校が運行しているスクールバスで通学していた。当時は諸事情により、始業が九時だった為にこれに乗っても八時三十五分前後には学校に到着する事が出来、余裕を持って教室に入る事が出来ていた。だが、始業が現在の時刻となった二年次以降、これに乗るとぎりぎりで遅刻せずに学校に到着する為遅延証明書が貰えず、教室に入る頃には遅刻する、という可能性が高くなる為利用をやめたのだ。

 バスの送迎時刻そのものをもっと早くして貰えないか、と学校法人局に訴えた事もあったが、係の人曰く、送迎バスは県境の方から通学してくる人も利用する為に早い時刻から運行する、だからこれ以上早くするとその人たちが五時半頃までにバス停に並ばなければいけなくなる、という事でそれは出来ないという事だった。彼は、比較的学校に近い場所に家があり、たまたま家の近くにバスが停まるので利用していたのだった。

 もしそれで遅刻になっても学校側からバス会社に確認が行く為、公認扱いになるだろう、と係の人は言ってくれたが、彼はそもそも遅刻に不安を覚えていた事よりも、朝の余裕がなくなる事が嫌だったので、潔くバスの利用を断念した。

 今では彼は、自宅の最寄り駅であるY**駅まで十五分程徒歩で向かい、そこから十分程地下鉄に揺られてT**駅に、T**駅から電車に乗り換え五分でS**駅に移動、そしてそこで乗り換え、約五分で学校へ到着する、という手順で通学している。教室に着くのは常に彼が一番で、毎朝執務室に寄っては鍵を取り、教室を解錠する事が日課だった。

 担任が教室に入ってくるのは始業時刻とほぼ同時なので、直前に慌てたように駆け込んでくる大部分も自分も、同じように教室に居るのを目にしている事だろう。

「でも、俺たち合格決まったからもう平常点とか関係ないですよね?」

「あのなあ……」

 なるほど、そうか、と彼は得心する。

 皆が遅刻に危機感を持たなくなったのは、高校三年の冬というこの時期、大学やら専門学校やら就職やら、続々と進路が決定しつつある事によるものだったのだろう。入試用評定は、一学期期末考査が終わる六月頃にはもう出される。それを調査書点として受験に臨み、及第したのであれば、もうこの先の事はどうでもいい、という事なのかもしれない。

 そう言えば、三学期末考査が終わってからというもの、欠席もどっと増えた。中には、ここ最近ずっと姿を見せない者も居る。ホームルームの出席確認の際に原因が分からず、後から教師たちが確認を取っているというのだから、彼にはそういった生徒たちが何故欠席を続けているのか知る(よし)はない。

 堕落だよな、と彼はつくづく思う。

 何の為に、高校に進学する事を選んだのだろう? それは当然、自分の為の学習をする為だろう。如何に効率よくサボるか、を基準に物事を考えているのなら、そもそも最初から高校になぞ来なければいいのだ。

 欺ければいい、というものではないではないか。ある一定の基準に必要な最低限の評価で、他の者と同列に評価が行われるのであれば、進んで奮励努力し、寸隙を惜しんで己の向上を図る者たちが馬鹿を見る。

 朝早くから、彼は溜め息を()いた。

「すいません、電車遅延しました」

 また別の一団が、ホームルーム開始から五分程過ぎた時点で教室に入ってくる。遅延証明書は持っていない。

「え、嘘? お前使ってるの、何線だっけ?」

 先程遅刻してきた男子生徒が尋ねる。

「○○線だよ、線路内に人立ち入りあったらしくってさ。K**駅で三十分くらい止まってる」

「えー、マジかよ! 俺もそっちで一本遅く乗ってればワンチャン一時間目やらなくて良くなったかもしれないのにな。あー失敗した!」

 あーあ、と彼は思う。


          *   *   *


 年が明け、一月中旬の事だった。

 その日は、昨夜から吹雪で、公共交通機関の多くが麻痺までは行かないが、広範囲で遅延が見られた日だった。彼はY**駅を出発した地下鉄に揺られてT**駅に向かいながら、断続的に鳴るクラスのグループチャットの通知音に煩わされていた。

『雪ヤバくて草』

『電車止まんねえかな』

『俺もう今日休むわ』

 通知をオフにしようかな、と思いながら、彼は心の隅で、「どうして自分はこんな雪の中を通学しているのだろう」と考えている自分が居る事に気付く。

 もう、進路も決定したし最後の期末考査も終わった。授業内容といえば、各教科で自習ばかりだ。四十分間、各駅での待ち時間を含めれば一時間、往復で二時間も掛けて登校する事に、何の意味があるのだろう、と思ってしまう。だがそこで、それを怠慢の肯定とはしない、否、手を抜く事の出来ないのが、彼の生まれながらの性格だった。

『教室全然人いないんだけどww』

『これもう今日学校休みでいいっしょ』

 自分だったら、この無為な移動時間と待機時間をもっと有効活用出来るのにな、と彼は考える。大雪の中の登校に意味を見(いだ)せないのは、グループチャットで騒いでいるような者たちのサボり根性の渋滞ではなく、自分にとっての時間は暇を持て余した彼らの何倍も貴重だからだ。

 彼は自分に言い聞かせながら、それを基礎部分としてその上にグループチャットの文言と全く同じような思考を並べ始めた。


          *   *   *


 T**駅に着くと、目的であるS**駅行の電車のホームに向かう改札上部の電光掲示板に、電車の遅延情報が表示されていた。運休はしていないものの、運転再開の目途は立っていないらしく、遅延は「大幅」とのみ書かれている。

 ──よっしゃ、と、彼は胸中で快哉を叫ぶ。

 近頃の授業と言えば、諸々の教科書の範囲も終わり、ほぼ自習や補充の問題ばかりだ。実技系教科も単位は出ている上に実りのないルーティン作業ばかりなので、内心では「受ける意味がない」と言っている同級生たちと同意見だった。今やそういった授業では、教室では視界に映る五割は睡眠学習に入っており、四割は机の陰で内職めいた事をしている。教室外では、技術制作を除いて殆どの個人作業は雑談の場になっていた。

 あからさまにサボる人には、よくそんな勇気がある、と皮肉めいた賞賛を脳内で送っていた彼だったが、彼が軽蔑していたのは、そのような状況下で流れ作業で授業を進める事(なか)れ主義の教師たちもだった。

 彼の最も嫌いなものは時間を無駄にする人間であり、もっと嫌いなものは「他人の時間を無駄にする人間」だった。

 彼は、時間の価値は平等ではない、と思っていた。有意義か無意義かの話ではない。それは限られた時間を活用する人の行為の結果として、その時間に与えられた意味であり、彼の考える価値とは、空白の時間に与えられた絶対的、共通的なものだ。

 高邁な理想を抱き、それに向けて刻苦勉励する人の時間こそ価値があり、それを懈怠のうちに蕩尽する人の時間はことごとく無駄である。そして、その無価値な時間に自分が引き込まれる事程、彼を苛立たせるものはなかった。

 だが、彼は何事にも手を抜くという事が出来ない性格だった。それが、真面目で何事にも誠実だという事の現れではないという事は、自分でも理解していた。よく堂々とサボれる勇気がある、というのはアイロニーでありながら、半ば本気の感心でもあった。

 ──遅刻に対してあの甘さの学級だ、この大雪の状況下なら、遅延証明書を貰わずとも自分も公認欠席になるだろう。

 彼は改札前のベンチに座り、読書を始めた。

 してもさして意味のない授業を、合法的に別の時間に充てる事が出来るのだ。急ぎの人には不謹慎な話だろうが、これは僥倖と考えよう。


          *   *   *


 そして一時間半程が過ぎた頃、学校連絡用の緊急メールが通知音を響かせた。

 淡い期待を覚えつつ見ると、そこには「臨時休業のお知らせ」とあった。


「……これらの事を承け、本学園としては生徒及び職員が明るい時間帯に安全に帰宅出来るよう、現在学園に居る生徒は各交通手段が復旧し次第下校、職員は十四時退勤、各校舎は十六時半閉門とする。

………」


 すぐさま、グループチャットに「【朗報】」と始まるメッセージと共に、各々(おのおの)が喜びの声を寄せ始める。だが中には

『今更すぎんか?w』

『どうやって帰れって言うんだよ』

『要領悪くてマジでゴミすぎ』

 というようなものも含まれていた。

 本当に勝手なものだよな、と思いながらも、彼は今日一日自宅で自由に使える時間が増えた事に歓喜を覚えた。同時に、今チャットで喜んでいるような輩は、家に帰ったところでどうせ変わらず無駄な時間を過ごすんだろうな、と思った。


          *   *   *


 間もなく、彼が下校にも使用するY**駅行の電車が止まった。

 下りの途中で、線路内に人立ち入りがあったらしい。それならば、まだ馬鹿な事をする奴だ、で済ませたかもしれないが、不幸な事にその時線路脇の斜面から雪が崩れてきた為、大事故になった。

 S**駅への電車は相変わらず復旧の目途が立っていない。

 Y**駅に引き返す列車も、この分では遅延は数時間では済まないかもしれないとの事だった。事によると、除雪や被害者の救助、以降の道の安全確保など、諸々の作業を含めて今日中には運行再開が出来ない事も有り得る。

 彼は、自宅に帰る手段を失った。

 さて、どうしようか。



(通学電車・終)

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