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後編


 お義母さんはこれ見よがしに生まれた子をかわいがっては、あたしに向かって子どもはまだかねえ、と言うので、言葉を覚え初めの子どもまで同じことを言うようになってしまいました。


 大人達は笑っているけど、物心ついたかどうかわからないような子どもにまで責められているようで、あたしはとても嫌な気持ちがしました。

 治助さんのお嫁さんのモンちゃんは気持ちのよい人で、子ども産んだばかりで体もろくに休めていないのに、あたしの分まで働いてくれるんです。


 でもそれをお義母さんが見て、モンちゃんがいればあたしはいらないなんて、冗談に紛らして言うのがまた嫌で、太一さんも全然あたしを庇ってくれないし、本当にあたしはここにいるのが嫌になっていたんです。

 うちの味付けと全然違うご飯を食べる気もしなくて、無理に食べたらある時吐いちゃって。


 そしたら、モンちゃんが、身篭ったんじゃないかって言って、そう言われれば月のものも暫く来ていなかったんです。お義父さんもお義母さんも、急にあたしの体の心配をし始めて、あたしは却って気味が悪かったんですけど、でもちょっと嬉しかったです。


 もちろん、子どもはまだかねえ、と言われなくなったし、太一さんもあたしの体を求めなくなって、気が楽になりました。お腹も段々大きくなってきて、稲刈りにも行かなくていいって言われました。

 早く子どもが生まれればいいな、とあたしも楽しみにしていました。モンちゃんの子より年下になっちゃうけど、まあいいか、名前は何にしようかな、生まれたらもっと忙しくなるなあ、色々考えました。


 でも、子どもがちっとも出てこないんです。お石さんもお腹に耳を当てて首を捻るだけで、子どもは出てこないんです。もうとっくに大きくなって、本当なら歩いて二言三言喋るぐらいになっても出てこないんです。


 お義母さんやお義父さんは、また子どもはまだかまだかと言い始めました。あたしはまた具合が悪くなってきました。お義母さんは怠け病だって言うけど、子どもがお腹にいるうちに具合が悪くなるのは、悪阻ですよね。あたし、身篭っているんです。



 ミツは一気に喋り終えて、大きな息を吐き出した。心なしか、布団の山が僅かに萎んだように思われた。

 私は、ふと部屋の入り口を振り返った。ハルは部屋の障子を閉めて行ったのだったが、ぼんやりと幾つかの人影が映っていた。私は黒鞄から聴診器を取り出した。


 「診察するので、掛け布団をめくります。いいですね」


 ミツは返事をしなかった。喋り過ぎて呆然としている体である。

 私は掛け布団を静かに剥がした。小山のような膨れた腹が、薄物一枚にくるまれて現れた。

 聴診器を当てるため着物に手を掛けると、うっすらと汗をかいているせいか湿った感触があった。ミツの目が動いて聴診器に止まった。


 「小学校で健康診断の時に、見た事があるんじゃないかな。これで、お腹の中にいる子どもの音を聞き取るんだよ」


 物珍しそうに眺めるミツに構わず、私は腹に聴診器を当てた。場所を変えて何回も音を聞き直した。

 予想していた通り、心音は聞こえない。母親の心音、呼吸音に混じって胃腸が消化運動をしている音、水がちゃぷちゃぷする音が聞こえるだけである。


 田舎は住人の噂の宝庫である。互いが互いのことを他人に喋り合う。そのくせ、己のことは何一つ言わないのだ。山里家に来た嫁の評判については、前々から私の耳に大方届いていた。

 曰く、働きが悪い、細過ぎる、煮炊きが下手だ、子どもができない、等など。

 私は聴診器を離し、ミツの着物の前を合わせると、後ろで聞き耳を立てている筈の人々に声を掛けた。


 「手術をしましょう」


 障子ががらっと開いた。ハルと太一が顔を出した。


 「手術するだか」

 「そんな金ねえだ」


 二人はずかずかとミツの足元まで来た。私は聴診器を仕舞うついでに、黒鞄を広げた。銀色に磨き上げたメスやらハサミやらがずらりと並べてあった。ミツも含めた三人の視線が、薄暗い部屋で光る金属の塊に釘付けになった。私は注射器を取り出しながら言葉を継いだ。


 「私の診立てでは、想像妊娠です。お腹に子どもはいません。恐らく、慣れない生活に悩んだ挙句、解決しようとした体が自然に反応したものでしょう。意図的にできるものではありません」

 「身篭っていないだか」


 思わず私がはっとして顔を見たほど、ハルが憎憎しげに呟いた。その顔は能面のようで、怒りが表面に現れていないだけに、却って恐ろしかった。


 「わざとやったんじゃないだよ」


 太一は私の言う主旨を理解してくれたようであった。彼は母親からも妻からも顔を背けるようにして、力なく項垂れた。ミツは、何か言いたげであったが、ハルから発散されている怒りの感情に圧されたのか、言葉にならなかった。

 私はもしかして、間違った方向へ進んでいるのかもしれない。しかし、このままにしてはおけない。私は声を励まして、続けた。


 「しかしながら、これだけ腹が大きくなったのは、中に水が溜まっているためだと思います。水を出さなくてはなりません。そんなにお金は要りません。部分麻酔をして、今ここでちょっと切ってしまいましょう」


 都会の病院なら、殺人行為呼ばわりされかねない。しかし、交通網もろくに存在しない山間部で、いちいち設備のある病院まで運んでいたら途中で死んでしまう。そっちの方が殺人行為である。


 貧困に喘ぐ村人達は、病院へ運んで余計な金を取られるぐらいなら、働けるだけ働かして死なせた方がましだと考えている節がある。

 金を惜しんでいるのではなく、出せるものがないのだ。既に聴診器で水の溜まっている部分のあたりをつけた。大丈夫、多分、何とかなる。私はよく切れるメスを抜いて、大丈夫、ちょっと切るだけだという身振りをした。


 「だめ、切らないで」


 くぐもった幼子の声が聞こえた。私はぎょっとして、ミツの腹を見、ハルと太一を見た。彼等もぎょっとしたようにミツの腹を見つめていた。私は我に返り、ミツを見た。彼女は微笑んでいた。浮腫んだ顔の下にある唇がにいっと弓なりに曲がった。


 「まあ、この子ったらお利口さんね。もう喋れるんだわ」

 「三倉先生、どういうことだかね」


 ハルが混乱した表情で尋ねる。私にも答えようがなかった。


 「子どもがいるのなら、尚更外に出さなければなりません。このままでは、母親の体に負担が掛かり過ぎますから」


 私は焦って麻酔を打たずに、いきなり持っていたメスで着物の上からミツの腹を切ろうとした。


 「僕、出たくない」


 また同じ声が聞こえた。ミツは勝ち誇った顔で、ハルを見た。ハルはミツの表情には気付かなかった。その顔には恐怖が表れていた。


 「先生、もういいだ。ミツはこのままでいいだ」


 決断したのは、太一であった。私は持っていた注射器とメスを黒鞄に仕舞い、用意された謝礼を断って、すごすごと山里家を後にした。


 その後、ミツは去り状を書かされて山向こうへ戻され、途端に体も元に戻ったそうである。あの時口を利いた幼子は、誰の目に触れることもなく、消え去った。果たして本当にミツの胎内に存在したのか。ただ、あの場にいた者が、確かにその声を聞いたことは確かである。

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