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前編

 草いきれの中、馬も通れないような細い急坂が続く。

 道の左側は険しい山で、道の右側は切り立った崖のようになっている。その下に、猫の額ぐらいの田圃が連なる。


 既に田植えは終わり、順調に生育しつつある稲葉が青々と、そこらの雑草とは異なる色調で太陽の光を反射している。まだ入梅の時期ではないが、そろそろ蒸し暑く感じるほどには、気温も湿度も上昇していた。私は坂の途中で立ち止まって、額に滲み出た汗を手拭で拭いた。


 上村にも産婆はいる。だから、上村の住人がお産に関して、いちいち私の手を煩わせることはなかった。

 だが、山里ミツがもう二年近く妊娠しているという噂は耳にしていた。


 最初に聞いたとき既に予定日を半年ばかり過ぎていて、一度暇をみて見に来てくれないか、とはそれとなく言われていたのだが、上村を含めて十里四方に医者が私しかおらず、私もそう若くないとなれば、なかなか暇など取れはしないのであった。

 この間、山里家の長男、つまりミツの夫が里まで降りてきて正式に診察を依頼したので、私も何とか都合をやりくりし、重い腰を上げ上村まで足を運ぶことになったのである。


 細く険しい山道を登り切ると、急に目の前が拓けた。上村に到着したのだ。拓けたと雖も、平野でも盆地でもなく、そもそも平らですらなかった。勾配がいささか緩やかになったに過ぎない。


 深い山々に囲まれ、山と山の僅かな隙間に無理やり割り込んだような小さな集落であった。

 家々は細かい坂で区割りされながらも、全体として身を寄せ合って建っているように見える。家の周りの僅かな土も、村人は耕して野菜を植えている。野菜が植えられなければ、実のなる木を植える。梅にしろ杏にしろ、道端には種一つ落ちていない。

 村人が余さず収穫してしまうからである。このような山間の痩せた土地にしがみつくようにして住んでいる人々の気持ちが、私には充分には理解できなかった。


 「三倉先生」


 集落の端に建っている家の陰から、六、七歳の少年が飛び出した。青洟をぴかぴかと光らせながら、坂道を転げるように全速力で走って来る。山里家の四男だった。

 少年はたちまち側まで来ると、袖口で鼻の下を擦り、私が提げていた黒鞄を奪った。急速に成長する彼の身の丈に追いつけなかった絣の袖は、彼の青洟でてかてかと光っていた。


 「遅かっただね。家の皆、首を長くして待っているだよ」

 「ありがとう」


 少年が迎えに来たので、一息入れる間もなく、私は彼を先頭に立てて山里家の敷居を跨いだ。彼が言った通り、一家は首を揃えて私の到着を待ち構えていた。否、ただ一人、ミツ当人を除いて。


 「三倉先生、ようこそおいでくださった。お迎えやろうにも、車も馬も通らねえで、失礼しただ。三次がいれば迎えにやったんだが、今日は向こう村まで出掛けているだ」


 土間から畳へ上がると、山里家の長である権太が手をついて挨拶した。権太の妻ハル、長男太一、次男治助、その妻モンと、迎えの少年四郎は既に平伏している。モンの背中には、すやすやと眠る赤子が括りつけられており、後ろにはわけがわからないながら平伏したような恰好をしている三歳ばかりの男の子もいる。

 私もこの辺りの習慣に従って、同様に手をついて代わる代わる挨拶した。


 「先生、まずはお茶でも」


 挨拶が終わると、権太が囲炉裏端へ案内しようとする。家から歩き通して喉が乾いていた私は、ありがたく誘いを受けることにした。権太が立ち上がるのを合図に、山里一家はそれぞれの持ち場へ散る。

 子どもを除く男衆は長幼の順に従って、囲炉裏端に腰を下ろす。ハルとモンは台所へ一旦消えて、すぐにお茶の道具を持って戻ってきた。

 自在鍵から鉄瓶を下ろし、一同にお茶を入れる。四郎はハルに用事を言い付かって、男の子を連れ席を外したまま戻ってこなかった。


 「産婆のお石婆さんも、首を捻っているだ」


 熱いお茶にふうふう息を吹きかけて冷ましながら、権太が言った。端に控えているハルに同意を求めながら説明を試みる。


 「こういうことは、女衆の仕事だから、わしも実はよくわからんけんども、いつまでも女衆に任せておくわけにもいかねえから、三倉先生にお出で願っただ」

 「近頃じゃ、悪阻だとか言って寝込んでばかりいて、全然役に立ちやしない。先生、悪阻の時期が二度もあるなんて、あたしゃ聞いた事ねえだ」


 ハルが吐き捨てるように言った。モンは自分が悪口を言われているように体を丸め、居心地悪そうにした後、用事を思い出した風に席を立ち、戻ってこなかった。誰も引き止めず、気にもしなかった。嫁の仕事は山ほどあるのだ、特に大家族で、病人も抱えているとなれば。


 結局、彼等にも訳がわからないのであった。私は番茶で喉を潤すと、診察を口実にミツの元へ案内を乞うた。病間へは、ハルが案内を務めた。大して広い家ではない。次の間の隅に、布団を敷いて仰臥しているのがミツであった。目を固く閉じている。起きていれば、先ほどの会話は微妙な言い回しまで余さず耳に届いたことであろう。


 「ミツ、三倉先生がおいでだ。じゃ先生、よろしくお願いするだ」


 ハルは私を枕元へ案内すると、ミツが起きたかどうかをろくに見もせず、さっさと部屋を出て行った。尤もハルが見るまでもなく、ミツは起きていた。姑が去るや否や、ぱっと目を見開いて私を見たのである。浮腫んだ顔に埋もれた細い目を精一杯見開き、話しかけようとする私の先手を打った。


 「先生、あたし身篭っているんです」


 言うなり、彼女は怒涛のように喋り始めた。



 あたしは山向こうの里で生まれ育ちました。お金持ちじゃないけど、食うに困るほどでもなくって、小学校にも最後まで通いました。学校では結構勉強がよくできたんです。でも女だから中学には行けなくて、皆と同じように働いていたんです。


 太一さんと知り合ったのは、秋祭りの時です。太一さんがうちの村へ友達に連れられて遊びに来たんです。それで縁談になって、お嫁に貰われました。

 初めて山を越えてここへ来たのは、嫁入りの時で、それはもうびっくりしました。


 こんな山の中で毎日過ごさなくちゃいけないと思うと、涙が出そうになりました。あたしが育った村と全然景色が違うんです。大きな山が家にのしかかるみたいに感じられて、日も短いし、暗いし、寒いし、それに、太一さんに弟が三人いるのは知っていましたけど、皆同じ部屋で寝ていたなんて。


 さすがに嫁入りして暫くの間、あたしと太一さんは囲炉裏のある部屋へ寝かしてもらいましたけど、本当はそこはお義父さんとお義母さんの寝る部屋だって言うので、すぐに皆と一緒の部屋に戻されました。

 

 朝は日が昇らないうちから起きて皆のご飯を作って、太一さんと弟達のお弁当も用意して、皆を送り出したら後片付けと洗濯をして、家の周りの畑の世話をして、山羊と鶏の世話もして、繕い物をして、内職をして、お昼になったらお義父さんとお義母さんにご飯を出して、片付けをして、繕い物をして、夕飯の支度をしながら洗濯の続きをして、乾いていたら取り込んで、畑の世話をして、もらい湯の用意をして、山羊と鶏も見て、夕飯を皆に食べさせて、後片付けをして、田植えや稲刈りの時期には朝から一緒に行って手伝って、もう毎日毎日くたびれちゃって。


 あたしだって農家の娘だから家にいる時全然働かなかった訳じゃないけど、味付けも違う、洗濯物の干し方も違うとなれば、一から覚え直さなければならない、お義父さんやお義母さんには本当の父母よりも大事と思って仕えればいいけど、太一さんの弟達にはどう接していいのかわからない、おまけに皆のいる前で、太一さんがあたしの体を求めてくるのが苦痛でした。


 だって、皆眠った振りをしているけど、起きて息を潜めているのがわかるんです。

 いやだけど、あたしだって子どもが欲しいから、我慢していました。でも緊張しているせいか、なかなかできないんです。

 近所の人に子宝に恵まれる方法を聞いたりして一生懸命頑張っているのに、お義母さんもお義父さんも弟達も、子どもはまだかまだか、嫁は体が悪いんじゃないか、毎日のように言うんです。


 そんなこと言われたら、余計できないような気がして、本当に長いこと身篭りませんでした。そのうち治助さんが近所の娘を孕ませて、もう堕ろせないというのもあって嫁に迎えました。

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