七
結論だけ示すなら、苑枝の仕込みは、まるっきり容赦というものがなかった。
朝方は書や美弥の歴史といった、学業の類。
昼からは花に踊りに、歌、茶道と、芸事を徹底的に叩き込まれる日々。
日中をそんな怒涛の指南に揉まれて過ごしたので、夜になると倒れこむように眠りにつく有様だった。
「そ、苑枝殿…… この南方の踊りと、北方の踊りは、分ける必要があるものなのでしょうか?」
屋敷の指南室として開放されている大広間。
そこでもう何度目か分からない踊りのやり直しにぐったりしながら、香流は苑枝にたずねていた。
今仕込まれているのは、美弥でも代表的な舞踊だという。
しかし、市中の南と北とで分けられている型は、ほとんど違いがない。
何も両方、一から通して踊らなくても………… 違うところだけ確認すればいいのではと、門外漢の香流は思うのだが。
「この踊りは、美弥の伝統的な型の一つです。 細微な差でも、おろそかにしてはいけません」
素人の疑問に、苑枝はこう言ってにべもない。
まさか美弥の教養を学ぶのが、これほど難事とは。
質実剛健を地で行っていた里の教育。
それに慣れきっていた香流は、大波の如く押し寄せる『教養!』の波に、酔ってしまいそうだった。
「(恐るべし、美弥。 これではこの国で一端の貴人になるまでに、どれほどかかるか分かりませんね……)」
情け容赦なく活を入れてくる苑枝に追い立てられ、香流はげんなりと舞稽古に戻る。
「武家とはいえ、この右治代は貴族にも引けを取らぬ家柄です。 そうであれば必然、家の者もそれに相応しい素養を持っていなければならない。 生まれが他国だろうとなんだろうと、甘えは一切許されぬものとお思いください」
拍子の鼓を打ちながら滔々と語られる講釈に、自然、目が遠くなる。
別段、学ぶことを厭うているわけではない。
ないのだが、
「(詰め込むにも限度というものがありはしませんか?)」
そんなに自分は教養という点で遅れがあるのだろうか。
それとも、単に美弥の文化が膨大で、知識や実力として得るには、余程時間がかかるということか。
どちらにしても、この筆頭女中の目が黒いうちは、厳しい稽古の日々は続くのだろうと思われた。
ただ、ひらりと、舞用の扇子を翻して考える。
「(稽古自体は手厳しいもの。 ですが、こうして仕込んでくれているということは、多分、)」
「そこ! 余計な雑念を入れない!」
「! はいっ」
飛んできた喝に思考を閉ざし、香流はまた踊りに集中する。
そうして、何度目かのやり直しを繰り返した後のこと。
ようやく苑枝から休憩の許しが出たときだった。
突然、軽い羽ばたきとともに、一羽の鳥が稽古場の広縁へと舞い降りた。
「! 伝鳥?」
苑枝がさっと立ち上がって、鳥を迎えに行く。
『伝鳥』とは、嘉元国で使用される伝達手段の一つだ。
あらかじめ訓練した野鳥を、知らせの運び屋として使う。
特に公的な――――つまり狩司衆であってもそうだが――――伝鳥は運ぶ種が決まっていて、名を『隈啼鳥』という。
この鳥は少々特異な性質があり、仲間内のある特定の鳴き声を聞くと、目の周りの大きく露出した地肌が、三色に変化するのだ。
低い音域のものだと青。
中間は紫。
高音となると、鮮やかな赤になる。
この性質を利用して、伝鳥使いは便りの重要度によって鳥笛を操り、伝鳥の色を変化させてから空に放つ。
低音の青から高音の赤にかけて、重要度は上がる。
狩司衆で言えば、赤は戦闘時の危急の知らせや、あるいは、
「赤隈!」
伝鳥を確認した苑枝が振り返る。
鳥の色は赤。
その手には、小さな紙片。
「本家の出陣です。 嫁御殿、お早う支度を!」
***
急ぎ届いた知らせは、右治代家擁する美弥狩司衆出陣の知らせだった。
狩司衆は各国ごとに本隊があり、取り纏めの任を得た家(美弥で言えば右治代家)が、その全てを統括する。
統括する家は『守護家』あるいは『本家』と呼ばれ、国主の城下に拠点を置き、国全体の村や町に狩人を派遣して、これらと連携をとっている。
今回は美弥の城下町近隣に飢神の出現があったと報告が上がり、本家の出陣と相成ったわけだ。
香流は苑枝に急き立てられ、当主である銀生の居室に向かった。
『狩衣装』(狩司衆における、戦時の衣装のこと)への着替えを手伝うためである。
途中、許嫁の身でそんな役目を仰せつかってよいのかと苑枝にたずねたが、
「これも狩司衆の嫁となる者の務めです。 やりなさい」
と、厳命された。
部屋には、当主付きの侍女たちが勢ぞろいしていた。(香流の部屋まで来た侍女たちはいなかった。)
侍女たちは最初、やってきた香流を無機質な目で見ていた。
しかし苑枝に、銀正の準備を香流が整えることを伝えられると、さっと顔色を変えて反発した。
「なぜです苑枝様! このお方はまだ、嫁様ではないのでしょう? なぜそのようなお方が、御当主様の狩衣装を整えるのですか」
狩司衆の家において、主人の狩衣装を整えるのは男衆の仕事。
侍女は衣装の用意などをするにとどまるものだ。
あとは、伴侶などがあればその女人も手伝うが――――本来未婚の女性が手を出すものではない。
なのに、正式な嫁でもない余所者がその手伝いをするとなれば、反対するのは当然だろう。
しかも、こういった主人の身の回りをする侍女は、妾、ともすれば奥方などに選ばれる可能性のある、高位の家の出身だ。(実際、妾を得る家というのは、今の時代少ない。 狩司衆が中央に統括され、家の存続が危うい場合は、養子縁組などの措置が取られることも多いからだ。 ただし、美弥は中央の干渉を寄せ付けないところがあるため、そういった因習が残っているのではと考えられた)
到底、立場のあやふやな小娘の登場など、歓迎すまい。
口々に非難の声を上げる侍女たちだったが、苑枝が「筆頭女中の決定です。 下がりなさい」と一喝し、力押しで黙らせた。
なんとも気まずい雰囲気の中、香流は用意されていた衣装を確認する。
狩衣装は、徹底的に動きやすい衣と鎖帷子。
そしてこの国で最も軽くて硬質な、『飢神の殻(飢神の体から生えている、牙、爪、角の総称)』から削り出された、最低限の鎧で構成されている。
狩を行うのが山や岩地、海といった動きの取りづらい環境であることが多い点。
また、飢神は獣に似て動きの素早い者が多い点から、機動性を最重視して作られているのだ。
必要なものが全て揃っているのを確認し終えた、ちょうどその時。
早足だが、音の少ない歩みで近づいてくる足音があった。
障子に影を作りながら現れたのは、
「御当主様、お待ちしておりました」
苑枝が頭を下げ、女たちがそれに倣う。
香流も同じように手をついて、額を落とした。
「よい、顔を上げてくれ」
許す言葉に目を上げると、白銀の若武者が、少し驚いたように香流を見ていた。
その目が「どうして」と語っているのを目の端に捉え、香流は衣装に手を付ける。
「本日の整えは、香流様に行っていただきます。 さぁ、お召し替えを」
苑枝の合図で、銀正が伴っていた小姓と、女たちが動く。
着ていた平素の衣装を脱がし、狩衣装をまとわせ、鎧を用意する。
その中心となって直接銀正の脱ぎ着を手伝った香流は、しげしげと衣装の様を観察した。
「(里の狩衣装しか知りませんでしたが、流石大国美弥。 衣装一つとっても、雅なものです)」
基本的に、戦闘職の狩司衆が用いるものは、簡素なものが多い。
位が上がるほどに装飾等整えることも多くなるが、それを差し引いても、銀正の衣装は優美と言うに尽きた。
金銀の糸で刺しゅうされた衣。
彩色の施された甲冑。
果ては羽織の裏地までも、華やかな絵図が踊っている。
一目で上等なものばかりだと分かるそれに、香流は尊敬を通り越して、驚きを禁じ得なかった。
「(父も裏勝りには凝るほうでしたが、それにしてもこれは豪奢が過ぎるような……)」
国力があるが故なのか、あまりにも贅を尽くした装いにほんの少し呆れが漏れる。
それでも何とか顔には出さずに着替えを終えると、香流は最後、羽織を銀正の腕に通し、
「ご武運を」
小さくその背後へ声をかけた。
前を真っ直ぐ向いていた顔が、ちらりとこちらを見る。
一瞬視線がかち合ったが、銀正は何も言わず、そのまま小姓を伴って部屋を後にしていった。
残された香流は、何か違和感を覚えながらそれを見送る。
「(余計な声掛けでしたか……)」
軽率な行動を一人反省していると、ふと背後に突き刺さる多くの視線に気が付いた。
何となく振り向くのが躊躇われるのは、そこにあるのが好意ではないからだろう。
ちらっと、後ろに目をやる。
ずらりと立つ、侍女たち。
その憎々し気な目が、じりじりと香流を責め立てている。
「(うーん…… 逆鱗に触れましたかね)」
口元を隠しながら明後日を眺めると、
「あれは出たのかえ、苑枝」
「!」
銀正が去ったのとは反対側の廊下から、打掛を引きずる音が近づいてきた。
玲瓏たるその声音は、あの宴の晩、控えの部屋で吹きかけられたもの。
「大奥様!」
苑枝の声に合わせ、侍女たちがまたしても頭を下げた。
香流もそれに続き、「よい」との許しに、顔を上げる。
張り付けたような微笑みの、美しい女人が、部屋へと入ってくる。
弓鶴の方。
冷たく凍てつき、その内へ炎火を閉じ込めたような人。
当主の御母堂が、そこにいた。
弓鶴の方はさらりと部屋を見渡すと、何が気に入ったのか、麗しい目元をにんまりと歪めてみせた。
そうしてただ一人、香流だけを目に映して、
「おやおや、何やら面白げな様子よなぁ」
ゆっくりと首を傾げ、
「このわだかまったような事情、妾にも教えておくれ?」
不穏な空気をまといながら、嫣然と言ったのだった。