六十三
右治代家でも、一等開けた庭先。
そこに、人は集まっていた。
集ったのは、左厳一門、美弥狩司衆の一部、近衛の頭領とその側近だ。
戦乱の後始末に駆り出されている者を除いたこれらの狩士たちは、一人の男を中心において、今日美弥に着くはずの五老格の使者を待っていた。
狩士たちは各々暇を消化するように談笑に興じていたが、しかし一方でどうしても気を取られると言うように、中心の男にちらちらと視線を送っていた。
その男は着流しの着物を纏い、地面に敷かれた茣蓙に、後ろ手に手を縛られた状態で座っていた。
男は銀正だ。
長らくこの美弥に巣くうた闇を看過してきたその罪を、これから裁かれるのを待つ男だった。
取り巻く狩士たちは、その静かな背を最初、憐憫の様な目で見ていた。
当然だ。
男はこれから死ぬことがほとんど決まっているような身の上だ。
だが、しかし。
それもだんだんと訝しむ視線に変わる。
それというのも、様子があからさまにおかしいのである。
最初に疑問渦巻く沈黙を破ったのは真殿だった。
「……なぁ」
真殿は誰ともなく声をかけた。
「なぁ、なぁ。 なにあれ、どーしたの? どーして右治代殿あんななってんの? お前何やったの?」
最後だけ相手を特定して発した問いに、答える者はない。
そもそも、真殿が銀正をして『あんな事』と言ったのは、銀正の様子がどう見ても変だからだ。
まず、ずっと背を曲げて俯いた状態から動かない。
これはここへ彼を連れ出した時から変わらずである。
第二に、発している気配だ。
何やらひどく澱み、おどろおどろしい空気が銀正の周りにだけ渦巻いているのだ。
そして最後は、ずっと漏れ聞こえてくる異様な呟きだ。
声自体は押し殺されたように低く掠れて聞き取れないのだが、どうにもお経らしき詠唱が途切れることなく続いているのである。
正直、異様。
近づきがたい。
周りの狩士たちが銀正の身の上を憐れむ以上に遠巻きにしているのも、このためだった。
真殿は離れたところから銀正を難しい顔で眺め、もう一度だけ言った。
「お前、本当なにやったの?」と、自分の妹に。
妹――――香流は左厳家狩士の礼儀として袴衣装を纏い、真殿から少し離れたところで腕を組んで瞑目している。
本来なら、香流はこの場に立ち会うことはなかった。
左厳の狩士であると同時に、香流は銀正の許婚だ。
身内と見なされ、沙汰が出るまでは引き離される。
それを朝から凄まじい威圧で近衛頭領と真殿を威嚇し、無理を通してここに居るのだ。
香流は兄の問いかけに素知らぬ顔のまま、
「なにも?」
素っ気なく端的に呟いた。
「いやいやいや、何もってことぁねーだろ? 生も魂も尽き果てたみたいなんだけど。 元々白いのが、なおのこと白くなってんだけど?」
暗澹とした黒い気配と裏腹に、銀正は燃え尽きたように真っ白になっている。
あれはどう考えても何もなかった様子ではない。
昨晩真殿が庵で銀正に会ってから、銀正と接触しているのは香流だけだ。
どう考えても妹が庵に消えてから、何かしらがあったとしか考えられないのである。
「……おーい、見張りー 右治代殿何言ってんのか、確認してー? そんで話できそうか確認してー」
真殿は口を割りそうにない妹を諦め、銀正から直接理由を確認しようとした。
銀正の脇に立って見張り役をしている配下二人に合図を送れば、二人は合点承知とぶつぶつ呟く銀正の口もとへ耳を寄せた。
そして、
「…………右治代様、ずっと読経しておられてお話通じませ~ん!」
「ついでに合間に、なんか仰ってま~す」
「解読しろー」
口の横に手を当てて真殿が促せば、片方がふむふむと銀正の声に聞き耳を立てて、それから真殿と同じように声に手を添えて返してきた。
「えー おそらく、
『出せない出せない出せない出せない出せない出せない出せない! 手なんか出せるわけがない……!!』
で~す」
チチチチチ、
庭先の木で、小鳥が囀る。
真殿は束の間沈黙すると、
「こぉ~る~?」
じとりと半眼にした目で妹を振り返った。
妹は変わらず澄まし顔でだんまりだ。
しかしここで追及を止めるわけにいかない。
妹が庵に行くことを許したのは真殿なのである。
銀正の身柄を監視する責任者として、あの異様な姿の訳を知っておく義務が真殿にはあるのだ。
「お前ねー、何やったんだよ。 いや、あの呟きで大概予想はつくけどよー」
「なら、勝手に想像で補っておいてください」
「補いたくねーわ! 身内の、しかも妹の色事なんざごめん被るわ!」
「おや、肝の小さい」
「小さくねー 断じて小さいとか言わせねー ――――じゃなくて、昨日の晩の話!!」
「ちっ」
「え? ちって言った、今? 舌打ちした?」
「……言っておられたように、おおよそお分かりでしょうに」
香流は仕方なさげに呟くと、腕組みのまま言った。
「なに、少しばかり睦言と愛撫を弄して、銀正殿の欲を一晩中煽り続けただけです」
沈、黙。
香流の白状を聞いた誰もが、その瞬間、押し黙って重苦しい空気に身を置いた。
え? 何? 睦言? 愛撫?
真昼間から口に出すのも憚られるような単語を脳裏に繰り返し、
「…………」
じっと香流と銀正を交互に見る。
そして、
「手を出させようと仕向けてみましたが、失策でしたね。 里で教えていただいた技では、堕とし切れなんだ」
ため息まじり、苛立たしげに続けられた香流の述懐に、沈黙はさらに厚みを増した。
真殿はいつの間にやら遠くなった視線で青い夏空を眺めながら、飛び去る鳥たちを数える。
そんな逃避を少しの間続けた後。
片手を腰に当て、もう一方を上に伸ばして、「……はーい、ちゅうもーく」と声を上げた。
「ハイ聞いてー、野郎どもー 正直に答えてなー?」
「これまで香流に、酒の勢いで余計なこと吹き込んだ憶えのあるやつ、挙手!!」
ばっ!!
一斉に動いた一団がいた。
揃いも揃って真殿から顔をそむけたのは、赤銅色の衣装の男たちだ。
真殿は目線を合わせない配下たちを睥睨すると、
「釈明は?」
冷ややかに促す。
配下たちはそろそろり首を回して自分たちの頭を見ると、えへへと照れ臭そうに頭をかいて言った。
「いやぁ、俺らも酒が入っちゃうとつい好奇心に負けるというか」
「姫さんがお酌ついでにうんうん聞いてくれるからさぁ」
「調子乗っちゃったみたいな?」
「こう、何も知らない姫さんにいろいろ仕込むのが楽し、……おっと」
「俺らもこんな攻められ方、されてみてーなーみたいな」
「願望語っちゃったというか」
「いやぁ、酒ってだめですねー」
「…………やれ、崩渦衆」
『天誅ぅううううう!!(by 崩渦衆一同)』
真殿に解き放たれ、香流過激派は一斉に赤銅の男たちに襲い掛かった。
「ギャ―――!」とか「しねえええええ!」とか、騒々しい乱闘が始まるが、真殿はそれを意に介さず、はぁと深い溜息を吐いた。
顔を上げれば、相変わらず闇を纏っている銀正がいる。
おそらくではあるが、なりふり構わず自分を晒して夜伽を迫った香流の猛攻を、一晩耐え抜いた男がいるのだ。
「(俺、そういう意味で、汚れろって言った訳でないんだけどなー……)」
確かに昨晩。
真殿は義弟でもあるあの清廉潔白な男に、綺麗なだけではない、薄汚れた選択もしてみろと揶揄を投げかけた。
だがそれは、人としての狡さというものを覚えてみろという意図であって、
「貞操的に汚れろって話じゃなかったんだけどなー……」
呟けば、
「途中からあの読経に逃避なされて、結局手は出されておりませんよ」
香流がやさぐれた様子で吐き捨てる。
――――怖いわ。
うちの妹こっわ。
真殿は再び遠くした視線で雲を眺め、温く乾いた笑みを浮かべた。
おそらく銀正は香流を心から想っている。
しかしその想いを振り切って、自分の故郷のために命を投げ出す選択をしたのだ。
そこへこの空気を読まない蹂躙者が、全力の色香でもって理性を喰い破ろうとしたわけだろう。
「(きつー……)」
正直、同じ男として同情する。
それはキツイ。
それは落ちてもしかたない。
真殿は香流の技量など知りたくもないが、この覚えのいい妹は、どうせそっち方面も理解が早いのだ。
それを銀正は、結局一晩耐え抜いた。
「(右治代殿、純潔、守ったんだなぁ……)」
本当、そういう意味ではなかったのだが。
真殿は血が滲むような銀正の忍耐を想い、そっと胸中に手を合わせた。
まぁ、男の純潔って何? 守るもんかそれ? とは思うのだが、そこは割愛。
配下をボコりながら涙に暮れる崩渦衆の慟哭を尻目に、ふと香流へ目を向けた。
「そんで、お前。 もし右治代殿がぐらついてたら、どうしたんだよ?」
単なる好奇心だ。
もう使者の到着まで時間のないこの無聊に、真殿は少しだけ寂しげな笑みで香流に訊ねた。
香流は押し黙ったまま何も言わなかったが、結局、
「……あの方が、私に溺れて下さったら、」
と、静けさを纏う声で呟いた。
「貞操を脅し文句にして、引きずってでも逃げてましたよ」
「お・ま・え!!」
平然と罪人の逃亡幇助を明言する妹に、真殿は仰天して叫んだ。
「あれだけ無茶苦茶はすんなっつって釘刺したろーが! その即手段を選ばん段階まで思考飛ばすの自重しろ!」
「その点に関しては、兄様も同類でしょうに」
「そーですー 俺だって左厳の狩士だ、無茶苦茶やるのは上等だよ。 でもお前は単独で走りすぎ! 基本俺が尻ぬぐいなんだってのっ」
「でも今回はやらかしておりません」
「当然だ阿呆っ こんな重大事でやらかしたら、俺が母上に首飛ばされるわ!」
やっぱり妹を行かせるんじゃなかった。
激しく後悔した真殿は、眉間を押さえて唸る。
そんな兄妹喧嘩がひと段落した時だ。
「御到着です!」
近衛の狩士が、右治代の玄関側から駆けてくる。
報告に、その場の全員が口を閉ざした。
使者が到着したのだ。
それから少しして、出迎えに立っていた近衛組の狩士を引き連れ、駕籠が一つ庭に入ってきた。
集まっていた狩士たちはその駕籠を見た途端、跪いて首を垂れる。
駕籠は銀正の前に到着すると、恭しく地面に下された。
「五老格使者様、御到着です」
使者の侍従が告げる声が響き渡った。
*
「なーにが使者だよ、持って回った言い方してんじゃねーよ」
突然飛び込んできた声に、銀正ははっと我に返った。
ふと顔を上げれば、目の前には上等な装飾が施された駕籠が一つ。
使者か。
咄嗟に思考した銀正は、その直後、ふっと横に立った人影を見上げた。
「さっさと出て来いクソ爺、もったいぶんな」
真殿だった。
まだ義兄と呼べと銀正に笑っていた人が、しょうでもないと言いたげな顔で、駕籠を睨みつけている。
そのあまりに不敬な振る舞いに、銀正は唖然としたが、
「そう、ことを急くな真殿」
鷹揚な返答が真殿を許し、可笑しそうに笑った。
声は駕籠の中から聞こえた。
傍に立っていた使者の侍従が、駕籠の戸を開く。
すると現れたのは、老境の男だった。
これまた駕籠と同じような上等の衣装に身を包んだその老爺に、一瞬銀正は首を傾げた。
どうにも、使者というには年が行き過ぎている様な気がしたのだ。
だから、
「五老格の使者じゃなくて、五老格当人が来るなんざ、聞いてねーぞ」
真殿が言い放った言葉にぎょっとした。
ばっと再び老爺を見て、真殿を見る。
真殿はそんな銀正の驚きを気まずげに見下ろすと、丁寧に説明をくれた。
「あー…… あんたは中央に出たことないんだったな。 今言った通りだ。 この爺は正真正銘我らが狩士の頂、五老格の一角、高家・役桐谷の御隠居、役桐谷琳円様だよ」
唖然とした。
まさか、中央の狩司衆筆頭統括の一角が、わざわざこんな遠国まで出向いてくるなんて。
どんな理由があってここまで来たかは知らないが、特級の例外的訪問と言っても過言ではない。
銀正が驚き畏れ戦いて固まる前で、真殿は尊大に腕を組んだまま話を続けた。
「それで、中央から梃でも動かねぇあんたが、何しにここまで来たんだ?」
「なに、折角仕込んで美弥にこちらの手駒を放り込んだんだ。 それを利用しない手はないと思ってな? こうして私自ら出向いてきたわけよ」
「老体に長旅は堪えただろうが。 無茶してんじゃねー」
「おや、心配してくれるのかい? お前はいい子だねぇ、真殿」
銀正はふと違和感を持った。
なぜだろう。
今目の前で会話を交わす二人。
傍目には一介の狩士が最上位の存在に不敬な口を叩いている、とんでもない現場なのだが。
なにか。
何かが引っかかる。
今の自分の身分も忘れ、思考が首を傾げるまま五老格と真殿を見ていた銀正は、
「それで、これがそうなんだね?」
「!」
唐突に向けられた視線に、ピンと背筋を張った。
五老格の老爺が――――役桐谷琳円が、銀正を冷たい目で見降ろしている。
その目は冷ややかに銀正を検分し、パンと広げられた扇の上から銀正を捕らえ続けた。
「右治代忠守殿だ。 もう報告言ってんだろ、なぁ、近衛の」
真殿が声をかければ、ずっと不機嫌そうに真殿たちを見ていた近衛頭領が頷く。
「お前は人前で不敬だ」とその目が語っているが、真殿はそれにもどこ吹く風で琳円に続けた。
「あんたの決定で、処分とする話になってる。 事情も知ってるだろ? で、どうする?」
「ふむ、」
真殿の催促に、琳円はじっと銀正を見下ろしたまま目を細めた。
すると増々銀正は違和感を覚えた。
今まさに、自分の処分が決まろうとしている。
なのに、銀正はそれよりも膨れていく違和感にどうしようもなく気を取られた。
その時だ。
「お待ちください」
凛然とした声が、飛び込んできた。




