六十二
どっと、鼓動が一際大きく響いた気がした。
目を見開く。
呼吸が絶える。
汗が吹くような、引いていくような。
訳の分からない反応を体が示す。
「な、にを……」
無意識に呟いていた。
理解できない。
いや、したくない。
聞きたくなかった。
聞けば、囚われる。
銀正は警告を発する本能のまま、香流の口元を凝視した。
そこから発せられる次の言葉を恐れた。
だが、香流は揺るがぬ笑みのまま、それでも繰り返した。
「私は、あなた様をお慕いしております」と。
だから、そのことを伝えたかった。
そして、
「答えをいただきたいと思って、こちらに参りました」と。
「答え、など……」
呟きは、細かった。
しかし、明確に拒絶を語っていた。
銀正は死へ赴く身だ。
そのために、香流の比肩の願いも断った。
それなのに。
香流の恋い慕う心が望むものなど、返せるはずもない。
思考がそこに至り、銀正ははっと我に返った。
動揺していた心を落ち着け、息を整える。
それから苦しげに香流を見返して、重々しく首を横に振った。
「そのような願い、この身がお答えすることなど、できましょうか」
銀正の足は、すでに黄泉の川へ片足を沈めている。
そんな男が、人の恋慕の想いに応えていいものか。
断固として拒絶する銀正。
この選択のために、自分は何もかも諦めたのだ。
今更跡を濁すことは、己を心底許せなくなる。
しかし、香流は銀正の気勢に、びょうとも揺らがなかった。
その上重ねて告げた。
「死別を理由に誤魔化した想いなど聞きたくない」と。
「……私は咎を負うものだ。 あなたのような眩い人と、共にあってはいけないものだ」
銀正はなんとかそう振り絞った。
そうだ。
自分は罪を償わねばならぬ穢れた身。
鮮烈で、気高く、只管に真っ直ぐなこの人に、似つかわしい男ではない。
なのに、香流は銀正の言葉を真正面から否定した。
「あなた様は綺麗だ。 その魂はずっと美しいまま。 例え咎を負おうと、その清廉さは穢されない」
何を理由にと思った。
香流だって知っているはずなのに。
銀正は、そこに服従の意がなくとも、これまで明命の悪行を見逃してきた明らかな罪がある。
それは多くの業人の血で汚れた罪だ。
その罪に繋がれた銀正だって、夥しい血にまみれている。
「……私は、この国を存続させるため、多くの命が明命に喰われるのを見て見ぬふりをしてきた。 それは例えどんな理由があろうと、許されていいものではない」
私の全ては、血に汚れている。
まるで威嚇するように銀正が歯を食いしばれば、香流は「あの時、」と呟いた。
「あの時…… 渦逆との一戦の最中、あなた様は言いましたね。 置いていかれるのが嫌だから、自分だけ進むために選択したのだと。 それは、恐れや怯え故だったと」
銀正は肯定の意で頷いた。
自分は己可愛さにここへ至るまでの道を選んだに過ぎない。
明命の前で香流が言ってくれたように、他の誰かに重荷を渡さないようにするためなんて、そんな綺麗な理由だけで選んだわけではないのだ。
この身は、心は、穢れ切っている。
分かってくれと、銀正は香流を睨んだ。
しかし、香流は鋭い目に火炎を宿し、銀正に抗った。
「いいえ、あのときのあなたの言葉は嘘です。 あなたは、董慶様を失った過去がなくとも、同じ選択をしましたよ」
大切な誰かに置いていかれる恐怖を知らずとも、きっと銀正は、
「ただ、守るために生きたはずだ」
「あなたは、そういう人だ」
「恐れや怯えなどを理由にしなくても、大切なもののために全て擲てる人だ」
だから、
「その魂は、多くの犠牲を看過して夥しい血に汚れても、決して濁りはしていない」
「あなたは、綺麗だ」
言葉を失った。
銀正は香流の言葉の切っ先を前に、途方に暮れてしまった。
こんなにも自分は罪を重ねているのに。
この身は罪過に染め抜かれているのに。
香流はそれでも銀正がきれいだという。
そんな言葉をもらう資格、己には決してありはしないのに。
香流は銀正から目を逸らさなかった。
真っ直ぐ、あの、何もかもを明らかにする目で、銀正を照らす。
そして正座した足の上へ大切そうに櫛を持ち、深く深く頭を下げて言うのだ。
「どうか、この義任の真、受けると申して下さい」
この世できっと一等、銀正を身も世もなく狂わせるものを差し出して、言うのだ。
だからその瞬間。
銀正は己の中で、何かが切れるのを感じた。
そして常にない剣幕で叫んで言った。
「――――っ、答えてどうするというんだ! 私は明日をも知れぬ身なんだ! もうこの世と別れねばならぬ立場で、人の心など受け取れるわけがないッ あなたの様な気高い人の真など、この身にふさわしくないんだ!」
どうしてと悲しみが叫んだ。
どうして今この時になって、銀正の未練を揺さぶる。
やっと罪を償えると思ったのに。
守り続ける日々を終わりにできると思ったのに。
どうして今更、そんな貴いものをくれようとするんだ。
決めたのに。
守りきるために、全て捨てて川を渡ろうと。
あの最後の抱擁を己の我儘として一つだけ許して、この手にあるものは全て手放そうと決めたのに。
そのために、香流の比肩の求めだって。
あれほどまでに心が泣きわめくような希求すら、手放したのに!
なのにどうして!
どうしてこの心を暴こうとする!
「私はもう決めたんだ! この国に本当の明日を導くために、この身を賭すと! その覚悟を決めてしまった!! 私が終わらねば、この国は進めないんだ!」
「あなただって分かるだろう、もう他に道はない。 もう戻れないんだ……っ」
だから、もう、
「私の心を乱さないでくれ……!」
「分かっているさ!!」
痛切な願いを、その声は撥ね付けた。
見れば、香流が美しい姿勢で座したまま、豪炎の気勢を発して銀正を睨み据えていた。
そして銀正に負けず劣らずの剣幕でまくし立てた。
「分かっている、よく分かっている。 あなたはそういう人だ。 そういう、弱さにも似た、されども決して折れない儚い決意を立てるような人だ。 悲しい程優しく、犯しがたい清廉さを持つ人だ。 私は…… そういうあなただからこそ、愛おしいと思った!」
「あなたを知って、あなたと共に決意し、あなたと共に刀を振るった。 何もかもが私の中に根を張って、鮮やかなまま私に訴えるんだ! これまでの全てが降り積もって、私に言わせるんだ! あなたが慕わしいと、あなただけが愛おしいと!」
「あなたの心が欲しい! 先を憂いて偽った心などいらない、自責で貶められた心などいらない! 私は今この時、あなたの欲が吐かせる、真実偽りない答えが欲しい!」
「私を愛おしいと思うか、否か?! お答え召されい!」
「言って堪るかっ」
真っ向から食い違う意志。
決して譲らぬ二者はそして叫んだ。
「聞き分けろ、左厳義任!」
「偽りを噤め、右治代忠守!」
荒れた呼吸が渦巻く。
沈黙の落ちた庵に、二人は相手を食い殺さんばかりの睨みを結んでいた。
そこに相手を想う心は無く。
ただ自分のためだけの思考が澱んでいる。
それは、結局のところ誰かを求める心が、自己愛とは切り離せない証左だった。
だがそれでも。
この通過点は、誰しもが心に決めた誰かと踏まねばならぬ一段。
自分にとって譲れない一線を示し合い、己の全てをさらけだす手順。
銀正はそれに気が付かなかったが、
「……承知しました」
視線を切って深くため息をついた香流は気が付いていた。
「あなたは、その一線を譲られる気はないのですね。 私の求めにも、線を超えられない以上、答えられない」
挑みかかるように怒らせていた肩から力を抜き、香流は寂しげに呟いた。
銀正も乱れる心を落ち着けながら、すっと気配を収める。
銀正は何も言わなかった。
これ以上、香流を撥ね付ける言葉を自分が紡ぐのに胸が痛んだから。
結局のところ、銀正は香流を心底拒絶できない。
だから最初に恐れたのだ。
香流の希求を前に、最後まで揺らがない自信がなかったから。
そんな銀正を、香流は静かな目でじっと見据えている。
そして瞑目して深みのある声で呟いた。
「私はあなたの答えが欲しいだけなのですよ、銀正殿。 私がお嫌いなら、そう申されれば私は引き下がるのに」
そうはなさらぬのですね。
ぎくりと、心の臓が強張った気がした。
あっと思ったときには遅かった。
香流は氷点下の目で銀正を睨んで告げてしまった。
「それは、肯定を隠し持っていると取られても仕方ありませんよ」と。
「私は、あなたに生きてくれとも、死なずに共に逃げてとも言っておりません」
ただ、自分と同じように想ってくれているかを知りたかっただけ。
そう言う香流を前に、銀正は己が罠にかかったのを知る。
だらだらと汗が流れる。
香流は追及を止めない。
火炎が奥底でちらつくあの目で、銀正の本心を暴き立てる。
「あなたは私への好悪だけを答えればよかった。 そうすれば、あなたの生死を問うていない私は、そのまま来た道を引き返していた。 あなたは望み通り、この国を守るために死ねたでしょう」
「しかしあなたは、あなたの心を問うた私の問いかけに、同時に生きる選択を迫られたように感じた。 それは、」
「私を好いていると認めてしまえば、生きる選択肢が頭を過るから。 だから答えを明確にするのにも頑なだったのでは?」
越えられた。
直観が狂ったように警鐘を鳴らす。
銀正殿。
声が呼ぶ。
喉元を抑え込んだ獲物に喰いつこうと舌なめずりする声が、銀正を捕らえる。
「あなた、私を好いておりますね。 それも、認めてしまえば生に縋りたくなってしまうほど、欲しいんだ」
無意識に仰け反っていた。
後ろ手に手を突き、背後に逃げようと体が動く。
香流が立ち上がる。
ゆっくりと足を動かし、一歩一歩銀正との距離を詰める。
その顔が行燈の灯りから遠く、影になって見えない。
しかし、目だけが。
銀正の喉元を狙い澄ます目だけが、闇の中に煌々と揺らめいている。
銀正殿。
もう一度呼ばわれる。
全身に絡みつくような声で問われゆく。
「私は二人で決めたいのです、銀正殿。 そのためにもう一度あなたに会いに来た。 共に居る以上、どちらかが置き去りにされたり、先に進んでしまわぬよう、私はあなたと二人、共に歩む先を決めたい」
そのためには、
「あなたの許しがいる」
ずりっと銀正は座ったまま後退る。
ずるずると畳を滑った先、床の間の柱へ背が行きついた。
追い詰められた。
焦燥したせいで、汗が滲む。
香流は息を詰める銀正の前に跪き、恐ろしい静けさで問うた。
「私が、お嫌いですか? 銀正殿」
顔を見ることができない。
視線を背けたまま、銀正は渋面で答えた。
「……言わせるな。 言えば、戻れない」
「言え。 求めろ。 さすれば私はあなたに許す」
あなたがあなたを許しさえすれば、この身全てあなたのもの。
言下にそう断じ、香流は銀正の頬へ手を伸ばす。
触れられる。
香流の手が、自分に触れる。
――――耐えられない、
心が、啼いた。
「……泣かれるな」
言われた瞬間、その言葉の意味が分からなかった。
香流の手はまだ銀正に触れない。
なのに、
頬に何かが伝う。
茫然とした。
泣いていた。
銀正は無意識のうちに涙を流していた。
それは矛盾に引き裂かれた心の発露だった。
銀正の心はもはや限界だった。
国のため、何もかも諦めて殉じる覚悟にしがみつく半分。
しかしその半分が殺したもう半分が、末期の叫びをあげたのだ。
『この人を、離したくない』
それは香流を想う、銀正の至極身勝手な欲だった。
それを考えるほどに、香流以外が思考から弾き出されるような、全くもって極端な視野。
半分が声を限りに訴える。
この人を選んでしまいたい。
この人の手を取って、ずっとずっと、
ともに生きていけたら。
涙は溢れ続けた。
殺したはずの半分の血が流れるように、ずっと。
次から次と溢れて、銀正のもう半分すら道連れにしようとする。
心が死ぬ。
死んでしまう。
もうどちらを選ぶことも放棄して、心だけを殺してしまいたかった。
国を守りたい。
香流と生きたい。
どちらも求めて、その挙句、このざまを晒していた。
情けなかった。
銀正は己の未熟で愚かなほど弱い精神を軽蔑した。
けれどそれで事が治まるはずもなく、銀正は呆然としたまま涙に暮れた。
そして、
「……どうあっても、言いたくないのですね」
そんな銀正の雫を拭い、香流は悲しい声で言った。
「我らの意志は、最早交じり合いませんか」
国のために死にたい銀正。
銀正と生きたい香流。
ゆく道の決断を巡って、二人の意志は平行線をたどる。
もう銀正には、言葉を紡ぐ気力もなかった。
最後の抵抗のように唇を噛み、香流の追及を無いものにする卑怯な手を選んだ。
その銀正の答えに、香流は瞑目。
「分かりました」
区切りをつけるように呟いた。
その次に言ったのだ。
「ならその苦悩、私が食らってさし上げる」
「くら、う……?」
即座に言葉の意図を解せなかった銀正は、拙く繰り返した。
頷いた香流は、持っていた櫛を大切そうになぞると、そこに口づけて言った。
「この櫛をあなたの形見と思って、私はあなたを諦めます。 私だってあなたの意志を汲みたい。 あなたが死を望むなら、その背を見送りましょう。 ――――でも、」
「あと少しだけでいい。 私の最後の我儘を聞いてほしい」
「あなたが私のもとを去るというのなら、あなたがその胸の内に殺すその未練、すべて私にくださいませ」
「代わりに飲み込んでいきなさい、この心。 私はあなたに、私があなたに向ける想い全て、喰らってほしい」
慕い続けるこの心。
あなたが居ない生に共に抱えて生きるには、辛すぎるから。
だから、
「今からあなたに捧げる私の心、全て聞き届けてくださいませ」
訳が分からなかった。
香流の言っている意味が分からない。
銀正は途方に暮れて目前の顔を見つめた。
香流は銀正の答えを聞かなかった。
もう互いの意志を交わらせることができないなら、この最後を我儘として通し切るつもりだったのだ。
香流はそっとその細い指先を銀正に伸べた。
びくりと体をはねさせて、銀正は届きそうな指を見つめる。
手は銀正の傷のある頬を撫でて、ゆっくりと顔の線を辿った。
「銀正殿」
「!!」
息を飲んだ。
呼ばれた名は。
その声は、ただの音ではなかった。
まるで肌を焼くような熱を孕んで、銀正に吹きかけられたのだ。
唖然として、銀正は香流を見た。
そして二度仰天する。
目が、銀正を射ている。
強く、掻きむしらんばかりの欲を孕んで、銀正を映していた。
「銀正殿、私の慕わしいお方」
「愛したお方、私の心にただ一人の方」
「……ずっとずっと、こうして触れていたい」
理解した。
この時になってようやく銀正は分かった。
香流が言った言葉。
『あなたに捧げる私の心を、全て聞き届けろ』
それは、こういうことだったのだ!
「あなただけだ、銀正殿。 愛おしい、あなただけが、全て欲しい、あなただけが」
「や、」
やめてくれ。
掠れた呟きは、吸いこんだ息に飲まれた。
香流が柱を背にして仰け反る銀正の脇に手を突き、ぐいと体を寄せてきたのだ。
瞬間、ふわりと何かが香った。
それが香流の匂いだと認識する前に、すいと掬い上げるように向けられた玲瓏な視線に意識を取られた。
「怯えないで」
手が。
滑らかな掌が、銀正の頬から耳を撫でる。
「厭わないで」
ゆっくりと首筋を伝い、着流しの襟元を指が伝う。
「何も致しません。 この想い告げる以外、何もしない」
だから、
「最後まで聞き届けて」
あなたが私を置き去りにして離れて行くというのなら、
それならどうか、
「この想いだけ。 これだけでいい」
抱えて行って。
脳天を突き抜けるような震えが、全身を走った。
咄嗟に口を手で覆っていた。
銀正は知らなかった。
想い人の哀願が、これほどまでに心を揺さぶることを。
深く求める相手に、身も世もなく同じだけの想いを向けられることが、理性を圧殺するほど狂気的だということを。
香流は全身を強張らせて固まる銀正に身を寄せ、その首筋の触れるか触れないかという位置で熱い息を吐いた。
「愛おしい、銀正殿」
何もしない?
冗談じゃない。
こんなものは拷問だ。
荒く掠れていく息を手で殺しながら、銀正は瞠目して怯えた。
何もかもが追いつかない。
頭も、心も。
容量を遥かに超えた現実に押しつぶされていく。
そんな銀正を置き去りに、それでも香流は止まらなかった。
「!!」
びくり。
銀正は肩を大きくはねて過度に反応した。
足が。
香流の足が、銀正の足の上を泳いでいる。
着流し姿であったのが災いした。
はだけて露になった銀正の足の上を、水面を魚の尾ひれが掻くように、肌理細やかな素足の甲が、するりするりと足首からその上の膨らみまでさすり上げる。
そのまま香流の膝が銀正の膝から内腿にかけてを沿うように押し広げ、細腰が足の内側へ押し入った。
「お慕いしております。 あなた以外、他はいらない」
銀正の肩に置かれた香流の両手が、ゆっくりと二の腕を伝って下がっていく。
薄い夏の衣装のため、その張り出た筋肉の谷を正確にたどって、肘まで下る。
手はそこから銀正の脇腹を撫であげ、着物越しにあばらの筋を体の中心へと指を沈めながら撫でた。
「あなたは御存じないでしょう。 あなたにその声で名を呼ばれるたび、私がどれほど心安らいだか」
「もう、その声を聴くこともできなくなる」
熱く想いを紡ぎながら、香流は顔を寄せた銀正の首筋を吐息だけで撫で摩る。
「この夜、この一夜だけ…… 私の名をその喉枯れ果てるまで呼ばれてみたい」
「香流と、呼んで、」
びくり。
再び銀正は喉を逸らして仰け反った。
熱い。
夏の暑さなどではない。
体の内側に火をくべられている様な熱が、全身を犯す。
堪えきれない。
腰の上で、香流の儚い体が揺れる。
誘うようなそれに、咄嗟に手が動いた。
その片腕に収まりそうな細さを捕らえようと、無意識の挙動が銀正を突き動かす。
が、寸前で衝動を抑え込み、銀正の手は虚しげに空を掻いた。
香流は澄ました目でそれを眺め、
「私からは想いを告げる以外、何も致しません。 ですが、あなた様が望むようになさるのは、自由ですよ」
とんでもないことを宣った。
銀正は呆気にとられ香流を見つめた。
そして苦渋の顔で、その卑怯を責める。
「……私に、過ちを犯させるおつもりか」
「あなたも最後と私を抱いたでしょう。 なら私も最後が欲しい。 それをいただけるなら、あとは好きになさって構わないというだけの話です」
銀正は唇を噛んだ。
最早香流の隠喩的な抱擁の言い方すら身の内の炎を煽る。
「……想いを告げるだけなら、触れる必要はないはずだッ」
「御自分は思うさま私を掻き抱いておきながら、それを棚に上げたようなことを申される」
私にも、あなたの思い出をくださいませ。
完全に墓穴を掘った。
銀正は八方ふさがりに陥った状況を自覚して、畳に置いた手を爪が食い込むほど握りしめる。
その拳を、下から掬い上げるように香流の手が包む。
ぎゅうと目を瞑れば、
すり、
「!!」
手首まで伸びた指が、腕の内側の薄い皮の上を滑った。
ただそれだけなのに、背筋をすさまじい波が駆け抜ける。
香流は銀正の肩に頭を預けると、何かに焦がれるよな声で呟いた。
「この、手。 あなたとつないだこの手を、あの騒乱で、私がどれほど放したくないと求めたか」
「この手が刀を握り、淀みない美しい太刀筋を描くのを目にするたび、どれほどその技に胸焦がれたか」
「この手が同じ…… いや、それ以上の極みで私の輪郭を辿って下さったら、どれほど甘美な喜びを得られるだろうかと」
「私には思わずにいられなかった……」
やめろ。
すでに虫の息にまで落ちた理性が、喘ぐように訴える。
もう、やめてくれ。
これ以上、耐えられない。
これ以上は、
最後の線が切れてしまう。
手の下で荒れ狂う息に思考がかき乱される。
銀正の手を捕らえていた香流の手が、ゆっくり腕を登り、銀正の右頬へ至る。
白魚の如き手が、綻んだ花を包むように銀正の痛々しい傷を包む。
「この傷、きっとひどく傷んだのでしょう……」
「っ、」
肩にもたれていた香流の頭が、いつの間にか銀正の顔の横にある。
桜の花びらのように薄紅に色づいた唇が、銀正の耳殻を空気を隔ててなぞった。
そして最後に鼓膜へ向かって、纏わりつくような息を吹きかけた。
「この傷にすら、私は憤らずにはいられない」
「あなたに残るモノなら、それは全て、私が残したものがいい」
「他の誰かの影など、御身に刻まないで。 私だけに、穢れてほしい」
「あなたの血も肉も、肌も髪も爪先まで、」
「私を注いで染めぬけたら、どれほど満たされることか」
――――あなたと、一つに交じり合いたい。
全身の肌が泡立った。
生理的な涙すら溢れ、銀正は体の芯を焼き尽くす熱に身悶えた。
そして暴虐的な蹂躙者は止めを刺すように口元を隠した銀正の手を奪い、喘ぐ薄い唇へ肉迫した。
「もうこれが最後なら、この舌先で、あなたに溺れてみたい」
「どうか、私を受け入れて」
「この想いを、」
「許して……」
欲が理性を殺そうと、あえかな吐息で銀正の呼吸を封じた。
殺される。
嬲り殺される。
銀正は薄れゆく意識と、鮮明に浮き立つ感覚の狭間で、明らかな死を見た。
そして、夜は更ける。
男の欲へ落ちる寸前の恐慌と、女の冷酷なまでの求愛をその闇に溶かし、ゆっくりと更けていくのだった。




