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比翼の花嫁  作者: 壺天
72/79

六十

 右治代の屋敷がある辺りは、今回の騒動でも比較的損害が軽微であった。

 そのため、一時的な休息の宿として周辺の屋敷は開放され、左厳家などの狩士たちはそこで一晩明かすことになった。

 銀正は近衛組に見張られる形で右治代屋敷の、あの離れの庵に軟禁された。

 見張りには、近衛組の狩士が二人立っている。



 夜ももう遅い頃。


 香流はその庵の屋根を木々の向こうに見ながら、屋敷の広縁で腰を落ち着けていた。

 ありがたいことに屋敷の風呂を苑枝が用意してくれるらしく、それに呼ばれるのを待っているのだ。

 木々の合間を見通せば、庵には仄かな明かりが灯っていた。

 見上げると暗い夜空にいくつもの星。

 いつかも、こんな風に星を見上げた。

 あれは、婚約披露目の夜会の晩だ。

 あの時はまだ、こんな夜が来るなんて思いもしていなかった。

 ただ、あの人の帰れという言葉に、呆然としていただけだったように思う。


「あの時も、あなたはずっと耐えておられたのだな……」


 呟くように言えば、音は虫の声に喰われて解ける。

 こんなところで言葉にしても、聞いてほしい人には届かない。

 叶うなら、横で耳を傾けてほしいのに。


「損な話だ」


 小さく笑えば、


「なにが損なのですか?」


 横から声をかけられ、香流は近づく気配を察していた相手に笑いかけた。


「いえ、ただの戯言たわごとですよ、苑枝殿」


 取り繕うように腕を組めば、苑枝は不思議そうな顔のまま、横へ膝をついた。


「お風呂、ご用意できましたよ」


「ああ、それはありがたいことです。 私もお手伝いしましたのに、お手をわずらわせました」


「あなた様はこの国のために尽力してくださったのです。 そのようなことはさせられません」


 香流が手伝いを申し出た時と同じことを言ってにべもない苑枝に、香流はまた小さく笑う。

 そして、「御当主は?」と銀正のことをたずねた。

 苑枝は近衛組に無理を通して、銀正の身の回りを世話するために、唯一庵に行っているのだ。

 苑枝は香流の問いに小さく目を伏せると、首を横に振った。


「お食事は、召し上がられました。 ですが、最早決意は固いらしく、これまでの労をねぎらうのと、感謝の言葉までいただきました」


 あの方は、死を見据えていらっしゃる。

 いつもは気丈な苑枝が、声を震わせて言った。

 香流はそれに気づかないふりをして、また庵の灯を見た。


「らしいなぁ……」


 声は無意識に自嘲じみて零れた。

 自分は明命に銀正の汚辱をそそぐと啖呵たんかを切ったのに。

 なのに今はこんなところで銀正が汚辱を飲み込んで腹を断つ時をじっと待つしかできていない。

 そんな悔恨に頬を歪める香流に、「……香流様」と、苑枝が呼び掛けた。

 香流がふと顔を静に戻して首を回せば、苑枝は何事かを迷うように言い淀んでから口を開いた。


「その、お話していただいた、耀角様のことですが…… 弓鶴様は、どのようなご様子でしたか?」


 香流は苑枝に、城で知った耀角の過去と、弓鶴の最期を話していた。

 耀角が弓鶴を守るためにずっと妻を見て見ぬふりしてきたことを語ると、苑枝は打ちのめされたように目を見開いていた。

 そして弓鶴が自ら死を選んだことも告げると、深く気落ちした様子で顔を伏せ、少し時間が欲しいと呟いたのだ。

 香流は苑枝の方に覚悟ができたのだと悟ると、ふと庭に目をやって口を開いた。




「弓鶴様は…… おそらく、深く打ちのめされたご様子でした。 あの方は耀角様をまだ心に置いておられるのだなと聞いた私に、否定をしなかった。 例え憎しみにその形を変えても、あの方は耀角様だけを見つめておられた。 だから、多分、」


「無上に耐えきれなかったのでしょう。 もう会えない人に、謝罪も、想いを告げることもできないことが」




 だから、弓鶴は耀角のもとに行く決断をしてしまった。

 二度と、互いが一人にならないために。

 そしてただただ、会いたかったから。

 香流の述懐に、苑枝は悲しそうに目を伏せた。 

 それから何度も息を吐いては飲み、その果てにもう一つ聞いた。


「弓鶴様の、最期は……?」


 香流はゆっくりと瞑目すると、まぶたの闇にあの時を浮かび上がらせた。


「笑っておられました」


 そうだ。

 弓鶴は笑っていた。

 きっと、心からの笑みだった。

 本当はずっと、こうしたかったと。

 そう心から解放されたような笑みだった。

 残される香流たちに、ひどい寂寥を置き土産にする、残酷な笑みだった。

 苑枝は耐えきれないとでも言うように口元を押さえ、肩を震わせた。

 その悲しみを、香流はじっと黙って待った。

 苑枝にも、苑枝なりの弓鶴への想いがある。

 その想いが最早会えない人を焦がれて泣くのを、邪魔する無粋などあってはならない。

 そうして夏の夜闇に束の間の悲しみがにじみ。

 しばらくして苑枝が言った。

 もう、あの方は、耀角様に出会えただろうかと。

 香流はそれに瞬きで答え、優しい口元で呟いた。

 あれほどまでに弓鶴様を思っていた耀角様なら、きっと迎えに来ておられるでしょうと。

 虫の声が響く。

 星が瞬く。

 夏の風が、どこかからやってきて、どこぞへと消えていく。

 香流はまた庵を見つめ、頬を撫でていく夏風と同じ刀を振るう人を想った。


「香流様」


 苑枝がそんな香流を呼ぶ。

 香流が目を向ければ、苑枝は懐から何かを取り出すところだった。

 布に丁寧に包まれたそれを香流が首を傾げて見ると、


「あなたにお渡ししたいと、坊ちゃまが私に用意させたのです」


 そう言って、苑枝がそれを開いてみせた。

 布の中から苑枝が差し出したそれは、


くし……」


 小さく香流が呟けば、苑枝は小さく頷いて、大切そうにその上等そうな半円の櫛を撫でた。


「香流様は、御存じでしょうか? 櫛を恋仲などで送り合うのは、」


「求婚の申し出」


 最後を引き受けて香流が言えば、苑枝は苦笑して頷いた。


「坊ちゃまが、あなたに贈り物をしたいと私に言いまして。 その時は髪紐をと言いつかりましたが、私の独断でこちらを買い求めました」


 苑枝の説明に、香流は痛みを堪える顔で息を飲む。 

 そして苑枝と同じような辛そうな笑みで笑って言った。


「……きっと、私との縁が切れることを、予見しておられたのでしょうね」


 髪紐をと銀正が指示したことをそう解すと、苑枝は肩を落として櫛を見つめた。


「私は、余計なことをしましたね」


 呟く苑枝の背を撫で、香流は同じように櫛を眺めた。

 ふと、思う。

 このようなことにならなければ、銀正はいつか自分で、これを香流に贈ってくれただろうか。

 その時に、銀正は、どんな顔で香流を見て、どんな言葉で想いを語ってくれただろうか。

 その想いは、香流が抱くものと同じ形だろうか?




 …………自分が抱くもの?




 不意に考えたことに香流は気を取られた。

 そういえば、自分は銀正をどんな風に思っているのだろう。

 大切な人とは思う。

 失えない人だとも。

 それは、銀正の本質を美しく思うが故の、思慕。

 人として、尊敬と親愛を抱く想い。

 でも、

 昼間に城で銀正が自分をその他大勢と同じ形で大切に思ってくれることに、香流は痛みを覚えた。

 ただ敬意を持って想っているだけなら。

 陽を注ぐ天道様をあおぐように、一方的に心寄せているだけなら、銀正から向けられる想いの形など関係ないはずだ。

 しかし、あの時確かに香流の無意識は呟いた。

 足りない、と。

 それは、見返りを求める想い。

 手で額を押さえる。

 前髪をかき上げて思考する。

 いや、心の水底は、すでに答えに達している。

 香流は、

 私は、




「(あの人を、)」




 ああ、

 ため息が漏れた。

 瞬間、香流は初めて迎えいれる感覚に打ち震えた。


 そうだ、自分は、きっと、銀正を、



 誰にも犯させたくないと願うほどに、






「私は、あの方を好いているのだなぁ……」






 それは、感嘆だった。

 実はずっと、香流にとって銀正は、比肩となるにふさわしい人かどうかでしかなかった。

 だからその芯の美しさや、信を置くにふさわしいかどうかばかり気にしてきた。

 だが、今になってようやく思い至ったのだ。

 香流は銀正を慕っている。

 それも心から深く深く。

 全身全霊をかけてもいいと思えるくらいに。

 でも、それだけでは飽き足らないのだ。

 香流は、全てを銀正に明け渡してもいい。

 その一方で、同じだけ欲しいと思っていた。

 対価としてほしいというわけではない。

 対等な欲ではないのだ。

 一方的で、暴力的な、衝動すら内包する希求。

 これは、最初に銀正に抱いた尊敬などとは、対を成すもの。



「私は、あの人が、欲しいのか……」



 相手を尊重し、寄り添いたいと思う心と並び立つもの。

 相手の全てを掌中に収め、己の全てを受け止めてほしいと癇癪するような。

 それは、





「私は、あの人に欲を抱いているのか」





 目が見開かれるようだった。


 こんな想いを抱いたことは、生まれてこの方一度たりとてあったことがない。

 香流はもやの晴れた景色を臨むように、己の胸中を眺めた。

 そして最後に深い感銘を以って呟いた。






「私は、あの人がほしい」と。






 横で、苑枝があんぐりと口をあけて香流を見ていた。

 香流はそれに気づくことなく、思い至った答えに打ち震えていた。



 すると、瞬間。




 ズル! ドサッ!!


「「!?」」





 広縁に座る二人の上から、何かが落ちてきた。

 苑枝が仰天して香流にすり寄ると、感動から引き戻された香流はその背をさすりながら半眼になって冷たい声を発した。


「……何をやっているんですか」


 落ちてきたのは、真殿配下のあの間者だった男だ。

 男はえへへと情けなく笑うと、尻をさすって立ち上がった。


「いやぁ、なんかすごい呟きが聞こえてきたもんだから、足が滑りました」


 面目ないと頭をかく男に、苑枝が香流に縋ったまま固まっている。

 それを落ち着けてやりながら、香流は「立ち聞きとは感心しません」と憮然と言う。

 男はそれに、


「いや、姫さん気づいてたでしょ? なら無罪無罪」


と、手を振って笑った。

 確かに気配で気づいていたが、出てきていないから見逃していただけだ。

 どうせ香流が無茶をしないように、真殿から付いているよう言われていたのである。

 「姿を見せたら有罪ですよ」と切り捨てると、香流は固まったままの苑枝に向き直って、膝の上の櫛を示して言った。



「苑枝殿、その櫛、いただけますか?」


「え……?」



 苑枝は戸惑ったように口を開く。

 それに、寂しい笑みで頷くと、香流はもう一度庵の灯りを見て、呟いた。


「私は、あの人を諦められそうにない」


 苑枝が息を飲む。

 香流はそれに笑い、再び願った。

 「それを、ください」と。

 苑枝はその眼差しに唇を噛みしめると、うやうやしく櫛を香流に手渡し、どうかとその手を押さえて言った。




「どうか、もう二度と、あの方を一人にしないでください」


「この国のためにずっと耐え続けたあの方を、」


「もうあの方を、一人にしないでくださいませ……」



 ご両親と同じ悲しみを味わわぬように。





 身を切るような願い。

 それに香流はゆっくりと頷き、「……承知いたした」と深い声で返した。

 それから傍で見ていた男を振り仰ぐと、視線だけで庵を指し示して見せる。

 男は面倒そうなのと、好奇心が抑えきれないとの、半々の顔で「ええ~?」と仰け反って見せてから、香流の冷えた眼差しにきりと顔を引き締め、こくこくと首を振って返した。




 もう何もかも手遅れだったのだ。

 それに気が付いた香流は、二人でもう一度決めるために、動くことを決断した。

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