五十一
城を揺らす激しい衝撃と轟きが過ぎ去った後。
母の亡骸に覆いかぶさるように身を伏せていた銀正は、周囲を取り巻く砂埃に目を眇めていた。
「(何が起こった……?)」
音は、城の外壁が外から崩された結果らしかった。
辺りは吹き飛ばされた壁の破片が散乱している。
砂埃の向こうに外光が見えた銀正は、何かがそこに立っているのを見つけた。
少しずつ晴れていく視界の中、壁に空いた大穴を背にして立っていたのは――――異形。
黒い毛並みに、鋭い爪持つ二足立ち。
腹を縦に裂くような大口には生えそろった牙がむき出して、てらてらとした唾液が卑しく光っている。
狼だ。
大狼のような異形だった。
それも、項を貫くようにそそり立つあれは、三の殻・角。
「(甲種ッ?)」
銀正は瞬間、動転した。
どうしてこんなところに甲種が。
この国は、明命の力がある限り、飢神は入ってこられないのに。
なのにあろうことか、最上位の甲種がこんな国の中枢に。
一体、どうして。
腕の中の母の体を庇いながら、銀正は仰け反った。
そんな銀正の驚愕などどこ吹く風とばかり、大柄な異形はゆっくりと首を回して、泰然と鼻をひくつかせた。
『ああ…… 久しい匂いが一つ、 …………ああ? もう一つありよる。 さてはて、』
にいいいと大口の上の小さな口を歪めると、異形はぬたりとした声で砂埃の向こうに呼びかけた。
『出て来い、居るんだろう?』
それは、誰に対しての呼びかけだったのか、銀正には分からなかった。
だから砂煙の向こう。
大ハタキを肩に背負って現れた人影に、息を飲んだ。
『おう、久しいな。 息災だったか?』
異形は人影を両腕を開いて迎え入れる。
その親しげな態度を鋭く睨み、その人――――香流は低く唸るよな声を発した。
「どうしてお前がここに居る」
『どうもこうもない。 お前が己の前に姿を見せんようになって数月。 いい加減おかしいと里の連中をつついたら、どこぞから戻ったお前の兄が言ったのさ。 『お前は嫁に行った』とな』
「っんの、馬鹿兄……」
ハタキを担ぐ肩ひもを握り、香流は毒づき吐き捨てる。
それを愉快そうに笑い、異形は言葉を続ける。
『嫁入りとなればお前、もう里には戻らんのだろう? そうなっては敵わんから、探しに来たのさ。 真殿が嫁ぎ先は西の美弥という国だと言っていたから、とりあえず西へ向かって真っすぐ来た』
「…………」
『しかし、道中さすがに行き先が分からねば難儀する。 道なりにそのあたりを縄張りにする甲種どもをねじ伏せて、この国を突き止めた』
「……この国は、飢神には見えぬはずだ」
『そうだな。 己も最初は、この国の存在に気が付かなんだ。 だが、この辺りの甲種が、『おかしな場所がある』と口をそろえて言う辺りがあるものだから、そこを目指してみた。 そうしたら、己を追ってきていた崩渦衆の追撃が激しくなる。 これは当たりかと踏んだわけだ』
「兄たちはどうした」
『心配するなぁ、まだ食い殺しておらん。 外に置いてきた。 この国を包む『見えぬもの』を喰い破って中に入ったら、再び張られた『見えぬもの』に、奴ら外へ締め出された。 それで都合がいいとお前の匂いを追って、ここまで来たのさ』
「狙いは私か、――――渦逆」
渦逆。
香流が呟いたその名に、銀正は瞠目した。
それは、この国に迫っていた特別監視対象の甲種のはず。
つい先刻、銀正はその飢神を食い止める狩場を配下たちに託して飛び出してきた。
なのに。
こいつは、美弥狩司衆の網をかいくぐり、明命の力すら破って、この国に侵入したというのか。
それは並の飢神の技ではない。
長く争いごとから身を引いていたとはいえ、明命は多くの業人を食らって力を蓄えた甲種だ。
その力を喰い破るなど、余程の力がなければ成せない。
『奴は、董慶様の腕を喰った飢神です』
屋敷裏の山中で、香流が告げた事実が甦る。
真人であった昔の董慶の練華を食らったもの――――『練華喰い』。
『強いですよ』
掛け値なしと真剣な眼差しで断じた香流。
それが、彼女を追ってきた?
どういうことだと渦巻くような疑問に、銀正の頭は飽和する。
しかし、問いを発する余裕などあろうはずもない。
息つけぬ二者のにらみ合いに圧され、銀正は生唾を飲んで事の成り行きを見守った。
片や、再会の歓喜。
片や、襲来の苛立ち。
湧き上がるような衝動を燻らせ、そして、渦逆が動いた。
『確かに本命はお前だが、今さっき、もう一つ用ができた。 ――――まぁ、何はともあれ、お前を見つけられたのは幸いだった。 だが、再会を喜ぶ前に…… まずはあちらだ』
ぐるると喉を鳴らすと、渦逆はまだ砂埃の舞う室内をぐるっと見回した。
そして鋭くにらみつけた先に、もう一体の異形を見つける。
『お前が、ここの主かぁ?』
『ぎぃっ!?』
ぐわりと膨張した渦逆の気配に圧され、闇に蹲っていた明命がぎくりと体を震わせた。
明命は失った腕を庇いながら、ずりりと後ずさる。
『お、お前がわしの力を破ったのか?! 何者だ、貴様?』
『素性などどうでもよかろう。 己はさっさと用を済ましたいのだ』
渦逆は面倒そうに、いや、苛立たしそうに鼻を鳴らすと、二の殻・爪の生えた手で明命を指し示し、
『お前、董慶を食らった飢神だろう』
そう、断じた。
言葉と共に、渦逆は凄まじい威嚇の気配を纏う。
それは周囲の者を圧迫して、息を飲ませた。
明命も多分に漏れず、恐れ戦いて仰け反り叫ぶ。
『だからなんだ! なんだというんだ!? あの忌々しい鼠一匹喰ろうたのが、貴様に何の関係があるというんだ?』
『あるさ、大いにな。 あれは、己の獲物だった』
『あれの練華を喰ったのは己だ。 だからあれが再び狩場に戻れば、己なりの敬意で、己があれの全てを喰らうつもりだった』
董慶の比肩の贄を喰ったから。
贄になるという選択をするほどの渡り合いをしてきた狩士であったから。
だからその身の全てを喰らうのが、飢神としての己の誠意。
そう大言して、渦逆は嗤う。
『なのに奴は旅から戻らず、どこぞで下らん輩に喰われて死によった。 腹立たしい話だ。 己はいつか奴を喰らった飢神に落とし前をつけさせると決めていた。 そうだ――――お前だ』
お前なんだろう?
そう言って、渦逆は明命の奥の暗がりを指し示す。
暗がりは、渦逆が開けた穴のおかげで、わずかに見通せるようになっていた。
大量の人骨と乾いた血糊が広がるそこ。
その一角に、喰われた業人たちが身に着けていたらしき衣装や、物品が転がっている。
多種多様な品々がせめぎ合うなか、渦逆は一つの根付をじいと視線で捕らえていた。
銀正も、騒ぎで転がり出てきたらしき『それ』を認める。
『それ』は、確かに見覚えがあった。
あの、董慶が死んだ晩。
庵に戻ってきた董慶が、大切そうに持ち出していた根付だ。
あの人のものだろうか。
黒くなってかさついた血がこびりついた、董慶の遺品だった。
『それは、奴の里の狩士が持つものだ。 その血も、奴の血だ。 お前が奴を喰った証拠だ』
なぁ、奴はうまかったか?
最早、それは苛立ちよりも怒り。
狙う獲物を掻っ攫われた渦逆は、怒りに満ちた気配で明命を圧迫した。
『あ、あ、あ、』
向けられたものに恐れをなした明命は、失った腕を前に出して無様に喘ぐ。
『き、きさま、練華食いなのか……?』
信じられないというその表情に、渦逆は獰猛に嗤う。
そして刹那。
目にも止まらぬ動きで、明命に襲い掛かった。
明命に群がる上格たちを払いのけた渦逆は、思うさま肥え太った蟷螂の腹に喰いついた。
大柄な異形に、力任せに壁や柱に叩きつけられた上格たちは、揃いも揃って気を失ったらしい。
配下を失った明命は腹に牙を立てられ『ぎゃぁ!』と叫び、残っていた鎌で渦逆を払おうとする。
しかし、口を離した渦逆が爪を振るった瞬間。
項に突き立つ角が発光し、噛み合った渦逆の爪と明命の鎌の間から、破裂音。
『ぎゃぁあああああ!!?』
悶絶する明命の叫びと共に、鎌が激しく四散した。
飛び散る肉塊と体液。
その臭い雨を浴びながら、渦逆は哄笑する。
『あ゛ははははッ 何とも憐れ! ようし、その無様に免じて、お前の腕を吹き飛ばした己の力を教えてやろうっ』
『己の異能は『捩』ッ この爪触れる全てのものを塵芥に返す力!』
そう嗜虐の笑みで叫びあげ、渦逆は再び明命に襲い掛かった。
巨体同士の凄まじい攻防は熾烈を極めた。
異形の喰らい合いを呆然と見つめていた銀正は、その時走って近づいてきた香流に、勢い声を飛ばした。
「香流殿っ あ、あれは、やはり……」
「ええ、件の特別監視対象です」
香流は銀正に背を向けるようにしてその場に座り込むと、背負っていたハタキの底を割った。
すると、中から布に包まれた三つの塊が滑り出てくる。
香流は一番大きな包みを広げると、襷らしき紐に結びつけられた拳より小さい楕円の物体に、素早く小さな包みの中の塊を差し込み始めた。
「ど、どうして…… あれはあなたを狙っているんだ?」
異形たちの屠り合いが続く中、銀正は気を動転させたまま問うた。
「それに、それは、一体……」
動揺に揺れる視線で香流の手元を示して呟くと、香流はただ一言。
「……きっとすべてお話します」
そう言って、弓鶴を一番遠い柱の陰に隠すよう指示した。
急いでと急き立てられ、銀正が弓鶴を隠して戻ってくると、香流は全ての準備を終えたらしかった。
そして、
『あ゛あ゛あ゛あああああ!!!』
明命の絶叫が響き渡る。
銀正がはっと視線を上げると、今まさに渦逆が抑え込んだ明命の喉元に喰いつかんとしているところだった。
明命の喉元には、牙に覆われた灯臓がある。
明命はそれを取られまいと、全ての牙を閉じて応戦していた、その時だ。
渦逆の牙が、それに噛みつく。
『ぎゃあああ!』
瞬間、噛み合った二者の牙の間から、激しい青い火花が生じた。
あれは、
「『牙炎』っ!?」
銀正が驚きに叫ぶ。
『牙炎』とは、飢神の中でも上位種になるほどに生じる特別な現象だ。
飢神については、まだすべての生態の解明がなされているわけではない。
中でも牙炎は謎の多い現象の一つで、通説では、瞬時に牙を再生させるほどの高い熱源である灯臓に近いことが、発生に大きくかかわっているとされている。
上位種同士の牙が当たらねば発現しないという条件から、牙炎という現象自体は希なものだ。
ただ、その現象を安全に見る術もあるにはある。
それには、相当の苦労と、あるいは高額な金銭が必要になるのだが――――
そんな書物の中だけの現象を目の当たりにした銀正の目の前で、渦逆が鋭く異能の力を帯びた爪を振るう。
『捩』の力は明命の牙に風穴を開けた。
力を発生させ続けることで牙の再生を封じた渦逆は、明命の口をこじ開け、瞬間。
腹に開いた方の口を大きく開けた。
そして、
『あああああああ!! いや、やめ、やめろ、やめろおおおおおお!!』
牙を剥かれ、無防備になった明命の灯臓にぐわりと食らいつく。
ぐちぐち、ぶぢちぃ!!と、肉を裂く悍ましい音が溢れ、激痛の恐慌に明命が叫んだ。
しかし、それが奴の最後の言葉になった。
――――ブヂンッ!!!
渦逆の強靭な顎が、明命の中枢である臓器を、生きながらに喰い破る。
破られた灯臓は末期、仄かに輝くと、その輝きを消し去った。
同時に明命の瞳孔が光を失い、肥え太った巨体がびくりと大きく震える。
そして、この国を長く闇から蝕んでいた異形は、呆気ない最期を迎えた。
かと思た途端、
『ああああああ! 不味い! 不味い不味い不味い不味い不味いいいいいい!!』
「!?」
明命の臓器を喰らった渦逆が、唐突に苦々し気な咆哮を上げた。
びりびりと空気を震わせる轟きに、銀正は腕で顔を庇って顔を顰める。
なんだ、どうしたと異形の錯乱を眺めた時、
『ああああああ! どうしてだっ どうしてこんなに不味い!! どうしてあれは咲かないんだアアアアアアア!!』
身もだえるように明命の亡骸に当たり散らし出す渦逆。
『捩』の力で破裂した肉と体液が、周囲に飛び散る。
死んだばかりの肉の、凄まじい匂いが充満する。
あまりに惨い惨状に、銀正は束の間竦んで動けなかった。
異形の猛威に、気圧された――――そんな目前に、
細い背が立つ。
「香流殿!?」
ゆっくりと渦逆に近づいていく背中に、銀正は声を飛ばした。
だが香流は振り向かず、手にした塊の結んである襷を肩にかけ、最後に残っていたもう一つの小さな包みを懐に沈めて歩き続けた。
『あああああ…… 喰いたい、うまいもの…… あの華が、喰いたい……』
「御当主。 アレは、狂うているんですよ。 練華を喰ったばかりに、最早練華しか受け付けぬ体になってしまっているのです」
歩みながら語る香流の背を、銀正は見つめる。
その背は、追うなと言っていた。
けっして近づくなと。
常人にはありえない凄まじい圧に、銀正は戸惑った。
「くる、う……?」
「ええ、おかげで奴は生き延びる以外の肉のほかは喰うことができず、苛立ちから悪戯に多くの命を殺めるようになった。 人も、飢神も。 ただ、殺すだけのために殺すようになった」
そして、練華によって力が増強したことも踏まえ、渦逆はこの国有数の脅威として数えられるようになった。
香流の里の狩士たちと渡り合いながら、今日まで生きてきた。
「そして奴は待っているのですよ。 次の華が咲くのを。 再び至上の美味を味わう日を」
だから、渦逆は香流を追ってきた。
「私があなたのもとに嫁いだのは、私と渦逆を引き離すためでもありました」
『そうだ、そうだ…… 待っていたよ、ずうっと待っていた』
不意に、狂乱から起き上がった渦逆が、ひどく優し気な声音で呟いた。
ゆっくりと肉塊と化した明命の死体から起き上がり、おどろおどろしい体液にまみれながら、渦逆は微笑む。
『この国でお前の存在を認知したときから気が付いておったよ。 ――――真人になったのだろう? 義任』
「真、人?」
ありえない言葉を、銀正が無意識に繰り返した一瞬。
香流と渦逆が、互いに向かって駆け出した。
「!? 香流殿っ」
風のように駆けるの背に、叫びは届かない。
走り去る背は躊躇いなく異形に立ち向かい、驚愕と恐怖に目を見開く銀正の目の前で、人と異形は交錯した。
その時だ。
バァアアアン!!
激しい爆砕音と共に、火炎と爆風が押し寄せる。
銀正は咄嗟に顔を庇い、床に伏せた。
そこへ跳んでくる破片。
『がはははははああああああ!』
渦逆の哄笑が響き渡る。
見れば、爆発の中心に立つ異形は、仄かな発光の膜に包まれて立っていた。
光は、項の角の発光と同じ。
とすれば、あれは能力の形態の一つか。
そう銀正が思考したのを肯定するように、遠くから声が飛ぶ。
「こいつは『捩』で体を覆い、防御することもできます。 だが、このやり方は多くの力を食う。 長くは張っておけません」
爆風渦巻く渦逆の向こう。
巻き上がった砂埃を払いながら、香流は現れた。
その手には、あの襷から引き千切ったらしき楕円形の物体。
「だから、こうして」
言うが早いか、香流は立ちあがった渦逆に向かって物体を投擲。
そして間髪入れず、懐から取り出した小石のようなものを構え――――投げた!
「!?」
瞠目する銀正の目の前で、物体は渦逆の背後の柱に弾き返り、後から香流が放った小石と衝突する。
瞬間、
バァアアアン!!
再び轟くような爆音と共に、火炎と風を発生させて物体が四散する。
その勢いには何らかの硬質な欠片が乗っているらしく、再び力を張った渦逆に、ものすごい勢いで雨霰と降り注いだ。
しかし、破片は『捩』に分解されてすぐに塵と化す。
一つの傷も負わず嗤う渦逆に、香流はそれでもびょうとも揺らがなかった。
「いいのですよ。 手傷を負わせることが狙いではない。 継続的に力を出させて、こいつを疲弊させることが目的なのです」
「あなたは……」
すでに目の前の全てが内で飽和しきり、銀正は呆然と香流を見つめていた。
何もかもが、納得までいかない。
刀を扱えるとはいえ、あまりに常人離れした香流の戦い方も。
狩場に立つはずのない香流が、飢神である渦逆と旧知の仲であるような風情なのも。
その渦逆をあしらう術を、知っているような物言いも。
何もかもが、今まで銀正が知っていた香流という人の姿を塗り変えていく。
あなたは、一体、
「一体、何者なんだ…… 香流殿」
呟きを、拾う声があった。
『なんだ、知らんのか』
可笑しそうに揺らぐ声は、その主は。
『捩』の力を解いて、ゆっくりと立ち上がった。
異形の目が、銀正を見て歪む。
楽しい秘め事を明かすように、無邪気に嗤って言った。
『なら教えてやろう、小僧。 その娘はな、』
舞台の口上のように朗々と。
渦逆は砂煙に立つ香流を指し示して、その秘密を暴く。
『この嘉元国においてその存在を畏怖される唯一無二の狩士一門、――――『左厳家』』
『それは、国に属さず、主を持たず。 ただ飢神を狩ることだけを生業に、左厳という名のもとに集った腕利きの狩士集団。 国に、狩司に金で雇われ、請け負えばどんな飢神相手にも刀を振るう、荒くれどもの集まり』
『その左厳家でも、一門で特別力のある八名だけが選ばれる、『左厳八刀選抜』』
『その第四位』
『左厳義任流香坐』
『それがこの娘だ』
視界が開く。
全てが明確に、鮮明に。
驚嘆と共に、銀正へ迫った。
男の驚天動地を満足げに認め、渦逆は最後に告げる。
『正真正銘、千獲万狩と呼び声名高き、左厳の名を継ぐ狩りの鬼だ』
そう言った。




