『胸中』
あの娘が狂い笑いに溺れゆく様を目の当たりにした瞬間。
弓鶴はああ、やはり駄目だったのかと、落胆と、歪んだ安堵で目を伏せた。
*
あの娘は、もう一度だけ今生に賭けてみようと、今を変える楔になるものを求め、明命に強請って誘き寄せた娘だった。
弓鶴は、娘が厭わしい次子と縁を結び、どんな結末に至るのかを試してみたかった。
自分と同じ、右治代という家に入る娘と、受ける次子。
縁結べず、互いの仲が破れ去れば、同病相哀れむような同情で愛してやれると思った。
しかし、もしも。
もしも、娘と次子が、弓鶴の得られなかったあの美しい夢を体現して見せたなら。
今度こそ弓鶴は、全てを手放そうと思っていた。
自分を顧みなかった耀角への怨嗟も、耀角へ瓜二つな次子への拒絶も。
忘却を只管恐れ、憎しみにすら縋って引き留めようとした耀角への想いも。
すべての中心にいる耀角という人に関わるものすべてを過去にして、見切りをつけようと思っていた。
そうして何もかも失った空っぽの体を抱え、がらんどうの心で明命に従うだけの日々を過ごそうと思っていた。
もう何もかも、億劫だったのだ。
ただ命じられ、それを成すだけで日々が過ぎていくなら、それでいいと思ってしまっていた。
それが、人の道に反する行いだとしても。
幼い日に見た美しい夢をもう一度見いだせれば、もう他に何も望むつもりはなかった。
けれど、二人は決定的な断絶を、明命に突き付けられた。
娘は次子の罪を知り、なぜだと問いただした。
次子は己の罪に押しつぶされ、無様な謝罪を繰り返した。
船上で娘の中に見た『芽吹き』が、踏みにじられていく。
弓鶴の目には、二人の間は最早別たれたと思えた。
なのに。
娘はその目に宿る炎を、次子を断罪するためには使わなかった。
狂い笑の果てに、娘は次子の頭を、思う様打ち据えた。
そうして冷え切った――――いや、暴発の直前に迎える一瞬の静けさの目で見降ろして言った。
『目は覚めたか』と。
娘は、確かに許さなかった。
しかしそれは、次子の犯した罪に対してではなかった。
それはおそらく、次子が娘に、己の血塗られた過去を詫びたことに対してだった。
娘は、全てを明かした明命を見据え、劫火の怒りで断じた。
ふざけるなと。
娘は看破していた。
次子が贄を明命に差し出し、この国の平穏の対価に代えてきた過去。
その歪な有様をただただ見過ごしてきた日々が、決して次子の本意ではなかったことを。
配下を質にとられ、側近である上格たちに監視されて、頼みとする者を一人も作れなかった次子。
この国の闇を知りながら、たった一人、血だまりに立っていなければならなかった子。
どんなに現状を打開したいと願っても、打てる手を全て奪われ、次子は一つの道を選ぶしかなかった。
明命の切り札『国崩し』によって、『全て』を失う代わり、明命に贄を捧げるという『少数の犠牲』で多数を守る道を。
娘は言った。
次子は死ぬこともできたはずだったと。
しかし、それをしなかった。
それは、犠牲を出すという非情な選択を、他の誰にも負わせぬためでもあったはずと。
そうして全てを理解した娘は、炎の決意と共に告げた。
血にまみれ続けた男だと、次子を貶めるのなら、私がその汚辱を雪いでみせる。
そう、断言した。
立ち尽くす娘は、怒りに焼けていた。
明命への憤りも、確かにそこにはあった。
しかしそれ以上に弓鶴には、娘が次子への怒りと、次子が自責に溺れる様を目の当たりにした遣る瀬無さに、泣いているように思えた。
耐えられないと。
明命に無理やり負わされた罪を、決して許されようともせずに身の内に抱え込み、深い自責で己を縛り続ける次子が、大切だったから。
だから、これ以上の罪の意識で己を縛り付けないでほしいと。
娘は次子の選択に傷つき、慟哭しているようだった。
娘に打ち据えられた次子は、悲しみを焼くために怒り散らす娘を、呆然と見ていた。
娘に全てを知られたと怯えていたその目は、確かに語っていた。
この人に見捨てられたくないと。
次子は、きっと赦しなど望んではいなかった。
そんな温い結果を望めるほど、器用な男ではなかった。
なのに、許されることはないと諦観しながら、次子は娘という存在を望むようになってしまっていた。
二人の間に何があったのかなど、弓鶴には分からない。
しかし、次子の中には、確かに娘に向かうモノがあった。
明命の妄言を打ち払い、自身の汚名を雪ぐとまで言い切った娘を、その背を、次子はずっと見ていた。
もうこれ以上なんてない。
これ以上、あなたへの想いを抱えるのが恐ろしいと。
これ以上は失えなくなってしまうと、泣き出しそうに顔を歪めながら、次子は娘を見ていた。
娘へ向かう想いが、愛おしすぎるが故に。
失うのが恐ろしいと悲嘆していた。
その様を、目の当たりにした瞬間。
弓鶴は愕然としていた。
どうして。
どうして、これらはこんなに美しいのだろうと。
ずっと望み続けた、あの美しい夢。
比翼の鳥。
信じ、信じられて、飛ぶ番。
今目の前にあるものは、あの穏やかで優しい夢には、遥か及ばないのに。
その食い違う様は、どうしようもなく痛々しいのに。
どうして、こんなにも美しいのだろう。
何もかも負いすぎるなと、全身全霊で泣いて怒る様は、ひどく激しく近寄りがたく。
何もかも己の責と、遠ざけるように拒絶する様は、あまりに絶望深く手を伸ばすに難く。
寄り添い合うには、どうしても歪で、噛み合わなくて。
想いの先も、向き合い方も、違いすぎる。
なのに。
だというのに。
その有様は、胸を掻きむしるほどに美しい。
削り合うように、傷つけて、傷つけられて。
それでも、娘はがむしゃらに次子と近づき合おうとしているように弓鶴には思えた。
娘の意志を目の当たりにした次子は、許されないという自縛の内で、押さえきれない何かに、ひどく苦悩しているように見えた。
それは、他者の言葉や影響が決して届かぬ身の内の奥深く。
意志の根源たる水面へ、うねるように荒れ狂う流動――――『想い』というもの。
『あなたが一人傷つくな。 私を遠ざけ、孤独に逃げるな』
離さない。
『これ以上想わせないで。 私はあなたを望んでしまう』
離れたくない。
その力が突き動かす、それでも誰かを望みたいと断じる願い。
その発露だと、弓鶴は思った。
あの美しい夢とは、優しさも、穏やかさも、なにもかも違うのに。
その在り方は、どうしようもなく弓鶴を魅了した。
これが、いい。
これが欲しいと、思った。
この美しいものを、手の内に取り戻したかった。
だから、弓鶴は声を発した。
この二人を、もう少しだけ見ていたかったから。
もう少しだけ、生かしておきたかったから。
束の間の助命をと、明命に進言した。
しかし、それは彼の異形の怒りを買った。
欲に我を忘れかけていた明命は、弓鶴を用済みと切り捨てた。
そしてその真実を、教えてしまった。
全てを聞き終えた瞬間、立つべき場所が、崩れるような。
そんな、絶望が覆いかぶさってきた。
嘘だと、否定してしまいたかった。
けれど、醜悪な異形は弓鶴を逃避させてはくれず。
何もかもを明らかにして、そして、言った。
『お前は、愛されていた』と。
片翼の番が、飛び去ってゆく。
青く果てない空に消えてしまう。
自分はもうどこにも行けないのに。
あなたを亡くし、怨みにまで縋って。
記憶だけでも取りこぼすまいと、かき集めて立ち尽くしていたのに。
背後で、足音がする。
懐かしい、慕わしい気配が、遠ざかっていく。
行かないで。
私を置いて、行かないで。
私は、決めてしまったの。
あなたと共にでなければ、どこにも行かない。
決めてしまったから。
だから私を、
連れて行って。
一人は、嫌なだけだった。
二人で、居たいだけだった。
それだけだったの、本当は。
だからあの夢を愛したのかもしれない。
でもそれは、結局独りよがりだったのね。
信じあうなんて、美しい言葉で飾っただけの、馬鹿な夢だった。
あなたも、守るだなんて、結局独りよがりで。
私も、待つだなんて嘯いて。
私たち二人とも、自分で選んで一人になった。
近づこうと思えば、できたはずなのに。
馬鹿な話ね、馬鹿な過去ね。
もっと、歪に削り合うように向き合っていれば。
私たち、たとえ痛くてもそばに居られたかしら。
あなたの頬を張って、あなたに喚き散らして、そして私、
泣けたかしら。
あの娘のように。
そうしたらあなたは、私のそばにいて下さった……?
ねえ、耀角様。




