四
大広間に、ずらりと並ぶ膳の列。
そこへ座するは礼装の男たち。
凡そが壮年から老境に差し掛かった者ばかりの、美弥狩司衆の上格(狩司衆の役職持ち)たちだ。
その列の終い。
室内の上座に設えられた金屏風の前には、黒と赤の、対の男女。
右治代家現当主・右治代忠守と、装いを果たした香流の姿があった。
「今宵は良い日だ。 御当主もとうとう、許嫁を迎えられる。 これで右治代の家も安泰だ」
酒の回った息をまき散らしながら、列の先頭にいる男が銀正へ徳利を差し向ける。
白い手にある小さな杯はなみなみと液体が注がれ、行燈の火にゆらりと艶めいた。
彼是、数刻。
宴は酣を過ぎてもなお、だらりだらり、締まりなく続けられていた。
酒が入れば体裁を忘れるのは、格式高いと高名な美弥の者も、里の男衆も同じか。
宴の開宴以来一口も物を食まず、言葉も交わさずにいた香流は、じっとそんなことを考えていた。
基本的に、このような場で女が(例え主賓とはいえ、いや、主賓であるからこそ)自己を主張することは望まれない。
そんなことをすれば、のっけから慎みのない娘だと後々後ろ指を指されるのが関の山だ。
女は淑やかに、主張を控え、男に寄り添う華であること。
そんな常識はやはり、この嘉元国のどこででも通ずるものだと、精いっぱいの猫を被りつつ、香流は安堵していた。
『いいですか、香流。 男は大抵、自分の思い通りにならぬもの、ならぬことを嫌います。 万年幼子と中身が変わらぬのです。 ですからそこを上手く手玉に取って、万事思い通りと思わせたまま、己の狙い通りに事を運ぶのが肝要ですよ』
嫁入り前、苛烈な母が滔々と教示していた言葉が頭を泳いでいく。(父と兄は、閉口していた)
お前は直截が過ぎるから、そこばかりは心配ですと、大仰に溜息をついていた母。
安心してください、母上。
香流は教えの通り、望まれる振る舞いをしておりますよ。
ただ、もうそろそろ意味なく座り続けることに飽いてきただけで。
形ばかりとわかる、薄っぺらい歓迎の言葉。
当主に纏わりついてゆく、重苦しいおべっかたち。
誰もがどこか、自分を隠して偽りに笑う、気の安らがない空気に満ちた室内。
伏せた視界に、畳の目を数える。
ああ。
あと何度同じ列を数えれば、ここから抜け出せるだろう。
そんな風に思考をぼやけさせたとき、
「許嫁殿は、本当に慎ましいお方だな。 宴の始まりからずっと、しんと畏まって、揺らぎもせぬ」
酒精に揺らぐ声が、香流の意識に触れた。
近しい場所に座っていた一人の男が、いきなり香流を話の中に引っ張り出したのだ。
はっと意識を奮い立たせたときにはすでに遅く、多くの視線が自分に突き刺さる気配。
「おお。 そういえば始まりからこの方、一度も声を聴いておりませんなぁ」
「面も伏せったままで、ようく顔を拝見してもおらぬ」
「赤を身にまとっておらねば、そこに居ると気づかなかったでしょうなぁ!」
理性の箍が外れかかったような、どうっと押し寄せる笑い声。
渦巻く流れに翻弄され、己が頼りない金魚のように思われる。
そんな姿を肴にしようと向けられる、好奇の目たち。
ああ、草臥れる。
どうにも今の自分は、歪んだ笑いの種になることを望まれているらしい。
宴も終いの際になって、小さな鉢の中、取り囲む老猫たちに混ぜっ返されているかのようだ。
顔を見たい、声が聴きたい。
酒臭い声が、あとからあとから吹きかけられる。
だがしかし、どうせ面を上げて見せても、無難な言葉を返しても、後々悪評となるだけだ。
目を合わせてきた、生意気な女だ。
上座から声をかけるとは、驕った小娘だ。
そんなような値札を張り付けられる。
億劫だ。
すべてが読み解けて、反抗心も湧かない。
ここで香流がすべき正しい反応は、年相応に戸惑って言葉も出せぬ、他愛ない娘を演じて見せること。
そうやって、老いゆき肥大した自負心を満たしてやること。
それが無難。
なみなみと注がれる酒を手に戸惑いを演じながら、香流は小さくため息をついた。
ふと、何とはなしに、横の気配を探った。
自分の婚約者――――この家の当主は、我関せずとばかりに黙々と酒を飲み下すことに集中しているようだった。
横で香流が絡まれているのに、一言の庇い立てもないらしい。
当然か。
香流は、銀正がこのように振る舞うことも予見できていた。
どうせ自分は、名ばかりの許嫁だ。
今この場所で、香流の味方をするものなど一人も居ない。
このように無体な扱いを受けても、誰も助けはしない。
客も、この男も、誰もが香流を良く思っていない側の人間だ。
自分はここでは歓迎されていない。
望まれていない。
存在を許されていない。
それらをこの宴を通して、香流は心底思い知っていた。
が、しかし。
それがどうした?
ぐいっと、一息に。
女に強いるには度の過ぎる酒を、香流は飲み干した。
喉を焼く火が、奥底に熱をともす。
そうしてただ静かに、香流は己の腹を据えて口を引き結んだ。
なるほど、ここは自分にとって虎穴という訳だ。
少しでも気を抜けば、この抜け目ない虎たちに襤褸切れのような有様にされてしまう。
とても生半可な覚悟ではやって行けぬ。
とはいえ、実際に取って食われるわけでもあるまい。
逆に考えれば、侮られている分、間者として動きやすいということ。
五老格たちは美弥、右治代の内情を少しながらでも窺い知れれば御の字といった風情だったが、命を受けた以上、香流もなるたけの事をするつもりであった。
なれば、今はこの扱いを、粛々と受け入れていよう。
あまり面白味を感じなくなれば、この家の者も香流に興味を失うだろう。
悪意の疎ましさは、それまでの辛抱。
嫌悪? 侮蔑? 上等だ。
ことりと杯を置き、前を向く。
客の全てが、虚を突かれたように己を見ている。
陰でこそこそ、不器量と謗られていたことぐらい気づいている。
だとしても、と目を細めた。
「(その顔で笑って見せるのが、私の矜持)」
ぬるりと引かれた紅が、弧を描く。
行燈明かりに滲む瞳孔。
まるで華が綻びるように、さあ、笑え。
香流は、自分でも最上級に出来のいい笑みを返したつもりだった。
女の笑みは華だと、父も常より口を酸っぱくして言っていた。
なるほど。
なれば、できる限りの笑みでもって返せば、例え醜女と呼ばわれようと、愛嬌くらいは醸せよう。
そう見込んでの意趣返しだった。
だったのだが。
香流の見込みと打って変わって、なぜか辺りはしんと静まり返っている。
男たちは他愛ない金魚の反応に喜ぶでもなく、どこか呆けたように固まったままだ。
そしてその目はなぜか、驚きと、よくわからないものに蕩けているようだった。
はて、思ったのと違う。
漸くそれに気が付いた香流が、すわ手を誤ったかと焦り始めたとき、
カタン。
微かな、しかし、決して無視できぬ音が、香流と男たちの耳に届いた。
幾多の目が音の先の見やり、小さな杯を認め、それを握る手をたどり、そして、
「お恥ずかしながら、今宵は酒が過ぎたようです」
右治代当主が、その白い肌を白いままに、さらりとこぼすのを聞いた。
酒が過ぎたと申告するには、あまりにも冷えた顔だ。
だが当主は平然と席を降り、美しい所作で手をつくと、ゆっくりと頭を垂れた。
「皆さま、此度は私共の婚約を祝うため参上していただき、誠にかたじけのうございました。 夜も深い頃合いですが、酒も食事も、十分用意してございます。 どうぞ、心行くまで、酒宴をお楽しみください。 ですが、私の婚約者殿のほうは、そろそろ長旅の疲れが積もっておる様子。 一度席を降り、部屋へ送り届けるのをお許しいただきとう存じます」
長々と言うが早いか、銀正はさっと立ち上がり、香流に鋭く目配せを寄越した。
その目が急かす色を含んでいるのに気が付き、呆気に取られていた香流は我に返る。
そうして手早く裾を揃えて立ちあがると、すでに背を向けた青年のあとを追った。
そこに、手に手を取るような甘い通じ合いなどはなく。
呆けた男たちが声を上げる前に、二人は急ぎ足で部屋を退出したのだった。
***
ふと、広縁の軒先から空を見上げる。
晩春、夜空は星が冴えて美しい。
先ほどまでの鬱屈を洗ってくれる光にほっと息を吐くと、香流は数刻ぶりに深く息を吸った。
やはり、酒精がこもった室内より、余程空気がうまい。
暗闇に、広大な右治代の庭園が眠っている。
流れる水すら、音を潜めているようだ。
喧騒を遠くにするその光景を眺め、香流はようやく心を洗った。
そうやって、つい、緊張を解いていたためか。
己に注がれる視線に、香流はすぐには反応できなかった。
ひやと、項を刺すような気配。
固く、突き放すようなそれに、香流はそっと顔を向ける。
廊下の先、先を進んでいた銀正が足を止め、こちらを振り返っていた。
「あ、申し訳、ありません。 つい星の美しさに気を取られて……」
遅れたのを咎められるのだろうと、香流は急ぎ、そばへ寄ろうと足を動かした。
だが、銀正は端正な眉をびょうとも動かさず、じっと香流を見るばかり。
素直に詫びを入れたつもりだったが、まだ心遣いが足りなかったか。
それとも、望まれぬ嫁である以上、こういった彼の態度を、当然として受け入れるべきなのか。
ぐるぐると悩みつつ銀正へ近寄る香流。
ようやくそばへ追いつき、伏せていた顔を上げて伺いを立てる。
すると青年は色の抜け落ちたような顔で香流をじっと見据え、固く人を寄せ付けぬ声で言った。
「先ほどのように、決まった者のある身の上で色を振りまくのは感心しません」
「……はぁ」
降って湧いたような小言らしきものに、香流はぱちりと瞬いた。
色?
色とは、振りまくとはなんだ?
自分がしてしまった所業か?
それが、この人の気に触れてしまったのか。
訳も分からず固まっていると、銀正はぎゅうと眉間を引き締め、深く息を吐く。
どうにも苛立っているような様子に、香流の戸惑いも深くなった。
どうすれば良かったのかと、己の行いを振り返れば、目の前の男は拳で額を押さえ、
「貴族の箱入り方とは別の意味で厄介な人だ……」
と、小さくこぼした。
「あ……の、私、は、格式などとは程遠い家の出、です。 ですから、貴族方や大奥様のような振舞には、どうしても、疎い。 その点は申し訳、ありません」
雲上人の文化とは、無縁の家で育った香流だ。
育ちを指摘されれば、ぐうの音もない。
例えこの右治代が本来貴族ではなく狩司衆の家柄であったとしても、貴族と交わりが深いという話から、そういった振る舞いが求められることは分かっていたはずなのに。
流石の母でもそこまでは香流に仕込めなかったため、このあり様だ。
気落ちして叱りを受けようと目を落とした香流だが、
「大奥? 母に、会われたのか?」
突然、一層固い声が、詰問してきた。
驚いて目を上げれば、銀正が顔を歪めて香流を睨んでいる。
「あ、は、い…… 宴の直前に、部屋へ参られまして」
強張った様子につられ、香流も当惑しつつ答える。
あの、凍てついた炎のような人。
その息子である、目の前の男。
互いに冷えたような印象を人に与えるが、どこかその根本は、違っているように、香流には思えた。
それが何からくる思いなのか探ろうとしたとき。
男は焦れたような顔をして、ついと香流から視線を外した。
静まっていく気配に、香流もほっと息をつく。
さすが、若くとも、狩司衆の頭領。
知れず向けられていた覇気に、いつしか飲まれていたようだ。
香流が胸を押さえて心を落ち着けている合間、銀正は広縁にじっと佇み、暗い庭に目を落としていた。
そうして、
「……中央にどのような思惑があるかは存じません」
不意に落とされた言葉に、香流は目を見開く。
ゆっくりと視線を上げれば、琥珀の目が、頑なな色を帯びて香流を見ていた。
「ですが、あなたもこの一晩でようく分かったでしょう。 ここは、あなたを全く歓迎していない。 これ以上不快な思いをする前に、国元へ帰った方が御身のため」
早く、ここを出なさい。
感情のない声だった。
まだ冷たい夜風が、吹き抜ける。
琥珀の目が、玻璃のように香流を映している。
だが、次の瞬間にはふいと逸らされて、香流はそこから締め出されてしまった。
そのまま、銀正は背を向けて廊下を立ち去る。
置き去りにされた香流は、宴会の騒ぎを背に立ち尽くした。
あの扱いを耐え抜いた挙句の言葉がそれかと、反発する心が湧いてもおかしくはなかっただろう。
しかし、香流は名ばかりの婚約者を見送りながら、ただぼんやりと思っていた。
ああ、ここに来て初めて、裏のない言葉を聞いたな、と。