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比翼の花嫁  作者: 壺天
48/79

『昔語り』

 子は、家の宝。

 男児は、家を継ぐために。

 そして女児は、家同士の縁を繋ぐために。



 その不文律を是とする家柄こそが、弓鶴の生まれだった。



 もう遠い昔の話。

 幼い弓鶴は、生みの父と母に、それはそれは慈しまれて育った。

 弓鶴は、六人生まれていた兄弟の末娘。

 世継もおり、余裕もある中ようやく生まれた女児ということで、生家の者には蝶よ花よと大切に育てられた。

 それは確かに幸せな時代だった。


 ただ、一つ。

 一つだけ、言い添えるのなら。


 弓鶴の両親は、弓鶴を愛するほどに、互いのことを愛してはいなかった。






 弓鶴の二親は、高位の狩士の家としてはごくありふれた政略婚によって夫婦になった。

 当時、零落の憂き目にあった母の家は、より位の高い父の家と縁故を結ぶことで家を盛り返そうと、娘である母を父の家に売り渡した。

 ……いや。

 売り渡したなんて、下賤な物言いは相応ふさわしくない。

 それは単に家を存続させるための常套手段で、この嘉元国の常識では、誰も非難などしない出来事であったからだ。

 男児は家を継ぐために、女児は縁を繋ぐために。

 母は、世の真っ当な判断のもと、家の駒として活かされたに過ぎなかった。


 そのような経緯で、二親は夫婦となった。

 だが二人の婚姻は、両親の間に形式以上の何かを結ぶことはなかった。


 六男一女を儲けるとも、二親は必要以上の会話も接触も交わさず、ただ父、母という己の役目を全うするだけの空虚な関係だった。

 弓鶴はそんな両親を、ずっと見て育った。

 それしか知らないで生きてきた。

 「鶴姫、鶴姫」と、一等優しい顔で自分あやしてくれる二人が、互いに向き合った途端、色の抜け落ちた表情で温度のない形式ばったやり取りを交わすのを、そういうものだと認識して生きてきた。


 だから、


 だから、ずっと自分を育ててくれていた乳母が、母と同じような家同士の思惑ある結婚をして、だがしかし、その夫と仲睦まじい縁を結んでいると知り、大変驚嘆したことがある。

 乳母は、母とそう年の変わらない、柔和な面差しの女だった。

 乳母は言った。


『家同士の婚姻の全てが、ご両親のように不具合のあるものではありません。

 いずれあなた様も相応しい家柄の方のもとへ嫁ぎましょうが、どうぞ気落ちせず、心を強くして、家のためにお役目を果たして下さいましね』と。


 その頃にはもう弓鶴も幼子とは言えぬ年であったため、己が結婚というものをいつかしなければならないと理解していたし、その重要性も、何とはなしに承知してもいた。

 ただ、漠然とではあったが、それは両親のような形に収まることだと思っていたため、乳母の言葉は青天の霹靂であった。

 乳母にしてみれば、歪な両親を持った弓鶴に同情したが故の助言であったのだろう。

 だが、両親だけが唯一の見本であった弓鶴は、乳母の言葉を聞いて、突然混乱の境地に立つことになった。


 結婚は、両親のようになることが正しい形だと思っていた。

 子を成し、役目を果たし、それ以外は互いに関わることない相手と、死ぬまで同じ家に留まっているだけのものだと。

 しかし、乳母はそれだけではないのだと弓鶴に言う。

 父が、母が、弓鶴に向ける慈愛の想いを、互いに向け合う形もあるのだという。

 想像ができなかった。

 ずっと普遍だと思っていたものが、そうではないのだと覆され、呆然と立ち尽くすような思いがした。

 そんな寄る辺ない想いが過ぎ去ると、次に訪れたのは突き上げるように湧く、知りたいという衝動だった。

 乳母に慰められて以来、弓鶴は彼女と夫の話を聞きたがった。

 いとけない欲だった。

 『もっと他』があるならと、子供が訳も分からず強請ねだるような、知りたいという欲だった。

 乳母は、弓鶴が願えば願うだけ、教えてくれた。

 弓鶴の生家ほどに高位となれば、娘が余計な世事を知ることはいい顔をされないものだ。

 だが弓鶴を可愛がっていた乳母は、決して他言しないことと口止めして、弓鶴の好奇心に応えてくれた。


 夫婦とは、ただ子だけ生せばいいだけというわけではない。

 勿論、家で求められる役目だって果たすものだけれど。

 終生を共に生きるため、手を取り合って歩んでいく形もあるものだと。

 乳母は、優しく、幸せそうに、自らの伴侶のことを語ってくれた。


 乳母の話を聞いていた弓鶴は、まるで自分を取り巻くモノが全て、今までと違って見えるような気持がしていた。

 夫のことを語る乳母の横顔も、口元も、微笑みも、全てが。

 何もかもが、柔らかに光り輝いているように見えた。

 そして純粋に思った。

 思ってしまった。

 ああ、これが欲しい、と。

 幼い弓鶴は、知ってしまった。

 のちに、それを一つの『幸福』というものだと知る、乳母の見せてくれた輝きの、その美しさを。

 その汚れない美しさを、欲しいと、思った。





 *





 その後のことだ。

 幸せの欠片を聞きかじることを願う弓鶴に、乳母は一つの異国の物語を教えてくれた。


「『比翼の、鳥』?」


 まだ弓鶴自身、裳着も済んでいない年の頃。

 乳母が急な家の事情で勤めを降りることとなり、二人はその最後までの時を共に過ごしていた。

 別れを惜しむ乳母は、寂しがる弓鶴に一つの物語を教えてくれた。


「異国の故事といいましてな、鶴様。 雌雄それぞれが、片翼しか持たぬつがいのお話なのです」


 綺麗な指先で紙面の武骨な文字を辿りながら、乳母は物語ってくれた。

 それは、片翼しか持たぬ二羽の鳥。

 片翼ゆえに、一匹では飛べぬ鳥。

 故に二匹は寄り添い合い、共に居ることで飛ぶことを叶え。

 終生、互いを思い合って生きたという。


「一匹では、飛べないの……」


 小さく呟いたのに、乳母は頷く。

 弓鶴は閉じたまぶたの裏に、片翼しか持たない鳥たちを思い浮かべた。

 あるべき翼を失った、小さな鳥。

 両翼あれば、空に遊ぶ鳥たちのように、どこまでも自由に羽ばたけるであろうに。

 瞼の闇の中、片翼しかない鳥たちと見つめ合う。

 そのつぶらな二対の目を眺めた後、弓鶴は悲しそうに目を見開いた。


「……自由に飛べないなんて、可哀そうな鳥なのね」


 心からの憐憫を込めて眉を下げれば、乳母はくすくすと肩を揺らして、弓鶴の頬を包んだ。


「鶴様は、この鳥たちを憐れと悲しんだのですなぁ」


「だって、もう一翼あれば、思う通りに飛べるのに…… 一つ足りないなんて、可哀そう」


 今にも泣きだしそうに乳母に抱きつくと、乳母は弓鶴の頭を撫でて優しく言った。


「確かに、在るべきものが足りない憐れな鳥たちですとも。 でも鶴様、この鳥たちは、翼を一つ欠いている代わりに、他の鳥たちは持たないものを手に入れているんですよ」


「え? 何を? 鳥たちは、何を手に入れているの?」


 失った代わり、手に入れたもの。

 純粋な疑問につき動かされて訊ねる弓鶴に、乳母は解けて行きそうなほどやさしい笑みで言った。





「絶対に自分を必要として、そばにいてくれる、片割れのような相手ですよ」





 一匹では飛べないから。

 飛べたとしても、それは命を預けるも同義だから。

 片翼の鳥たちは、寄り添う互いを、一等信じていなければならない。

 己の命を託し、託され、そして互いを必要とするゆえに、決して離れない。

 その姿こそ、終生の契り。

 至るには眩い程に遠い、美しい理想。

 比翼の鳥。

 それは、この世で最も美しい番の形。


「一心に想い合う夫婦の理想と、呼ばれる所以ゆえんです」


 乳母が囁いた瞬間。

 一対の羽ばたきが、弓鶴の心に風を呼んだ。

 弓鶴のまなこの裏、遠い空へ飛び立ったのは――――片翼で飛ぶ雌雄の番。

 天高く突き抜ける青空。

 身を寄せ合い、悠然と飛ぶそれらは、どこまでも自由だった。

 手を伸ばす。

 幼い手の向こう、小さな番たちは、晴天の青に消える。

 置き去りにした弓鶴の心に、この世で一等美しい姿を焼き付け、青に溶ける。

 鮮明な情景は、弓鶴の目に一つの光を宿した。





 それは、理想という、捨てがたき夢であった。





「私も、」


 いつの間にか、身を寄せていた乳母の裳を握りしめ、弓鶴は願った。


「私も、比翼の鳥になりたい」


「私も、あの寄り添い羽ばたく姿のように、信じてもらいたい。 信じてみたい」


「比翼のような、番となりたい」


 こんな風に一心に、誰かを、愛してみたい。





 美しい黒の瞳に遥かな空を映して、弓鶴は願った。

 それはひどく純粋であどけなく、無垢な願いであった。

 乳母ははっと心突かれたように瞠目し、しかし、次には痛ましさを堪えるような、苦く、柔らかな面差しで弓鶴を抱きしめた。

 そして、ほんの少し、泣き濡れたような声で答えてくれた。



 ……ええ、そうですね。

 あなた様もいつか、そんな想いを通わせられる誰かと出会うことを、私も願っておりますよ。

 ずうっと、願っておりますよ。

 愛しい、弓鶴様。



 強く、か細く、抱きしめてくれる乳母の腕の中。

 幼い日の弓鶴は、確かに夢を見ていた。

 この世で手に入れるべき、愛おしく美しい夢を、見ていたのだ。






 *






 それから後、乳母と別れ、弓鶴は数年の年を重ねた。

 そして、その時は訪れた。

 十七の春。

 弓鶴の輿入れが決まったのだ。



 相手は、美弥狩司衆守護家当主、右治代忠守白主耀角。

 狩士一門であった弓鶴の生家が躍起になって取り付けた、紛うかたなき、政略婚であった。



 輿入れの日までを、弓鶴はうつろを抱えたまま過ごした。

 これから自分の身に降りかかる何もかもが、己の両親を髣髴ほうふつとさせて仕方がなかったからだ。

 家を盛り立てるため、高位の家に嫁いだ母と、受けた父。

 全くもって今の自分の境遇と同じに思えて、空虚であった。


 この頃の弓鶴は、幼い日に乳母と共に見た夢を、すでに手放しかけていた。

 乳母を失い、同時に美しいものの存在を語ってくれる誰かを失ったことで、己を取り巻く現実というものを直視せずにはおられなかったからだ。

 この世に、理想はない。

 美しい信頼を寄せ合う夫婦など、あったとしてもごく少数。

 特段己は、政略の駒として扱われるだけの家柄に生まれた女だ。

 比翼などという夢を安穏と見ていられるほど、甘ったれた性根がいつまでも許されるわけはない。

 夢は見てはいけない。

 自分は、家を盛り立てるためだけの形代。


 信じて、信じられて。

 そんな幼い夢など、すでに覚めていなければならないのだ、と。


 だから、直前の顔合わせも、婚儀の間も、祝いの宴に至るまで。

 弓鶴は()()()の顔を、まともに見ようともしなかった。

 だから、初枕の晩。

 刀を握る武骨な手が頬に沿わされた時。

 弓鶴は身の内で僅かばかりに残っていた夢の欠片を、粉々に砕ききってしまう覚悟をしたのだ。

 なのに。




「やめよう」




 迫る現実を無意識に遠ざけ、凍りつき始めていた心に落ちてきたその声へ、弓鶴は瞠目した。

 その時になって、ようやく弓鶴は己に相対する男を正面から見た。

 まるで、清廉という言葉が形作ったかのように、高潔な目だった。

 気高く、美しく。

 決して二心のない澄み渡った黒の瞳。

 その目に抱かれながら、弓鶴は呟いた。


「……やめ、る?」


 声は細く震えていた。

 この時ようやく、弓鶴は己が震えていることに気が付いた。

 薄く頼りない夜着のみに覆われた体を揺らし、そして、


「泣いておられる」


 男の、耀角の指が、まなじりを拭う。

 そのぬくもりと、頬を濡らす感触に、弓鶴は息を飲んだ。

 泣いていた。

 自分は、涙を流していた。


「(なん、だ、これは、)」


 どうして。

 どうして私はこんなものを流しているのだろう。

 どうして…… いつの間に。



 瞬間、体の中心が鈍く傷んだ。



 弓鶴はぐっと息を飲み、体をかがめて胸の中心をかばう。

 訳が分からなかった。

 どうして、


「(どうして、こんなにも、痛い……?)」


 身の内で、焦燥が叫ぶ。

 早く、早く顔を上げねば、と。

 でなければ、この身は役目を全うできない。

 男は家を継ぐために。

 女は家を繋ぐために。

 この身を投じて目の前の男を繋ぎ留めねば、私は育てられた恩にも報いられないのだ。

 私は、




『――――いつかあなた様も、比翼となる人を見つけられると、良いですね』


 遠い記憶の彼方、懐かしい乳母の顔が笑う。




 だめだ。

 覚めねばならぬ。

 ただ、美しいだけの夢など。

 見てはいけない。

 すがる惨めなど許されない。

 女は家のために。


 だから、だから、


 だから、こんな、


 こんな、夢――――









「辛いなら、今はやめよう」


 その声に、何かが壊れた音がした。


 流れ落ちる雫は止まらぬまま、まなこは光を宿さぬまま。

 弓鶴は悄然と顔を上げた。

 見上げた先、弓鶴の夫となった男は、弓鶴を真っ直ぐに見て言った。


「子を成さねばならぬのは、仕方ないことだ。 だが、急がねばならない話ではない」


「そのように泣くあなたに、それをいる気はない」


 だから、


「泣かれるな、……弓鶴殿」






 砕けた。


 砕け散る音がした。

 壊れたのは、弓鶴の心ではなかった。

 崩れ落ちたのは、呪縛。

 家を繋ぐための道具と飾られてきた、弓鶴を縛る鎖だった。


 いつの間にか、震えは止んでいた。

 まるで魂が抜け落ちたかのように座り込む弓鶴から距離を取って、耀角は揺れる行燈の灯を見ていた。

 横顔だけで弓鶴に語りかける男は言った。


 全く見ず知らずの相手に、いきなり何もかもを許せなどと、そんな無体なこと、自分には言えない。

 しかし、破談とするのも、おそらく互いのためとはならない。

 だから、もう少し、共にある時を重ねてみよう。


 美しい目が。

 優しく包み込むような夜の目が、弓鶴を見つめる。

 決して表情豊かとはいえない耀角の、しかし、ひどく優しさを孕んだ目に抱かれながら、弓鶴はまた一つ雫を落とした。


「もう少し時を置いて…… 共に過ごそう」


「あなたが、辛いと、思わなくなるまで」


「一緒に居よう。 そして、互いを知ろう」


「少しでも、情を持てるようになるまで」


 そうであってくれれば、私は、嬉しい。






 そう言って、耀角はどこか気恥ずかしそうに視線を逃がし、閉め切っていた縁側の障子を開けた。

 夜の広がる庭先から、ぬるい春の空気と、柔らかな朧月の光が差し込む。

 その仄かな気配に浴し、耀角は弓鶴に背を向けて庭を眺めていた。

 そこに、務めに怯えた弓鶴を拒絶するものなど何一つなく。

 弓鶴は自分を労わるように、ただ静かに離れてくれた耀角の心を知った。

 目頭が、不意に熱を生む。

 視線の先、柔らかに解けるような耀角の姿が、一層ぼやけて滲む。

 涙が、止まらなかった。

 次から次と溢れて、ぼとぼとと真っ白なしとねを濡らした。

 体の中心が。

 きっと心と呼ばれるものがある場所が、嗚咽するように想いを叫んでいた。


 嫌だった。

 本当はずっと、嫌だったのだ。

 幼い日に、乳母が見せてくれた美しい夢。

 弓鶴はそれを捨てられなかった。

 本当は、泣き叫びたいほどに惜しくてたまらなかったのだ。

 欲しかった。

 欲しかった、欲しかった、欲しかった。

 この世で唯一だと確信できるような。

 この身を全て捧げることも厭わぬような。

 そんな誰かが、欲しかった。

 そんな誰かに、この身を差し上げたかった。

 でもそれは、現実を知らない幼子の夢で、生家への恩を返さねばならないこの身には、無用なものだと思っていた。

 いや、思わなければならないと否定してきた。


 こんなに願っているのに。

 けれどもう、夢から覚めなければと涙する心を絞め殺していた。


 殺そうとした。

 でも、できなかった。

 泣いてしまった。

 想いを捧げる覚悟を持てない相手には、この身の何一つ許せないと思ってしまった。

 許されないのに。

 家のために、在らねばならぬのに。

 なのに、


 なのに、



 歪む視界の先に、月影に浮かぶ一つの背中。


 勤めを苦にして無様に泣いた弓鶴を、優しく捨て置いてくれる背中がある。



 涙が止まらない。

 心が、泣いている。

 でもその叫びに、もう内側を苛む痛みは微塵もないことを、弓鶴は感じていた。

 想いが細く万感を叫ぶ。

 この人だと、つたない声で囁く。


 嗚咽が止まらない。

 きっと、耀角だって気づいている。

 それでも弓鶴を突き放さず、近づくこともせず、優しい距離で待っていてくれる。

 この濡れた声を、耀角は心苦しい思いで聞いているのかも知れない。

 だとすれば、違うと言いたかった。

 しかし、声はまともに言葉を紡げず、弓鶴は歯を食いしばりながら涙を殺した。

 

 この人がいいと、思った。

 この優しい人でいいと、己の中の何かが想いを確かにするのを感じていた。


 この人を好きになろう。

 終生の覚悟を、この人に捧げよう。


 私の片翼。

 私の全てを預け、全てを引き受けるべき人。

 私の、比翼。


 私は、この人になら、縛られても構わない。

 


 弓鶴は見つけた。

 全てを諦め、親と同じわだちを踏む生涯に踏み出すその直前で、本当に求めていたものを見つけることができた。

 その片翼の鳥は、春のかすみがかる夜のように、優しい人だった。

 弓鶴が幼き頃より求め続けた、片割れの姿だった。







 *







 しかし、あの春の晩に見つけた理想は、弓鶴に夢の完結をもたらさなかった。


 のちに夫婦として共に過ごした弓鶴と耀角は、ようやっとの時を経て二児を儲けるも、何かが決定的に欠けたまま、心の距離を遠くしたまま、決して想いを交えずに生きることとなった。

 耀角はあの春の晩に見せた優しさを露とも見せず、弓鶴を無下に扱い続けた。

 それでも弓鶴はあの晩立てた誓い――――耀角だけを己の比翼とする、を果たすため、誠心誠意その傍に在り続けた。

 信じ続けた。

 信じていると、自分で決めた。

 そして、いつか耀角が同じだけの想いを返してくれるのを、密やかに待ち続けようと、覚悟を決めていた。

 なのに。



 あの日だ。


 あの、運命の日。



 常とは違う強張った横顔で狩場に向かった耀角を、遠くから見送った昔日。



 右治代の奥座敷に閉じこもっていた弓鶴の目の前に、


 あの男は、


 現れた。







「ほぉ、これがこの家の世継か」


 その男――――弓鶴も()()()()()()()()()は、美弥狩司衆の狩士を従え、忽然と弓鶴のもとに現れて言った。


「その子供、渡してもらおうか」


 弓鶴が閉じこもっていた座敷の入り口に立ち、男は弓鶴が唯一心のよりどころとしていた長子を指さして言った。

 意味が分からなかった。

 子供を、それも守護家の世継である我が子を、いきなり寄越せとは。

 一体全体、どういう料簡なのか。

 弓鶴は生理的嫌悪と、不条理への怯えに我が子を抱きしめ、ふるふると首を振った。

 だが、その時気がつく。

 男の背後、従う狩士の手に、白銀の頭の幼子の姿。

 眠っているのか、すうすうと寝息をたてている。


「っ、銀正!?」


 全身の血が一気に下がるような思いがして、弓鶴は咄嗟に立ち上がった。

 どうして、その子がここに居る。

 その息子は、その子を溺愛する姑が囲っていたはずだ。

 なのに。

 縋りつく長子を後ろに隠し、どうしてと目で訴える。

 男は、ひどく卑しい笑みを浮かべて幼子――――次子を見遣った。


「この家の世継を、()()()()()()()()()()のだよ。 だから、頂戴してきた」


 男の言に、弓鶴は混乱を極めた。

 押さえておきたかったから、頂戴した?

 姑からということか?

 まさか。

 あの孫を溺愛する女が、簡単に次子を手放すだろうか?

 そうさせるだけの理由を、この男は持っているのか?

 だとすれば…………いや、それよりも、


「大奥様(=銀正の祖母)は……?」


 震える舌先でそれだけ問えば、男は目を三日月のように細め、


「殺した」


 それだけ言った。


 



「子を取られまいと抵抗したものだから、くびり殺してやった。 あとで騒ぎとなっては面倒だから、血は流さずなぁ」


 恐怖が、足を掴んだ。

 弓鶴はがたがたと全身を震わせ、長子を引き寄せた。

 殺される。

 殺されて、取られてしまう。

 この子も、あの次子も。


 しかし、自分にはこの男たちに手向かう手立てもない。


 いやだ。

 いやだ、いやだ、いやだ!




 助けて、



「――――よ…… う、かく、様」









「右治代当代は死んだ」



 言葉が、太刀のように振り落とされた気がした。



 長子を抱いたまま怯えていた弓鶴は、ゆるゆると顔を上げた。

 その先にいる男を見て、青くなった唇を震わせた。


「しん、だ……?」


 誰が。

 空に溶けた問いに、男が嗤う。


「右治代忠守だよ。

 美弥狩司衆頭目。


 お前の、夫だ」









「うそ、」



 嘘だ、



「うそ……」




 そんな、


 そんなこと、





「嘘だ!!」



「真だよ」






 弓鶴の叫びを切って捨て、男は()()を投げてよこした。


 結い紐が結ばれたままの、黒髪の束だった。

 弓鶴は、その髪紐を知っていた。

 それは確かに、耀角が日ごろ使っていた髪紐だった。



 全身の血が、凍りつくのが分かった。



 力なく崩れ落ちた弓鶴。

 長子が、泣きそうになりながら「母上、母上、」と呼んでいる。

 しかし、返事などすることはできない。

 目の当たりにした現実に、何もかもが崩れ落ちそうだったから。




 死んだ?

 あの人が、死んだ?


 どうして…… どうして?


 嘘だ、


 しかし、これは確かに、あの人の、



 あの、人の……




「しん、だ……」



 呟いた途端。

 その言葉は、現実となって弓鶴を押しつぶした。



 『何か』が。

 己の中の『何か』が、明確に形を変えた気がした。



 死んだ。

 あの人が死んでしまった。

 どうして。

 どうして死んでしまった。



 どうして?



 どうして、あなたはその川を渡ってしまったの。

 

 あなたは私に決定的なものは何も残してはくれなかったのに。


 こんな私を置きざりにして、一人逝ってしまったのか。


 あなただけだと決めてしまった私を置いて、一人で。



「あ、ああ、」



 慟哭が膨れ上がる。

 弓鶴は髪を振り乱して顔に爪を立てた。


 どうして!!

 どうして死んでしまった!?


 どうすればいい。

 私はどうすればいい?

 あなたがいないこの生に、私は一体、どう執着すればいいのか。


 私はあなたと、最早決めてしまったのに。

 あなたとでなければ、もうどこにも行けないのに。


 あなたが、…………あなただけがッ




「ああああああああ!!」







 燃える。

 身の内に、身を裂くほどに凍てついた炎が燃える。

 その容赦ない氷の熱に巻かれながら、壊れかけた弓鶴は、それを最後の寄る辺とした。

 そうするしか、できなかった。



 燃えろ。

 燃えてくれ。

 そして、この身を焼きつくしてくれ。

 痛みとして、()()()()()()、あの人への想いを私に焼き付けてくれ。

 だって、だって、私は、




 忘れたく、ない。










 弓鶴は選んだ。

 今、彼岸に渡ってしまった背中を追いかけても、きっとあの人はまた弓鶴を遠ざけるのだろう。

 あの人は今まで、なにも、どれほども、その心の内を明かしてはくれなかった。

 弓鶴のことなど、全く見てくれなかった。

 だとするなら、もう諦めよう。

 あの人が信を寄せてくれることを待つのは、諦めよう。

 でも、ただ一つ。

 あの人への想いをこの心に閉じ込めて、終生飼い殺すことだけは。

 この想いだけは、手放さない。

 死が我らを分ち、あなたとの距離が遠くなるのなら。

 私はかえりみられることなかった怨嗟でもって、あなたをこの心に繋ぎとめよう。


 忘れない。

 決して忘れてなどなるものか。

 あなたが守ろうとした何もかもを憎み、その全てに泥を塗って。

 ()()()()()()()()()()()

 そうして私はあなたを怨み抜き、生涯あなたを抱えて生きていく。


 耀角様。


 死してなお、私を縛るあなたを。


 私は永久に憎悪します。

 ずっと、ずっと。



 ずっと。









 そして、弓鶴は男に一つ、契約を持ちかけた。

 美弥を支配することを願う男が、その駒として狩司衆頭目の地位を押さえておきたいという思惑を果たすために、己がその一助となることを。

 そのために、二人の息子を差し出すことを。

 氷の火炎を身に宿したその日から、弓鶴は怨嗟の生涯を歩みだしたのだった。

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