四十
「「!?」」
迫りくる気配に、香流と苑枝は、はっと広縁の先へ目を走らせた。
それと同時。
廊下を踏みしめる足音と共に、廊下の角から泡を喰った阿由利が飛び出てくる。
髪を振り乱し青ざめるその様相に二人はぎょっと驚き、すわ何事かと立ち上がった。
「香流様!!」
「阿由利殿!?」
「なんですか? 騒々しい!」
香流が咄嗟に腕を広げ、苑枝が叱責しながら阿由利を迎え入れる。
すると走る勢いのまま香流に取りすがった阿由利は、息も絶え絶え声を張り上げた。
「も、申し訳、ありません…… は、早うお知らせせねばとっ つ、使いです! 国主様の!」
「使い?」
「国主様!?」
突然の報に、香流と苑枝は仰天して目を見合わせた。
そして続いた阿由利の知らせに、二度息を飲む。
「い、今し方、城より狩司衆上格方と、弓鶴様がお戻りになられ……! 香流様を、香流様を…… 城へお連れすると申して、あなた様をお探しにっ」
「!!?」
「なんですって!?」
苑枝の驚きを視界の端で認めながら、香流は一瞬思考を止めた。
だが瞬時に我を取り戻し、ぎゅうと眉を寄せる。
どういうことだ。
一体なぜ、いきなり自分などに国主が使いなど寄越してきた。
その上、城へ連れていくだと?
何のためにそんなことを。
そこまで考え、横で動揺した気配の苑枝が声を上げたのに気を取られる。
「なぜ…… なぜ国主様が香流様を? それも、通告もなく城へお招きになるなど、」
事の緊急に苑枝が厳しい顔つきで問うと、阿由利は青ざめた顔で首を横に振った。
「わ、分かりません…… ですが、どうにも様子がおかしくて」
「様子が?」
「おかしい?」
鸚鵡返しに応じる香流と苑枝。
それにこくこくと頷いて、阿由利は震えながら言った。
「ええ、上格方はいきなり門番を突き飛ばして押し入ってこられたかと思うと、開口一番、『当主の許婚を出せ』と尊大に申されて…… とにかく尋常の様子ではないのです。 まるで、まるで、」
「香流様をひっ捕らえに来たかのような、」
緊迫した沈黙が落ちた。
舌先を震わせて語る阿由利の知らせをまとめると、突然屋敷に押し入ってきた狩司衆上格たちと弓鶴は、香流を城に連れて来いという国主の命だと言い渡し、阿由利たち女中に、香流の居場所を問いただしたらしい。
それにちょうど行き会った阿由利は、その異様な剣幕に恐れ戦いた。
だが、同時にこのままでは駄目だと閃く。
何かがおかしい。
何かが異様だ。
国主の命とはいえ、まるで罪人でも探すような男たちの剣幕。
だめだ。
この異様な流れに、香流を引き渡してはいけない。
直観に従った阿由利は、勢い叫んでいた。
『香流様は、東の庭に居られます!』
阿由利の虚言に、男たちはすぐさま屋敷の東へ向かった。
それを確認するが早いか、阿由利はもつれる足で、ここまで走ったのだという。
取りすがる香流の着物を握りしめ、阿由利は叫んで言った。
「上格方のあの言い様は、全く穏当なものではありません! 香流様を出さないのなら、家中を荒探ししてでも引っ立てて行くとまで仰いました!! きっとただの脅しではありませんっ」
「あの方々は、香流様を縄にしてでも国主様の前へ連れていくつもりです!!」
「っ」
「まさか!?」
香流と苑枝は息を飲んだ。
阿由利の予見が正しいなら、本当にただ事ではない。
香流の身柄を、国主は力づくで連れてこいと上格たちに命じていることになる。
瞬間、香流は思考を走らせた。
「(もしや、)」
何かを気取られたか?
無意識に、香流は胸元へ手をやっていた。
着物の下、銀正が加護の想いと共に送ってくれた鈴が鳴る。
鍛錬場で、厳しい様相で断じた銀正の眼差しが甦る。
『この国の有様を、民も狩司衆配下たちも、勿論一切知らない。 このことを知っているのは、私と狩司衆上格、そして国主様』
『奴らはこの国の現状が外に知られることを恐れている。 自分たちに都合のいい現状を保っていたいから。 そのために、実情を知っている中で唯一奴らに与していない私が外に連絡の手段を持つことを、これまで徹底的に阻んできた。 外からの接触もしかり』
銀正の言った通りなら。
銀正の告発を、国主たちが恐れているのなら。
もしや、銀正と香流の思惑を察して、動きを見せたのか?
だとすれば、
「(……いや、断ずるな。 早計過ぎる。 まだ、あちら側に私たちの考えが読まれたとは考えにくい)」
縋りついたまま震える阿由利を支えたまま、香流は懐の鈴を強く押さえた。
銀正殿。
心の内に、狩場へ去った白銀の髪が揺れる背を想う。
あの人が、託してくれたもの。
国を想い、己に出来うることに向き合おうとしたあの人が、きっと信頼と共に受けてほしいと願ってくれた務め。
それを、こんなところでふいにしてしまうわけにはいかない。
あの人の守りたいものを。
それを守るための策を、こんなところで潰えさせるわけにはいかない。
鈴が鳴る。
玲瓏な音で、香流の意気を奮い立たせる。
銀正殿。
己の想いが揺らがぬために、強くその名を胸の内に呼ぶ。
「(どうか、私に加護を)」
この鈴と共に願ってくれた加護を。
音が、動揺を払い去る。
あの人を想う心が、ここにしかとあると確信できる。
ならば、
ならば、
恐れるものなどあるものか。
阿由利が、「早くお逃げください!」と泣き出しそうに叫んでいる。
苑枝が、「大丈夫です、私共がお守りしますゆえ」と、気丈に言ってくれている。
自分を心から想ってくれる二人の、だが隠しきれない恐れを感じ取りながら、香流は口元を覆って己に判断を迫った。
「(逃げるか? まだ、猶予はある――――いや、駄目だな、あちらには弓鶴様がいる。 私の行き先を、この二人に問いただそうとするだろう。 滅多なことはないとは思いたいが……聞き出すためにどんな手を使うかは、図れない。 二人の身の安全を思うなら、残していくのは悪手か)」
それにどちらにしろ、
そこまで考え、香流は廊下の先を睨む。
遠い。
だが、確かにこちらへ迫る気配がある。
「(逃げれば、そうしなければならないこちらの思惑を、気取られる可能性もある)」
一向に動く気配のない香流に業を煮やした阿由利が、涙ながらに香流を引っ張ろうとする。
だが香流は、びくとも動かない。
その代わり、取りすがる小さな体を片腕で抱き込み、「大丈夫」と阿由利の耳元へ囁いた。
冷静な声に、阿由利が硬直する。
微かな気配を認めると、香流はそっと手を放し、自室に入り込んだ。
そして戸棚の中から紙と筆を取り出すと、素早い手で何事かを書きつける。
迷いない筆先で認めたものをできる限り小さく折りたたむと、香流は広縁で立ち竦む二人のもとに戻り、阿由利の手へ紙を握らせた。
「もし私が戻らぬ場合、この文を御当主にお渡しください。 そして、それを私の兄に託してほしいと伝えてくださいませ」
「え……?」
訳が分からぬと、阿由利が震える声を唇から漏らす。
そんなことよりも、早く逃げてほしいと目が揺れて言う。
だが香流は「大丈夫、それだけ言えばきっと通じます」と頷き、怯える阿由利をきつく抱きしめた。
混乱して震える体を、深く抱き込む。
肌に染みる温かさを直に感じながら、近づいてくる気配に意識を研ぎ澄ませる。
逃げはできない。
なら、立ち向かうまで。
銀正殿、
「(仮に私が戻らぬとしても、あなたの想い、潰えさせはしない)」
託された文は、すでに隠してある。
その場所と、兄への言伝は、阿由利に預けた紙に書きつけた。
自分と同じ家柄の兄なら、十分に香流と同じ役目を果たせるはず。
渦逆を迎え撃つ狩場に立つなら、兄と銀正は必ず出会う。
「(あなたの託してくれた務め、私は果たせぬやもしれぬ。 それだけは、お許しください)」
足音が、近づいてくる。
どたどたと、廊下を踏み荒らす足音が。
二人が音に気づく。
阿由利がもがきだす。
香流を引っ張り、どこかへ逃がそうと叫ぶ。
それを殊更強く抱きしめ、香流は目をつむる。
そして紙を握らせた手を上から片手で包み、「隠して」と鋭く囁くと小さな体を腕の中に庇った。
その男たちは、傍若無人な気配と共に現れた。
「いたぞ!!」
許嫁としての顔見せの宴以来、顔も合わせていない美弥狩司衆上格たち。
その老年にさしかかるほどの男たちの一団が、香流を指さして迫ってくる。
決して親しみのない気配を漂わせて近づいてくる。
そして集団の奥に、女が一人。
能面のような、全き無の面差しの弓鶴がいる。
あの玻璃のような目が、香流を映している。
最早、あの焦げ付くような炎すら見せず、ただ香流の姿だけを映している。
香流はその目を、鋭く見据えた。
騒ぐ男たちと、竦み上がって色を無くす苑枝と阿由利を意識の外へ遠ざけて、ただ二人、真っ直ぐに見つめ合った。
睨みの刹那。
香流は再び覚悟を確かなものにする。
「(弓鶴様)」
あの動かない目の奥に、火炎は確かにある。
その炎に身を焦がし、おそらくこの人は、過去の痛みを忘れられずにいる。
なれば。
私はその劫火に、この腕を伸ばす。
必ず焼き尽くされるとしても、祭りの晩遠ざけたあなたの叫びを、もう一度聞きたい。
あなたが己の慰めにとその炎で誘った《羽虫》は、ただ燃え尽きるだけの他愛ない命ではないと、その身に喰いついて証明して見せる。
私は、
「(私は、あなたを苛む痛みに触れたい)」
「国主様の命だ!! その娘、引き渡してもらおう」
先頭の男が、尊大に声を張る。
それに香流と阿由利の前に立った苑枝が毅然と立ち向かった。
「お控えを! たとえ上格様方とは申せど、このような狼藉たる振舞い、看過なりませんっ」
広縁の上、相対した両陣は睨みを結ぶ。
せめても、香流を引き渡せという理由を求める苑枝に、男たちは歪な笑みで答えて言った。
「控えるのはお前だ、ただの女中風情が。 言っただろう、他でもない国主様が、その娘を連れて来いと御命じになったのだ。 それに歯向かうは、国主様への歯向かいと同義」
貴様に、その覚悟があるのかと、男たちが笑う。
苑枝はさっと顔色を無くし、じりっと退いた。
その気勢が弱まったのを見取った途端、男たちが香流に向かって手を伸ばしてくる。
「っや! やめて!」
「阿由利殿!!」
力ずくで引き離される香流と阿由利。
苑枝が悲鳴じみた声で男たちをに取りすがり、阿由利は絶望の形相で香流に手を伸ばす。
それを目だけで押しとどめ、香流は己を抑え込む幾多の手に身を委ねた。
「このような…… このような狼藉、当主様がお許しになりません!」
引き離され、香流を取り返そうと暴れる苑枝が、男たちに抑え込まれながら叫ぶ。
そんな彼女に、冷徹な声は冷や水を打ちかけた。
「《《あれ》》が許さぬとも、妾が許すと言えば、それで通る話だ」
「!!?」
広縁にあふれる男たちの背後から、その人は音もなく現れる。
「弓鶴様……」
暴れたせいでまとめ髪の乱れた苑枝が、痛みを堪えるような面持ちで弓鶴を見上げる。
真っ直ぐに交わる目が、どうかこれ以上の無体はしてくれるなと訴えてる。
だがそれを冷えた視線で殺し、弓鶴は大人しく男たちに抑え込まれている香流を見た。
「この国の最も尊いお方が、この娘を望んでおられるのだ。 一体誰に非など唱えられようか」
例えこの美弥狩司衆頭目であっても…… ましてや其方程度に、言を差し挟む資格があるものか。
嘲笑すら浮かばぬ冷え切った断言に、苑枝と阿由利が言葉を無くす。
香流は静かな目で、見降ろしてくる玻璃の目を見つめ返した。
その目が問うている。
従うか、歯向かうか。
歯向かうなら、相応の咎を払わせよう。
ここに居る二人。
お前の抵抗に巻き込む気があるのなら、そうせよと。
香流に厳しい判断を迫っている。
その宣告に、香流は四肢の力を抜くことで答えた。
「――――苑枝様、阿由利殿。 これ以上の抵抗はお控えを」
伏せた顔の下で伝えれば、男たちに引き離された二人が、ぎくりと気配を固くしたのが分かった。
それを認めつつ、香流は抵抗をやめたことで緩くなった上格たちの手から抜け出し、広縁の上へ手をついた。
「御用命、お受けいたします。 どうぞこの身を、城へお連れ下さい」
「「!!?」」
苑枝たちが、息を飲む。
弓鶴は形だけの笑みで、香流の申し出を聞き届けた。
「良い心がけね、愛い子。 国主様も、お喜びになられるでしょう」
話は決まった。
他でもない、当人が受け、弓鶴が頷いたのだ。
男たちの手が、再び伸ばされる。
香流の身を逃がさぬように、捕らえようと伸びてくる。
だがその前に。
香流はさっとその手をすり抜けると、広縁に転がしていた大ハタキを手に取って立ちあがった。
上格たちが、その身の丈ほどある異様な掃除道具に、ぎょっと目をむく。
まさかここまで来て手向かう気かと警戒を露にするが、
「お連れになるのなら、ハタキばかりは連れてゆくことをお許しくださいませ」
そうあっけらかんと言って香流は、すとんと頭を下げた。
後ろで苑枝と阿由利が、「こんな時に!!?」と仰天した声で叫んでいる。
上格たちも呆気にとられ、誰一人言葉を紡げない。
ただ唯一、弓鶴だけが形だけ笑った唇で、くつくつと冷たい笑いを漏らした。
「其方は、まこと、それが愛おしいのだなぁ」
「祖母の形見ですから。 肌身離さずおりたいのですよ」
この切迫した事態の中、見かけばかりは呑気な言い合いをして、弓鶴と香流は視線を結ぶ。
そうして数瞬ののちに、目を細めた弓鶴が鷹揚に頷いた。
「よい、許そう。 好きな奇態で城へ上がるといい」
「弓鶴様!?」
弓鶴のそばにいた男が、ぎょっと目をむく。
そして慌てたように近づくと、
「ゆ、弓鶴様、あのような頓珍漢なもの、態々持参の許しを出さずとも……」
と、耳元で進言した。
しかし弓鶴はそれを黙殺し、「二言はない、行くぞ」と身を翻した。
香流は弓鶴の許可にハタキの背負うと、その背を追う。
唖然としていた男たちも二人の動きにはっと我に返り、動き始めた。
最後まで呆然としていた苑枝たちが、遠のこうとする香流の背に呼びかける。
「香流様!!」
「行ってはなりません!!」
悲痛な声に、香流は一度だけ振り返った。
大丈夫、そう言いかけて、横から出てきた姿に口を閉じる。
「喚くな、苑枝」
弓鶴が、能面のような顔で押さえつけられた苑枝を睥睨する。
食いしばった歯の間から「奥様……」と苑枝は呼ばわり、訴えかけるような目を歪めて言った。
「どうか、このような無体はおやめください……」
「諄い、国主の命ぞ。 何度言わせる。 この娘は連れて行く」
「っ、その方を、国主様は…… あなた様は、どうなさるおつもりなのですか!?」
「そのようなこと、其方程度が問うのも烏滸がましいわ」
悲痛に訴える苑枝の言葉を一つとして寄せ付けぬまま、弓鶴は凍てついた声で言った。
「妾は言ったな? 苑枝。 『禁を破った落とし前、いずれつけるものと覚悟しておれ』と」
「これはお前と、あの時妾に歯向かったあれへの罰だとでも思っておれ」
この家に香流が入ってしばらくした頃。
初めて弓鶴にさしで話しかけられ、その動揺を誘われた日。
割って入ってくれた銀正と苑枝に、弓鶴は確かに言った。
いずれ報いを受けることになると。
あの時の記憶を思い出したのだろう。
苑枝は愕然と弓鶴を見上げ、声を無くした。
弓鶴はその様を無感情に見下ろすと、一言。
「お前に、この娘を守ることはできない」
あの頃、私を守れなかったように。
刺し貫くように言い渡し、弓鶴は苑枝に背を向けた。
苑枝は弓鶴の言葉を聞いた途端、何か、ひどく堪えられないものに身を裂かれたように目の力を無くし、がくりと腕を床についた。
香流はあまりに悄然とした苑枝の様子に近づこうとするが、脇に立っていた上格たちに腕を取られ、それ以上進むこと叶わない。
力を失った苑枝に、阿由利が取り付く。
反抗の意気を失ったのを認め、二人を押さえていた男たちが手を引いて立ち上がる。
阿由利はもうどうすればいいのか分からずに涙を流しがら、遠ざかってゆく香流へ叫んだ。
「っ、香流様ぁ!!」
「阿由利殿!」
両腕を取られながら首だけ振りかえり、香流も答える。
しかし、時間がない。
だからせめてと声に力を込めながら、「大丈夫、大丈夫ですから!」と言い置いて、香流は己を引っ立てて行く力に身を任せた。
男たちに囲まれた香流と弓鶴の背が、廊下の先に消える。
それを脱力して見送り、阿由利は今更ながら震えだした手で、廊下に蹲る苑枝の腕へすり寄る。
だんだんと遠のく足音。
連れ去られてしまった大切な人を想い、守れなかった己の無力を思い、阿由利は大粒の涙を流した。
そして、力を失った手の中から滑り落ちた紙の塊へ、ようやく気が付いた。
『もし私が戻らぬ場合、この文を御当主にお渡しください。 そして、それを私の兄に託してほしいと伝えてくださいませ』
そう言って、香流が託していったもの。
力いっぱいに握りしめすぎてぐしゃぐしゃになってしまったそれに手を伸ばし、震える指先で押し広げる。
幾重に寄った皴の海。
そこに黒々とした墨で書かれた文字。
だが、阿由利はその意味を解せなかった。
なぜならそこにあったのは、
「狩人、文字……?」




