三十九
全てを聞き終え、香流は眉間に険しい谷を刻みながら呟いた。
「美弥は元々、国主の意向で不言の約定を踏みにじろうとしておられたのですか……?」
それを、当時の耀角は止めようとしていた。
だが、今の上格たちが国主側につき、美弥狩司衆は分裂状態だった。
そして増える国内の業人と、それを狙う飢神の襲来。
美弥は、国崩しへ足を踏み出していた。
過去の事実を知り、香流はなんと愚かなことをと、額を覆った。
国主という立場あろう者が。
国と民を守るべき御人が己の欲に目をくらませ、自ら災いを招くなど。
まったくもって、愚の骨頂としか評しえない。
それをなんとか思いとどまらせようとしたのであろう銀正の父の苦労を思うと、香流はその労に心痛めずにはおれなかった。
「この話、御当主は……」
顔をあげて苑枝に問えば、気丈な様子を取り戻した苑枝は、「承知なさっております」と頷いた。
しかし、再び暗い顔色に戻ると、
「ただ…… 弓鶴様の過去の話は、お話したことはありません。 母親である弓鶴様に子として愛されたことのない坊ちゃまには、酷なことと思えて……」
と、弓鶴の事情については知らない旨を伝えてきた。
苑枝の心情も分からぬでもない。
親子としての情を注がれずに育った銀正だ。
例え弓鶴当人に責のない悲劇とはいえ、母親の過去の事情を話したところで、その悩みを深めるだけかもしれない。
「私も当時の話を夫から聞くまでは、昔の狩司衆内部がそのような状態だとは全く知りませんでした。 あの騒動の後、耀角様寄りであった狩士たちは排斥され、その多くは散り散り。 夫も詳しい内情までは把握しておらず、上格方や前代――――当主様の兄君によって再編された今の狩司衆には、当時の事情に明るい者は、ほとんどいないのが実情です」
「…………」
「夫が死に際まで当時のことを語らなかったのも、耀角様を最後まで守れなかった負い目があったのだと思います」
苑枝の言葉を聞きながら、香流は口元を押さえて猛然と思考していた。
業人が増加し、大量の飢神を誘うようになったかつての美弥。
国主と頭狩の対立。
耀角に報いず、国主の側についた現在の上格たち。
そして、城での耀角の死。
国主は弓鶴と上格たちに実権を握らせ、耀角亡き後の狩司衆すら、その支配下に置いてしまった。
「……耀角様が亡くなった後、耀角様が反対なさっていた、この国の業人の受け入れはどうなったのです?」
額の髪をかき上げ、広縁の板を睨みつけながら問うと、苑枝は固い声で応じた。
「止める者がなくなったのです。 現状を見ればお判りでしょう」
「…………」
「この国は業人で飽和しております。 ですがいつの頃からか、この国が耀角様存命の頃のように、飢神の激しい襲撃に怯えることはなくなりました」
あれほど業人の練の気配に呼び寄せられていた飢神たちが、日に日に姿を見せなくなった。
だが、民衆はそれに安堵はしても、訝しむまではしなかった。
己の命が脅かされないのならそれでいいと、深く考え込むことをしなかった。
その上、その頃から、民衆の思考をなお一層停止させてしまうような、一つの噂が囁かれるようになる。
「飢神の脅威が減っていく中、その噂はゆっくりと城下に広がりました」
曰く、
『この国は、不思議な渡来の力で守られている。 だから、飢神は襲ってこなくなった。 力を恐れて近づかなくなったのだ。 そしてその力でこの国を守っているのは、』
「「明命という法師」」
同時に走った声が重なる。
苑枝の言葉を予見していた香流は、冷静に同じ言葉を呟いていた。
香流の反応に驚きつつ、苑枝は頷く。
事実、二人が同時に口走った法師の名は、その頃からこの国にだんだんと根付いていっていたから。
「最初こそ、一部の者は疑っていました。 高々一人の法師が、大国一つを飢神から守るなど馬鹿げていると。 ですが、長く飢神の脅威に怯えて思考の麻痺してしまっていた民衆は、だんだんとこれを信じた。 実際、その頃から飢神の襲撃は少なくなり、国主様が明命様をそばに置いて殊の外優遇なさり始めたので、噂に箔がついたのです」
その法師は、いつ、どこからこの国にやって来たのか、分からない。
出自も経歴も判然とはしない。
顔すらも常に御簾の向こうで、民は誰も見たことがない。
だが、その人が現れた頃から飢神の脅威が美弥から遠のいたのは事実。
そして国主が手厚く囲い、その身を大切に遇している。
となれば、噂は真なのか?
疑いはいつしか薄れ、民は崇めるような目で明命を見るようになった。
自分たちの国を守ってくれる人を、神仏のようにありがたがって拝むようになった。
耀角が没して、十数年。
美弥は、明命の力に守られて今の平穏を得るようになった。
その正体の分からぬ力に守られ、これほどの繁栄を極めることとなった。
不言の約定という言葉すら忘れて、流入する業人で膨れていった。
いつの間にか目を閉じていた香流は、静かな声で呟いた。
「噂は…… いや、明命はいつごろからこの国に?」
冷静な思考が発した確認に、苑枝は首を横に振る。
「それが分からぬのです。 彼の御方の話は不確定な噂話ばかりで、明確な情報は一切ない。 その存在が認知されだしたのが、耀角様が亡くなった後であることは間違いないのですが…… 私が知る限り、彼の御方が城から出て来られることはほとんどなく、お会いする方も限られている様子。 ただ、」
「狩司衆頭目である当主様は、立場上、よくお会いにはなられているようです」
苑枝の言葉に、指先が僅かに震えた。
昼前、山の鍛錬場で共に交わした会話が甦る。
明命を討つと。
その所業は、決して見返りのないものではないと、鬼神のような怒りを滲ませて語っていた横顔が甦る。
あの人は、明命の何らかを知っている。
それが、決して許されない何かだということを知っている。
知っていて、今までそれを見過ごしてきた。
いや、仮に香流の期待する見方で語るなら、見過ごさざるをえなかった。
「(あなたは、明命の何を知っている?)」
疑問を浮かべながら、だがこれ以上は詰められないと、香流は他へも思考を走らせた。
「耀角様が亡くなった時の御様子を見ておられた方は? 相対したという飢神は、狩るまでには至らなかったのですか?」
「ええ、灯臓を取るまでには至らなかったとか。 当時その場にいたのは、耀角様を含め、狩場より戻った狩士六人と、国主様を守っていた現在の上格方。 このうち、城に駆け付けた六人は、飢神にやられて皆亡くなったそうです」
「六人全員が?」
「はい、幸い上格方は生き延びられ、飢神を追い払うことに成功なされた。 耀角様の骸を守ったのも、彼らだったという話です」
「…………」
違和が。
ひどく飲み下せない違和の塊が、身の内に育つのを香流は感じていた。
何かが引っかかる。
なにか――――苑枝の語る当時の状況が、『何か』にとって都合がいいような気がする。
美弥近郊に急に現れたという飢神の群れ。
疲弊していた狩司衆。
その隙をついたように、城まで忍び込んだ飢神。
それを狩りに少数精鋭で戻った耀角。
全てが、何か……『誰か』にとって整っている様な気がする。
だが、誰にとって…… 何にとって都合がいいのか。
その答えがぼんやりと霞んだ先に隠れるようで、見極められない。
解けない思考の紐に向き合ううち、香流は「城に現れた飢神は……」と零していた。
「城に現れた飢神は、一匹ですか……?」
その階級はと続けようとして、苑枝の言葉に遮られた。
「夫が受けた知らせによれば、一匹だったという話です。 そしてそれは、――――双角の甲種だったらしいと」
『双角』。
その単語に、瞬間かっと目元が震えた。
思考に沈んでいた香流はその底から意識を急浮上させて、驚きに叫んだ。
「双角!? 奇種であったと?」
『奇種』。
それは、突然変異の飢神を指す言葉だ。
生まれつき一の殻である牙を持たない弱種であったり、その逆に通常とは違って、二重の牙を持っていたり。
その特徴は様々であるが、並の飢神とは違う特質のある飢神を、狩士は奇種と呼んで区別している。
中でも『双角』といえば、厄介な奇種として狩士には認知されているものの一つだ。
双角とはつまり、参の殻・角が二つある飢神のこと。
角が二つ。
つまり、それらが発動させる能力が、それぞれにある。
二つの異能を持つ甲種のことなのだ。
「双角のように狩るのに難点がある飢神は、何があっても対処できるよう、集団での対処が義務づけられている。 六人では、対処しきれるとは思えない…… 耀角様はなぜそんな少数で城へ……」
当時の耀角の思考を追おうと一人呟く香流。
だがそこまで考えて、城には国主が囲っていた上格たちがいたのだったと思い当たる。
それらの狩士、合わせると一団となったとすれば。
耀角はそれを見越して少数で動いたということか。
しかし、結果双角を取り逃がし、耀角も亡くなってしまった。
ここで、再び違和が腹の底で膨らむ。
「(だが、後から駆け付けた六人だけが亡くなったのは…… なにか腑に落ちない)」
おそらく耀角が伴ったのは、自身の比肩と、当時の美弥狩司衆でも相応の実力者たちのはずだ。
国主の危機なのだ。
それも連れて行くのが少数となれば、必ず力ある者を選んで城へ向かったに違いない。
なのに、その全てが死んだ?
おかしいのは、もう一つある。
上格たちには被害が出ていないことだ。
「上格方のほうの被害は、本当に無かったのですか?」
鋭く聞くと、苑枝は「なかったという話です」と渋い顔で返してきた。
「双角を主に相手取っていたのは、耀角様と供の五人ばかりで、上格方は国主様を守っておられたそうで……」
だから被害がなかったらしいと、眉間を深くして答える。
おかしな話ではない。
道理は通っている。
だが、飲み下せない。
何かが。
香流のなかの何かが、かみ砕けない、飲み下せないと、渋っている。
「(なんだ? まるで、誰かにとって都合の悪いものばかりが、塗りつぶされていくような気分だ)」
全てが見通せない。
苑枝の話にも、その夫の話にも、きっと嘘はない。
だが、何かが欠けているようにも思う。
しかし、それを確かめるのには、きっと、
「(当時のありのままを知っている者。 国主と上格方、そのあたりに確かめるしか、術はない、か……)」
何かが曖昧な、耀角の死。
その時の状況。
知って何かを得られるのか、それだって分からないが……
香流はそこにある見通せない何かに思考が囚われて仕方なかった。
何かがある。
そこに隠れていると、己の直観が叫んでいた。
「(――――城だ。 国主と、それを守る上格方。 そしておそらく、明命という法師も。 その者たちに問えば、この靄がかる疑問、晴らすことができるはず)」
握りこぶしを額に当て、香流は遠く、雲の先にあるはずの美弥の国主の城を思った。
しかしそこまで至って、きつく目を閉じる。
駄目だ、それはできないと、首を振った。
なぜなら。
なぜなら香流はもう、あの人と約束してしまったから。
あの人――――銀正と、明日の使者の訪れとともに国を発つと、誓ってしまったから。
そのために今の香流は、あの人が危険だと近づくことを禁じた明命周辺の人物に接近するわけにはいかない。
必ず銀正との約束を果たすため、あちら方に水面下の思惑を気づかれずにいなければならない。
「(密命を受けた以上、私は動けない…… おそらく、銀正殿が秘しているもの。 それに近いしい何かがすぐそこにあるのであろうに……)」
きっと、今の話は、銀正の秘密にも通じている。
確証はないが、予感が叫ぶ。
知りたいと、心が叫ぶ。
あの人を、置いていきたくはないのだと。
一度諦めをつけた想いが暴れ始める。
しかし、それを持てるすべてでねじ伏せて、香流は落とした視線の先にある袴を握った。
喚くな。
もう戻れない。
もう自分は、あの人の願いを果たすと決めてしまった。
例えそれが、もしやもすれば、あの人との今生の別れとなるものだとしても。
あの人が決死の想いで託してくれたものを、私は受けた。
だとすれば、それを今投げ出すのは、全くの不義。
「(動くな。 動かざるが、今私にできること。 あの人の想いに報いること)」
目を閉じろ。
心を閉ざせ。
今聞きかじったこの国の過去の話すべてに己を閉ざし、香流は銀正との約束だけに集中しようとした。
その時だ。
「香流様ぁ!!」
慌ただしい足音と、阿由利の悲鳴じみた呼び声が響き渡った。




