三十二
目の前にあった窪地は奥に小さな滝つぼが開け、薄く広がった水辺に木漏れ日の仄かに落ちる、明るい場所だった。
鳥の囀りも幽しく、ざあざあと見上げるくらいから落ちる滝の音だけが木立に響く。
その騒がしい静寂の中。
一つの集中が、場の緊張を高めていた。
その人は滝の下に貯まった浅い水辺に足をつけ、真剣を片手に背を向けていた。
その全身から立ち上る気配。
まるで風を呼ぶような蠢きに、香流は項の毛が戦ぐのが分かった。
その人はゆっくりとした動きで正眼に刀を構えると、――――一呼吸。
次の瞬間、鋭い身のこなしで残影を作り、水を巻き上げて眼前の見えない流れを断ち切った。
そして残心。
飛び散った水滴を浴びて、最初のようなゆっくりとした動きで刀を収めた。
一連のそれは決して淀みなく洗練としていて、そして、美しかった。
「お見事です」
意図せず、香流はそう賛辞を送っていた。
声を拾ったのか、その人――――銀正は、集中を解いて振り返る。
琥珀の目が香流を認め、
「……見ていらしたか」
どこか気恥しそうにして、銀正は水辺から上がった。
それに手ぬぐいを差し出すと、礼と共に手が延ばされる。
銀正は水気を払いながら、つうと香流の背後へ目を止めて苦笑した。
「そのハタキ、苑枝から取り返したのか」
「ええ。 堂々お許しをいただいて背負っております」
街中以外では構わぬそうなので、と澄まして言えば、銀正はおかしそうに目を細めた。
そして落ちる、小さな沈黙。
その間にふと一考した香流は、涼やかな微笑みと共に呟いた。
「先日の勝負でも思いましたが、御当主の太刀筋は、一陣の風ですね」
まるで、立ちふさがるもの全てをすり抜けてしまうような、伸びやかな風。
どこまでも駆け巡っていきそうで、それでいて、誰にも捉えられぬ一筋の流れ。
「董慶様も、秋風のように自由な刀を振るう方でした」
昔見続けた董慶の構えを思い出し、香流は仄かな憧憬の色をした目で銀正を見た。
銀正はその視線に躊躇うと、そっと目を逃しながら「師と比べられると恐縮だが……」と、口元を隠す。
「あなたには、私の刀、どのように思われた」
董慶が秋の風なら、自分の風は何だろうと、銀正は問いかける。
それに香流は束の間思案し、「初夏の」と答えた。
「御当主の風は、初夏の玲瓏な涼風です」
銀正の刀は、まだうら若い。
だがそれは修練の足りない若輩者というよりも、若く瑞々しい慎みを感じさせるのだ。
そしてその確かな閃きは、冬の凍てついた雪風のような厳格さではなく、青葉の頃の涼風のような明朗さを思わせる。
夏の隆盛を呼ぶ、碧く光る風だ。
「涼風」
香流の答えに、銀正は目を細めて佇んだ。
その目の奥で何を思ったのだろう。
一拍ののち柔らかく微笑むと、銀正は「だとすれば、」と言葉を返した。
「だとすれば、あなたの刀は火炎だな。 あの時の容赦ない繰り出しは、篝火が爆ぜるようであった」
その業火に焼き尽くされることを知りながらも、目の離せない閃光だ。
銀正の評に、香流はぱちりと瞬きを返す。
それは、
「それは、ありがとうございます……?」
つまり、炎のように直情的すぎると言いたいのだろうか、と迷いつつも礼を述べると、銀正は声を上げて笑った。
そして弁当を受け取りながら、つけ足す。
皮肉ではない。
綺麗な光だと言いたかったのだと。
銀正がこんな風に朗らかに笑うのを初めてみた香流は、その横顔に目を瞠る。
そしてことりと何かが動いたような胸を押さえ、一人首を傾げた。
「(はて?)」
なんだろう。
小さな脈動に疑問を浮かべているうちに、水辺にあった岩に腰掛けた銀正が、そこから香流を手招いた。
どうやら、同じく横の岩に座ってほしいらしい。
「苑枝にも聞いているだろう? 少し話がしたいんだ。 一緒に座ってくれないか」
「……はい」
誘われて、ハタキを下ろしながら近づく。
すると、銀正がふと何かに気が付いたように顔を顰めた。
「しまった。 あなたの昼食も用意するよう、頼んでおくのだったな……」
これでは、私だけ食べて、あなたは手持無沙汰だと、配慮がなかったのを詫びる。
それに慌てた香流は、お気遣いなくと手を振り、辺りを見回して何かを見つけた。
「では、あれをいただいても?」
銀正が指で示された先を見ると、滝の流れ出る高い所に生えた、一本の山桃の木があった。
あんなもの、どうやって。
目で問う銀正に、香流はにっこり笑って足元の石を一つ拾う。
そして、見ていらして下さいと言いおいて、淀みない動作で石を投げ放った。
香流の手を離れた石は鋭く直線を飛び、見事、山桃が一際たわわに実った細枝に命中する。
勢いにしなる枝。
次の瞬間、その先の実りはぽとりと滝つぼに向かって落下した。
赤い実の連なった青葉の枝が、流れに押されて銀正たちの方へ寄ってくる。
その一連の出来事に呆気に取られていた銀正は、枝に向けていた目をゆっくり戻し、香流へ向けた。
香流はどうでしょう? とでも言いたげに微笑み、打ち寄せた枝を拾った。
「……祭りの時も思ったが、あなたの腕はまるで百発百中だな」
感嘆半分、呆然半分で銀正が言うと、香流は気負ったところもなく枝の水気を袖で拭って近づいてくる。
「幼い頃からああやって高いところにある実りを取っていたので、慣れたものですよ。 御当主も欲しいですか?」
「いや…… 大丈夫だ」
香流は銀正の横の少し小さい岩に腰を下ろすと、それでと顔を上げた。
「お話、なんでしょうか?」
態々こんなところまで呼んでのことだ。
余程大切な話なのだろうと香流が切り出すと、
「いや、その前に、あなたの話を聞きたい」
優しい声が答えた。
「私の話ですか?」
奇妙なことを申されるのだなと言外に表せば、銀正は苦笑して頷く。
頷きながら、優しい目をする。
あなたも私の話を聞きたがったように、私もあなたの知りたいと願うのだと。
「…………」
香流は銀正の柔らかな気配に少し詰まって、しばらく手の中の山桃を弄んだ。
そして思う。
なんだか今日の御当主は、常と様子が違うと。
その違いが落ち着かなくて、香流は少しだけ緊張に心の水面が張りつめるのを感じていた。
「……何をお聞きになりたいのです?」
ぽつんと呟くと、銀正はうーんと悪戯っぽい顔をしてわざとらしく唸って見せた。
そんな仕草も珍しく、そわそわしてしまう。
まるで銀正の違う一面を初めて見たような心地で、香流はひっそり息を詰めていた。
そして数拍。
銀正は何かをその目の中に宿すと、穏やかな表情で瞼を伏せて言った。
「あなたは、右治代への間者なのでしょう」
山桃と遊ぶ手が、ふっと動きを止めた。
香流は答えない。
いや、答えられなかった。
否定は無意味だと、問われた声音で察したからだ。
それでも目だけで、どうしてと返せば、銀正は昨日五老格からの文が届いたと微笑んだ。
「明日、私たちの婚姻を確かめに、使者が来るそうだ。 それで確信した。 あなたは、五老格の手の者がこの国に入りこむための先遣だと」
間違っているだろうかと返すのは、銀正の戯れだ。
察した香流は、深くため息を吐く。
理性が、冷たい判断を囁いていた。
これは潮時だ、と。
「……仰る通り、私は右治代の内情を探っておりました。 五老格様の直々の密命によって」
明らかになってしまったのなら、下手に隠すのも悪手だ。
香流は真っ直ぐ銀正に向き直ると、深く頭を下げる。
「あなた様に真を問いながら、私はずっとあなた様を欺いていた。 申し開きもありません。 深く、お詫び申し上げます」
間者という役目上、香流は決してこの人に不審な気配を気取られてはならない。
だから、何も知らないただの小娘を演じるために、己の不実を感じる罪悪すらかみ殺してここまできた。
何も隠すことはないと固い殻で自分の心すら偽って、平然と過ごしてきた。
全ては任を果たすため。
五老格の命を全うするための虚偽だった。
しかし、こうして見破られて見れば、そんな覚悟は薄皮と同義のあまりにお粗末なものだったと、身につまされる。
現に今の香流は、嘘を見破った銀正を前にして、まともにその顔を見ることすら厭うていた。
そこにある思いを直視したくないと、体が拒否を訴えていた。
心は身勝手にも痛みを覚え、深く深く、後悔の海に沈む。
これまでの日々。
銀正という人を知り、言葉を交わしてきた時間たち。
それらの記憶が。
この人を裏切り続けた日々という事実が、真っ直ぐに香流を苛んでしかたなかったから。
「(まだまだ、私も未熟だな)」
腰を折りながら、香流は皮肉気に口元を歪める。
謝罪を口にするくらいなら、銀正が正しく責め事を言えるように、何食わぬ顔で構えて居ればいいものを。
だが、口から出した言葉は取り消せない。
背き続けた事実を詫びるという己の卑怯を胸中に侮蔑しながら、香流は頭を下げ続けた。
沈黙は、それほど続かなかった。
「頭を、上げてくれ」
静かな声が、降り落ちる。
香流は一瞬だけ目をつむる。
そして、覚悟を決めて顔を上げた。
どんな誹りも受けるつもりだった。
しかし、
「あなたのそんな顔は、初めて見たな」
銀正は笑っていた。
ひどく嬉しげに目元を緩ませ、香流を見つめて言う。
「そんな風に心揺らして下さるとは、勿体ないことだ」と。
「……なぜ、」
笑っておられるのです、と香流が痛みと共に息を吐いたのに、銀正は「同じようなやりとりをしたな」と可笑しげに言った。
それから「いいんだ、恨みはしない」と首を振った。
「あなたには、あなたの事情があった。 それが、あなたの芯が直向きなことを損なうわけではない。 ――――あなたは変わらず心根の美しい人で、私はそんなあなたを眩しいものだと思うから」
あなたが言ってくださったのと同じだ。
私は、あなたの断罪人にはならない。
それだけの事。
香流は、言葉をなくした。
そして久方ぶりに、己の弱さに押し負ける。
突き上げる悲しさを露に、力なく首を振った。
「――――そんなひどいことを、言わないでください。 私はその時が来れば、あなたのどんな言葉も聞き届けるつもりでしたのに」
まるで降り落ちる雨に濡れるのを諦めるように、何もかも受け入れて、優しさばかりをくれないで。
「あなたは、なにもかもを許しすぎる」
無理解な配下の侮蔑も、無神経だった香流の言葉も、大切な人を守れなかった悔いが己を苛むことも。
この人はすべてを許して、背に負い、ずっと立ち続けてきた。
その上、今度は香流の偽りすら許すと笑う。
それは、あまりにも無防備で、脆く儚い有様だ。
そんな姿を、香流は認められなかった。
もっと痛みを吐き出してほしかった。
なんでもいい。
この人がどんなふうに傷ついたのか。
その傷跡を二人で眺め、共にそこへ手を翳し合いたかった。
なのにこの人は何もかも飲み込んで、いつも消えそうに笑っている。
そんな笑みを見たいわけではないのに。
わたしは、
「私は、」
あなたを信じて――――
「そんな綺麗なことではないんだ」
いつの間にか、俯いていた力ない頬を支えるように、声はそう言った。
香流殿、と呼ぶ柔らかさが、悲しみを押しつぶす。
ゆっくりと見上げた先に、琥珀色の目。
溶け出すように、緩んで解けた。
「あなたが言ってくれるように、許すなんて、綺麗なだけのものではなかったんだ。 私は、ただどうすればいいのか、ずっと分からなかっただけだ。 分からなかったからただ内側に貯めこんで、途方に暮れていただけだ」
でも、
「あなたが、動き出す力をくださった」
月夜に咲く花のように柔く綻ぶ銀正。
散りゆく先を思わせるような刹那の笑みに、香流は息を止めた。
御当主……?
音もなく呼ばわり、手を伸ばす。
銀正はその手を受け取って、強く握った。
そして、言った。
吹き去る涼風のように、囚われない自由に笑って言った。
「例え間者としてこの国に来たのだとしても、結婚自体がただの口実だったとしても」
「あなたとの出会いが、私に再び前を向く気力を与えてくれた」
「あなたであったから、私は救われた」
「あなたがお相手で、良かった」
「あなたと出会えて、嬉しかった」
ありがとう。
風が吹く。
吹き抜けて、遠く、彼方の空に消えてしまう。
香流はその自由な姿に手を伸ばそうとするが、銀正は握った手を放し、背筋を正して真っ直ぐに香流を見た。
すぐ近くにいるはずなのに。
なのに銀正がだんだんと遠くなるようなめまいを覚え、香流は顔を歪めた。
秀麗な口元が、優しい笑みのまま動く。
「(だめだ)」
何かを、伝えられる。
だがきっとそれは、香流の意志に反する。
だからと首を振った。
言わないでほしいと、希った。
銀正殿。
銀正殿。
お願いです、どうか。
どうか、その何かを、言わないでほしい。
私はまだ、あなたを。
あなたを見ていたい。
そばにありたい。
だから、
銀正殿。
おねがいです、
どうか、それを、
「(言わないで)」
けれども、無情な優しい眼差しは、香流の拒絶を知りながら、それを黙殺した。
「中幸家御息女、香流殿」
初めて呼ばれる家名に、香流は知らず背を伸ばしていた。
心は耳を塞ぐように騒ぎ立てるのに、残った理性が、聞かねばならぬと首を振ったから。
それが自分の取るべき道で、この人に報いる道だと断じたから。
銀正は香流の受容を寂しげに見つめると、瞳に静まり返った覚悟を帯びて、それを言った。
「美弥狩司衆守護家右治代当主として、お願い申し上げる。 此度の縁談、どうか、」
「破談としてほしい」




