二十六
美弥、国境の森の中。
恐怖に腰を抜かして座り込んでいた幼い銀正は、目の前の飢神が切り伏せられたのを、気配だけで感じていた。
きつく閉じていた両の目を開き、小さな手で塞いで聞こえなくしていた耳を開放して、外界に己を開く。
そうすれば、夕焼けに赤く焼けた空を背に、一人の男が立っていた。
「やはり、和尚の読みは当たっていたか」
董慶と名乗った男は、そう言ってまだ九つの銀正を助け起こした。
男は子供の着物についた砂埃を丁寧に払い、なぜか痛ましそうな目で銀正を見る。
そして、重々しく告げた。
「銀正、お前は、『希色』だ」
「まれ、いろ?」
まだ出会ったばかりの相手にどう対応していいのか戸惑ったのと、告げられた言葉の意味が分からなかったので、銀正は心細い思いで呟く。
小さな声に董慶はゆっくり頷き、銀正の手に、『希色』と字を書いて教えてくれた。
「今日、わしが美弥に寄ったのはな、銀正。 お前さんが希色かもしれんという会照寺和尚の知らせを確かめるためだったのだ」
「……希色とは、なんのなのでしょうか?」
先ほどからどうにも耳に慣れない言葉。
それが自分とどう関係あるのか。
その詳しいところが知りたくて、銀正は董慶に問いかける。
董慶は体で隠すようにしていた飢神の死骸を振り返り、なにかを深く考えて、それから教えてくれた。
「希色とは、奇児の中でもさらに希少な力を持つ子供のことをいう」
「希少?」
元々が数少ない奇児の中でも、更に希少とは。
まだ情報が少なく訳が分からない銀正は、もっと教えてほしいと董慶に目で求めた。
しかし董慶は言葉にすることを苦悩するように、ぐっと唇を閉ざす。
なにか、教えるには躊躇う理由があったのだろう。
だが不安に揺れる幼い目にとうとう根負けして、董慶はその口を開いてくれた。
「希色が特別なのは、その能力ゆえだ。 これらの子らが持つ力には、ある特殊な決まりがある。 それは必ず『飢神に関わるもの』だということだ」
「そして希色の子が生まれ持つ色は、必ず金と銀、真珠の色」
「お前さんの色だよ、銀正」
小さな肩に流れる、白銀の髪が揺れる。
亡くなった祖母が愛した銀髪。
そのことを知っている和尚が、せめても伸ばしておきなさいと銀正に勧めたために、仏門にありながら伸ばされている髪。
「私の、色」
ずっと、生まれた時から共にある慣れ親しんだ色。
それが、希色である証だと、男は言う。
「先ほどのことは覚えているね」
目の前に膝付きながら、董慶はたずねた。
「『確かめるためだ』と言って、飢神を前に、お前さんに両の目と耳を閉じさせた。 お前さんはその間、《それ》を聞いたんだったよな?」
董慶は事前に、《それ》が聞こえたらすぐさまを口にするよう、銀正に言っていた。
だから銀正は、聞こえないはずの耳が音を拾ったとき、《それ》を言った。
そうすると何かの脈動が銀正の体を貫き、董慶が動いた気配がした。
そして目を開けると飢神は絶命し、董慶が難しい顔つきで立ち尽くしていたのだ。
「あれで分かった。 銀正、お前さんの力は、見るのと聞くのを封じることで飢神の「 」を「 」する能力だ」
古い文献の通りの、「 」の能力だ。
董慶の断定に、琥珀の目は見開かれる。
まさか。
そんな力が自分にと、愕然と揺れ動く。
そんな有様を董慶は痛ましく見つめ、銀正と子供の名を呼んだ。
「このことは、決して他言するな。 今の世に、希色の存在を知る者は、ほとんどいない。 お前さんさえ言わなければ、気づく者はいないだろう。 お前さんは今まで通り、力も欠損もない、例外的な奇児として生きるんだ」
董慶の忠告に、銀正は戸惑って首を振った。
「な、なぜですか? 今のお話が本当なら、私の力は人を飢神から救うために使うべきです」
董慶が告げた言葉が真実なら、銀正には飢神を確実に殺せる力がある。
なのに、それを使うなとは。
飢神の存在に苦しめられている人々がいるこの国で、そんな無責任なことがあってよいものかと、銀正は憤る。
だが、董慶は厳しい顔を崩すことなく、強い眼差しで銀正を貫いて言った。
「分かっていないな、だからなんだなんだ。 お前さんの力は、多くの人を救うかもしれない。 ――――だが、忘れていまいな? 奇児の能力は、使うほどにその者の命を縮める」
「!」
奇児の能力は、使い続ければ命を削る。
それは逃れられない現実で、絶対的な縛り。
勿論これは希色においても同じことで、だからもし銀正が人を救おうと願って力を使えば、その命は徐々に削られていってしまう。
理に反する力は、それに伴う代償と切っても切れぬものなのだ。
「お前さんの力が人のためになると知られれば、お前さんは人のためという大義名分のもと、その力を使うことを望まれるだろう。 その命を確実に縮めながら」
「だから、言ってはならぬのだ。 一人の人間が、その身に過ぎるほどに引き受けた犠牲の上に得られる平穏など、人は得てはいけない」
「お前さんは、自分が守るには多すぎる誰かのために、己を削り続ける生など、生きていはいけない」
分かるか、銀正。
犠牲を当たり前のままにする生き方など、許してはならぬのだ。
例え、それが多くの人を救うとも。
お前は、そんなものを人に与えてはならぬのだ。
銀正、お前は、その命を衆意に差し出してはいけない。
その命、生きるも削るも、お前の意志だけが決めるべきもの。
決して、世にまかり通る道義の上に投げ出してはならぬもの。
「お前さんはお前さんの命のあり様を、自分で決めるのだと心に止めて、生きねばならん」
力強く向けられる言葉に、銀正は呆然と立ち尽くす。
まだ幼い銀正には、己の意志に基づいた他者への献身と、ただ他人の要求に自己を投げ出すだけの自棄の違いなど分からない。
だが、そこには決定的な違いがあるのだろうということだけは、董慶の真剣な眼差しにぼんやりと理解し始めていた。
「私は、人を救えるこの力を隠し続け、それでも生きていてよいのでしょうか……?」
力ある者が、その力で救える者を救わず、のうのうと生きていてよいのか。
銀正には、そう思えない。
だが、董慶ははっきりと肯首して続けた。
「人を飢神から救いたいと願うなら、その力だけに頼らずともよいのだ。 力をつけ、刀で飢神を払えばいい」
無闇にその力を使わずとも、別の力で人を守ればいい。
だからと、董慶は銀正の手を強く握り、澄んだ眼差しで言った。
「約束だ、銀正。 決して命を縮めるその力、無闇に使うことをするな」
そして、「ただ、」と前置き、一つの許しを銀正に課した。
「その力を使うとき、お前さんは飢神の前に無防備になる。 だからいつか。 お前さんがその力量と性根の美しさに、これこそ信を置くべき人だと見出した誰かに出会ったとき」
その誰かを守りたいと願ったとき。
「その時にだけ、力を使うことを許そう」
忘れるな、銀正。
「お前さんだって大切なんだ」
まだ出会わぬ、お前を大切に思ってくれる誰かにとって。
勿論、自分にとってもと董慶は言って、そして、力を使う条件を言った。
「お前さんが守るべき《何か》が定まった時。 そして、自らを大切にできるようになった暁に、」
「命を代償に、それでもと覚悟を持つことができたなら」
「その時だけ。 生きて帰るため、生き抜くため。 それを使え、銀正」
「希色のその力」
「生きるために使え、銀正」
*
そっと目を開ければ、まだ朝日と言えるほどの眩しい日が、格子窓から差しこんでいた。
ここは、右治代家の敷地内にある道場。
会照寺から帰った銀正は、香流が苑枝から借り受けた木刀を戻しに、この場所へやってきていた。
元ある所に木製の二振りを収め、束の間そこに佇む。
そしてしばらく考え込んだあと、昨晩から続く心の移りように想いを巡らせるために、道場の真ん中へ腰を下ろした。
慣れた座禅を組んで、清涼な朝の気配の中、しばし意識を心の流れに浮かべてみる。
すると心の流れが引き寄せたのは、遠い昔、師である董慶と出会った日のことだった。
「(そうだ…… なぜ忘れていた)」
座禅を崩し、握りしめた拳を額に打ち付ける。
肩に流れる髪を眺め、銀正は苦く顔を顰めた。
本当に、なぜ忘れていたのだろう。
あの日、董慶は銀正に言ったのに。
『過ぎた犠牲の上に得られる平穏など、人は得てはいけない』と、悲しそうに言っていたのに。
「(こんな時になってやっと、思い出すなどと)」
失笑が漏れる。
今更。
明命の囚われ者となり、奴の悪事に手を貸し続けた今更になって、あの人の言葉を思い出すなんて。
あれほどの犠牲の上に今日の美弥の平穏を得た今となって、思い出すなんて。
「なんと愚かなことだ……」
これも、自分への罰だろうか。
力及ばす、憎むべき相手に膝をついた、己への。
「(駄目だ、)」
落ちかけた思考を振り払うように、銀正は頭を振る。
「(自責に溺れるな。 無闇に悔恨に囚われ、何も生まない思考に落ちるな)」
あの人と、約束しただろう。
閉じた目の奥。
艶やかな黒髪が、風に舞う。
振り返る細い背中。
鮮烈な光を宿した目が、銀正を見ている。
ただ、真っ直ぐに、銀正だけを見定めている。
「香流殿」
あの人に誓った。
董慶が願ってくれたように、強くあろうと。
最期まで生き切ることを諦めない進み方を選ぶために。
「もう、あなたに恥じるような道は選べない」
全てを終わらせねばと、思う。
この国に渦巻く昏い闇を払い、美弥を真っ当な国として立て直さねばと。
そのために元凶であるあの法師を倒し、罪過に手を染めた者は断罪されねばならぬ。
耳の奥に、涼やかな声が去来する。
朝霧の中。
香流が差し出してくれた言葉が、銀正の心を優しく包む。
『罰を得ようなどと、歪に己を苦境に貶め、誰にとなく負い目を感じて生きることはないのです』
銀正殿、私は、
『あなたが、御自分を許すことを望みたい』
『あなたが生きるを苦にしているのなら、どうかそれを許してやってほしいと、思います』
『あなたの心が損なわれてゆくのを、黙ってみているなんて、できませんよ』
「(……すまない、香流殿。 私はまだ、あなたに全てを話していない)」
この手が、香流の思う以上に汚れていることを、まだ銀正は明かしてはいない。
だから本当は、香流にあれほど優しい言葉をもらう資格など、自分にはないのだと。
嘲りにも似た自省が身を苛む。
この一年。
明命の命に従い続け、多くの贄を差し出してきた日々。
その間、ずっと後悔に慟哭し続けた想いが湧き上がる。
だが、
「(それも、もう終わりだ)」
あの人が、現れたから。
香流が、遠く、もう思い出す資格もないと蓋をしていた尊敬する師の面影と共に、銀正の目を開いたから。
だからと、銀正は決然と前を向く。
「(ケリをつけよう。 この歪な美弥のあり様に)」
それが、ずっと恐れ続けた多くの犠牲を払う選択としても。
守りたいと思っていた者たちを危険に晒す道としても。
「(もう、邪悪な犠牲の上に成り立つ平穏を、許すことはするまい)」
『銀正殿』
香流の柔らかな眼差しが、風に笑う。
『私はあなたが損なわれれば、悲しいですよ』
『私にとって、あなたはそういう人ですよ』
鼓動が、微かな音を立てる。
この言葉だけでいいと、思った。
あの人が分けてくれた心さえ胸にあれば。
それだけで、銀正に未練はない。
動き出せば…… 全てを明るみにすれば、畢竟、己の罪も白日のもととなるだろう。
そうなれば右治代当主の座も失い、万一生きていれば、自分は罪人として生きることになるだろう。
香流の隣に、当たり前のように立つことはできなくなるだろう。
それを思えば、どうしようもない悲しみが銀正の心を重く沈めたが。
だが、それでも、抱いた決意は揺らぐことはなかった。
香流が銀正にもたらしたのは、銀正の心を解く慈しみだけではなかったから。
あの鮮烈な瞳が、強くあることを銀正に教えてくれたから。
董慶の想いと共に、与えてくれたから。
「(私は、あなたのくれた強さだけで十分だ)」
全てを終わらせる。
その嚆矢を引くのは自分だと、銀正は立ち上がった。
止まっていた時が動きだす。
この美弥の膠着が、ゆっくりと動きだす日が近づいていた。




