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比翼の花嫁  作者: 壺天
32/79

幕間

 陰。


 陰だ。


 美弥に射しこむ明るい朝日が落とす、仄暗い陰。




 その陰に、法師は、いた。




「――――ああ。 ようやっと、見えたわ」


 群がる薄闇が巣くうそこで、不穏な声はねとりと笑う。

 ここは美弥国主の城。

 本来国主が座すべき、謁見の御簾みすの内。

 その中で水を張った盆を覗き込んでいた法師は、老いた口元をゆるりと歪めた。


「丁度、起きる頃合いだろうと思ってのぞいてみたが…… 朝も早うから、どこへ行っておったのだか」


 かさついたほくそ笑みを織り交ぜ、法師は『何か』を見ている。

 視線の先にある水面。

 そこには、法師の顔ではない『何か』が映り込んでいた。


「おお! これだ、この娘だ」


 喜色を浮かべ、法師は盆を食い入るように見つめる。

 波もない水面には、一人の娘が浮かびあがっていた。

 艶やかな黒髪を解き、白銀の若武者に向かって笑う、妙齢の娘。

 まさしく右治代当代の許婚、香流その人が映り込んでいた。


「ああ、惜しい。 惜しいのう。 水鏡でなければ、確かに()()と確信できたであろうに」


 法師は――――明命は、水底に掴みかからんばかりに身を乗り出してほぞを噛む。

 祭りの日。

 騒動の渦中に、明命はこの娘を見た。

 その姿を認識したとき、明命は己の中の何かが、うぞりとうごめいたのが分かった。


 もしや、もしや、あれは。


 本能を焦がすような衝動は、避難を促されて娘を見失うまでの一瞬のものであった。

 あの時湧き上がった、脳髄を掻きむしるほどの欲。

 それは一晩たっても潮引くことなく、明命を駆り立てていた。


 あの娘は何者だ。

 誰ぞ、あれを知るものは。


 欲を抑えきれぬ幼子のように、己の取り巻きである狩司衆上格たちへ娘の素性を探させようとすれば、


『あれは、我が家の嫁です』


 共に城下へ降りていた一人の女が、ぽつりとそう零して言った。





「まさか、五老格が寄越した嫁が、あの娘とはなぁ」


 奇態なこととは思わぬか。


「のぉ、弓鶴」


 振り向きもせずに背後へ投げられた声に、陰にじっと動かない女は目を伏せた。

 しかし法師は弓鶴の無言など気にも留めず、心浮き立つように独り言を重ねる。


「昨日はあの騒動のために力を使いすぎて、まったく草臥くたびれたと思っていたところだったが…… このような面白い出会いがあるとは」


 わざわざ城下へ足を運んだかいがあったというもの。

 明命の笑う振動で、音もなく波立つ水鏡。

 右治代の屋敷らしき門の前で銀正に手を振る香流の姿が、歪に揺らぐ。

 その姿すら()()()()、明命は腹の底でのたうつ欲を飼いならすのに苦労した。




「この子が、()()()()()()()()飢神共に食われず済んだのは、幸いだった」




 昨日。

 祭りのただ中で巻き起こった、飢神の襲撃騒動。


 その全てはなんとこの法師、明命の差し金であった。




「あの丙種の群れ。 態々《わざわざ》他所よそから集めた甲斐あって、それなりに役立ってくれたわ」


 くつくつと肩を揺らし、明命は愉快げに声を転がす。

 昨日の全てが、この法師の思い描いた通り。

 明命の思ったがままであった。

 この美弥という国全体が、自身の手に収まる箱庭だと。

 明命は傲岸不遜な思いに酔いしれ、一人薄気味の悪い笑い声を上げる。





 今、この美弥は、長い平穏の中にある。

 その平穏は美弥の民にとっては僥倖ぎょうこうだが、周辺の飢神におびえる国々の人間にとっては、ひどく異様に映る。

 なぜ。

 なぜ、あの国だけが安穏としていられるのかと、不明瞭な疑惑をいだく。

 だから、この国を我が物にしておきたい明命には、この国の異常を隠す策を立てる必要があった。

 飢神の脅威に怯えるのは、周辺他国だけではない。

 この国にも飢神の脅威はあるのだと。

 大国美弥であっても飢神への恐れは逃れられぬものだと、他所の人間の目に見せかけておく必要が、明命にはあった。

 だからこそ多くの人が出入りする祭りの日を狙って、あのような見世物を企てた。



 『わざわざ呼び込んだ飢神を美弥狩司衆に退治させ、その力を誇示する』という見世物を。



「美弥の平穏を訝しむやからも、あのような騒動を見れば、この国の異常など疑わなくなる。 その上、見事に騒動を終息させた美弥狩司衆の力を目の当たりにして、だからこの国は平穏なのだと勝手に納得するだろう」



 例え美弥狩司衆の実力が、長きの平穏によって他国の狩司衆よりも数段劣る、()()()()()()()()()()()()()()()()()としても。



「わしが態々弱らせておいた乙種をも狩り取る様を見れば、疑うこともしまいて」



 そして騒動を見聞きした者たちは、国元に帰って言うだろう。

 美弥狩司衆の力は確かなものだ。

 あの実力があれば、美弥が平穏なのも道理と言える。

 あの国は確かな力を持った、平和な国だと。

 なにもおかしなことはないのだと。



 明命の見せた悪意ある目眩めくらましを信じ切って、言うだろう。






「人をあざむくなど容易たやすいことよ」


 くっくと肩を揺らし、明命は衆愚を嘲笑う。

 その邪悪な姿は陰に隠され、決して日の元にさらされることはない。

 民は誰もこの美弥の闇など知らず、平穏のぬるま湯に溺れ、日々を謳歌しているのだ。

 その穏やかな日常は、明命の一存で壊すことができる、薄玻璃うすはりの土台の上に成り立っているとも知らずに。


 この国のおかしな安寧。

 それを真実、与えている存在が、『その対価として何を搾取しているのか』。

 なにをこの国から奪い続けているのか知らず、民は今日も愚かに生きている。


 この穏やかさが、『おぞましい贄』を対価に得られていると知らずに生きている。




「この国の全てはわしのもの。 この国の生きるも死ぬも、わし次第。 この国を()()()()()()()わしが、わしこそが、」





「この国の主!」


 わはははははは…………!!






 くらい、昏い、陶酔。

 その酩酊めいていに落ちる明命の背後。

 愉悦に揺らめく法師の後姿を、闇に同化する弓鶴は、じいと見ていた。


 そして、思い出していた。

 今となっては最早遠い、昔日せきじつを思い描いていた。





 この法師に初めて出会った、あの日。


 掴みたいと切に願い続けていた《比翼》を、永遠に亡くしたあの日。


 弓鶴は己の中にあった想いのすべてを捨てて、己の《比翼》を殺した、この法師の手を取った。



 それがどれほど人の道にそむき、多くの業を負う道行みちゆきであろうと、いてつききった弓鶴の心はなんの後悔も残さなかった。

 善徳、悪徳など、何の価値もない。

 そのことを知ってしまった弓鶴は、幼い我が子すら道連れに、修羅の道に足を踏み入れたのだ。


 それから十余年。


 巻き込んだ長子を失った弓鶴は、明命に命じられるまま、過去に捨て去った次子――――銀正を、右治代当代という傀儡くぐつとして還俗させた。

 全てはそのまま。

 あの日、こおりついて変わることない日々を…… 冷え切った自分の心を守るため。

 

 もう決して壊れることはないと思っていた、弓鶴の世界。


 それが久方ぶりに動きを見せたのは、()()()()()がもたらされた日だった。




『中央から、右治代に嫁を取らせたいと話が来た』




 長い美弥の閉鎖的な対応に、業を煮やしたのだろう。

 央の国・秀峰に根を置く狩司衆五老格は、嫁とりという搦手からめてを使って、美弥狩司衆に接触を図ってきた。

 当時すでにこの国を掌握していた明命は、この話を一笑に付して、断りを突き付けようとした。

 美弥は大国。

 それくらいの主張はまかり通る。

 だが、これに待ったをかけたのは当の弓鶴だった。


 他国からくる嫁。

 それを受ける右治代。


 何もかもが昔、自らがてきた出来事に似通って思われ、氷の心がわずかばかり揺らいだ。

 だから、その言葉は、知らず唇から零れ出た。



『受けましょう、明命様。 高々若い小娘一人、なにもできはしますまい。 一つ要求を飲みさえすれば、後に続く干渉も拒絶しやすくなります。 ――――ねぇ? 明命様』



 ただの娘一人。

 引き受けて、飼い殺してしまえばいいのだ。

 そう強請ねだった弓鶴の言葉に、明命も最後には頷いた。




 心が確かに震えたのを、弓鶴は感じた。




 その娘によって、《《何か》》が変わるような予感がした。

 長い月日にさびびついてしまった『何か』。

 それが、再び動き出すような。

 そんな気がした。

 そして、確かにその娘――――香流は、右治代の『何か』を変え始めた。



 だが、それは弓鶴が期待した変化ではなかった。



 ただ弓鶴は、外から右治代に嫁いだ女がたどるのは、結局同じ道だと。

 自分がたどった道は定められたものだと、香流の存在をもって確かめたかっただけだった。


 だが祭りの晩。


 あの娘は弓鶴の揺さぶりに、見たこともない強い目で答えた。

 あの晩、弓鶴に娘が向けたものは、憐れみなどという吐き気のするような生温さではなかった。



『それを言えば、あなた様の心は温もりを得ますか』


『私があなたと同じだと、憐れな身の上だと認めれば、あなたのその冷えた目は癒えますか?』


『ただ、お聞きしたいだけです。 あなた様が真に望むもの。 その目の奥底の、狂ったような炎があなた様をさいなんでなお、求めるものがなんなのか』



 一時の迷いに、己を偽ることなど許さない。

 偽りに目を眩ませて、本心に向き合わぬ臆病などさせないという、強い意志。



『それは確かに、この憐れな小娘の言葉ですか? この国にやってきてたった数月しか経たぬ、縁も所縁ゆかりもない女の同情ですか?』



 弓鶴は頷いた。

 お前が。

 お前さえ、私に同調してくれれば。

 自分はようやく捨てられると思っていたのだ。

 ()()()()()()()()()()()()()己の《比翼》を恨む心を。

 それでも恋い慕い続けるばかりで消えることのない想いを。

 香流が、自分と同じ立場の女が、つがいとなる相手を信じ切れずに、全てを諦めるさまを見さえすれば。

 ようやく自分は《あの人》を忘れ、もう一度何かを愛せると思ったのだ。



 しかし、香流の答えは弓鶴の期待を裏切った。






『ならば、なぜ』


『なぜ、そのように私を見るのです』


『そのような、『何者にも望みをかけぬ』というような凍てついた目で、まだ私を見ていなさるのです』



 娘の澄んだ目は、弓鶴の偽りを許さなかった。


 本当は、《あの人》への想いを捨て去る気などない。

 例え今ある《あの人》への想いが怨嗟えんさの炎だとしても、《あの人》は死んでしまったのだとしても。

 弓鶴は《あの人》への気持ちを捨てられない。

 《あの人》を忘れ、《あの人》以外を愛することなど認めないと頑なに思っていたことを、看破された気がした。

 勿論、香流は弓鶴の過去など知るよしもない。

 だがあの目は確かに、弓鶴のどうしようもない執着を見破っていた。



『私はあなた方に信頼してもらえる『いつか』なんて待つつもりはないのです。 もう、遠のくあなた達を待つつもりはないのです』



 ずっと。

 ずっと、まだ見ぬ誰かと共に、比翼の鳥のような番でありたいと夢見ていた。

 寄り添う片翼の鳥たちのように、信を寄せ合って生きることができればいいと、いとけない娘心に願っていた。


 そのためには、待つことが正しいのだと。


 信頼は求めるものではない。

 信じてほしい人に信じてもらうために、ただ待つことが正しいのだと思い続けていた弓鶴に、香流は言った。

 私は待つつもりはない。

 あなたと私は違うのだとでも言うように、そう断じた。


 香流の答えを聞いた瞬間。

 弓鶴は己の目の奥を、火炎が焼いたのを感じた。



 

 苦しい。 ――――苦しい、苦しい、苦しい。



 ――――狂おしい!!






 どうして……っ


 




 気が付くと手は娘を払いのけ、その目元を抉って拒絶していた。

 香流を追い払ったあとの、がらんとした部屋。

 そこにうずくまった弓鶴ののどを、荒れ狂う激しい慟哭が貫いた。

 お前は決して逃げられないのだと、何かが腹の奥底で弓鶴をせせら笑った気がした。


 《あの人》を想う心を、殺せない。

 想うあまり、《あの人》が残した()()()に苦しみ、恨む心も殺せない。

 殺せぬなら、もう自分は誰も愛することはできない。

 我が身と同じと慈しもうと思った娘も、遠い昔に見捨てた、あの人に生き写しの息子も。


 愛することなどできはしない。






 母上、と。

 亡くしてしまった懐かしい声が聞こえた気がした。

 それは、一年と少し前に看取った、唯一手放さなかった長男の声だった。


『母上。 私は、ただあなたが泣くから、今日まで生きておりました』


 今際いまわきわ

 前代右治代当主を務めていた息子は、虫の息の中、弓鶴に言った。


『私には…… 病のために外など見てこなかった私には、人々のためなどと義に立つ心などなかった。 美弥の民のために生きる気など毛頭なかった。 だから、明命あれを野放しにし、あまつさえ手を貸して生きてきた』


 唯一、自分にとって大切な母を守るため。

 弓鶴が望む世界を壊さぬために、明命の悪事に手を貸して生きていたと、弓鶴によく似た顔は笑った。


『ただ、あなただけを心残りに、罪を重ねて生きて参りました』


 美弥狩司衆守護家当主として、人々を守るべき立場の人間が、『民を裏切る行い』に手を染めてきた。

 守護家の立場を利用して、明命の悪事を隠匿する手助けをしてきた。

 おかげで、十余年という長きにわたり、美弥の闇は他国から隠され続けた。


『私が死ねば、あれはあの子を後釜にえるでしょう』


 中央からの干渉を妨げるためのき止め役として、次子の銀正を次期当主にえるだろう。

 病によって青白くなった顔。

 それでも目だけは煌々と光り、息子は弓鶴に問うた。


『母上は、それでいいのですか?』


 あまりに父親に似すぎているために、一度は手放した次子。

 その子さえもこの闇に巻き込んで、あなたは構わないのか。


『あなたの本当に欲しかったものは…… 欲しかったものをくれる人は、もういない』


『もう、居ないのですよ』


『心を過去に捨て置いたまま生きても、』


『あなたは、後悔しませんか?』



 心の波間を乱す記憶に、急速に意識が引き戻される。

 それ以上は聞くにえないと、思い出にふたをする。

 しかし心は千々に引き千切れて戻ることはなく、弓鶴は顔を覆った。

 もう、何もかも戻らない。

 戻れない。

 戻ることなどできはしない。


 なのに、それでもいいのか、など。

 あなたの求めるものはなんなのか、などと。


 この擦り切れてしまった心を乱すことばかりを言うことはやめてくれ。

 恨んでも、恨んでも、恨み切れぬまま。

 それでも愛しい《あの人》の元から動くことをやめてしまった心を、動かそうとしないでくれ。

 妾は、

 私は、






 わたしは、



「弓鶴」



 まとわりつくような声が、正面から吹き付けられる。

 いつの間にか近寄っていた明命が、愛おしげに弓鶴の肩を抱いて引き寄せる。

 悲しみに力を失った体は、抵抗もなく明命の手の中に落ちた。


「弓鶴、憐れな弓鶴。 また、心を乱しておったのか」


 か細い体を腕に、明命は撫でさするような声音で言う。


「また思い出したていたな? お前を一人右治代の広い屋敷に捨て置き、かえりみることのなかった《あの男》のことを」


 つうと涙を流す弓鶴の頬を袖口で撫で、心からの憐憫を溶かしたような声で言う。


「まだ忘れえぬのだな、憐れな弓鶴」


 いいよ、それでいい。

 弓鶴のあり様を肯定するように、声はねっとりと弓鶴の耳に注ぎ込まれる。


「忘れなくていい、好きなだけ過去に生きて居ればいい。 其方そなたが望むあり様、わしが守ろう。 其方のことを、誰にも否定させぬよ」


 わしが守ってやるから。

 だから。


「可愛い弓鶴、『あの娘』をここへ連れておいで」


 お前の心を乱したあの娘。

 わしのところへ連れておいで。


「そうすれば綺麗さっぱり、お前の憂いを消してあげよう。 お前の心を乱したあの娘を、消してあげよう」


 お前の心の安寧のために。

 なぁ、可愛い弓鶴。





「あの娘が、()()()()





 声は命じる。

 弓鶴はそれを聴きながら、そっと目を閉じた。

 苦しみだけの記憶も思い出も、何もかもすべて。

 全てを遠ざけるため、目を閉じたのだった。



 一人、闇に閉じていくのだった。

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