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比翼の花嫁  作者: 壺天
30/79

二十四

 狩司衆における掟の中には、いくつかの禁がある。

 その中でも特に強く禁じられている三つの掟を《三禁則》と呼び、狩司衆に属する狩士はこれを厳しく守ることを叩き込まれる。



 一つ、狩人文字を狩士以外には他言してはならない。

 一つ、甲種の狩りにおいて、比肩のないものは戦闘に参加してはならない。






 ―――― 一つ、真人の、比肩の贄となることを禁ず。






「比肩の贄。 狩司衆における禁則の最たるもの。 練霞を発現できる真人に至った狩士だけがとれる、最後の手段」


 里の教義で幼少より教え込まれてきた言葉をそらんじながら、香流は背を正す。

 それは、会得したとしても決して使うなと、取ることを許されない手段。




「通常、飢神は練の気を宿す体を捕食対象とする。 そのとして最上級の肉は、練霞を発現させることができる真人の肉体」


 だが、これには例外が一つだけある。


「仙果とも見なされる、真人の練(あふ)れる肉体。 しかし、それ以上に飢神を惑わす至上の華が、この世には存在する」




「それこそが、練華」




《練華》。

 それは、剣技という、練を瞬間的に高める行為に特化している武人――――つまり狩士のみが発現させることができる、《赤い練霞》のこと。

 狩士がこの上ない集中でもって練り上げた練を肉体の一部に宿したとき、練霞は高密度になるがゆえに、彼岸花のような赤を咲かせる。


 花が咲くのは必ず、刀を握る利き腕。


 その燃え盛る妖華のような様相から、これこそを練の華。

 《練華》と人は呼ぶ。


「一度食らえば全ての飢神が陶酔に落ちると言う真人の肉体。 それに対して、食らえば毒のように中枢を犯し、飢神に桃源の世を幻視させるという練華」


 食おうと思えば、叶わぬことはない真人の肉に対して、練華は飢神にとって、決してありつくこと叶わぬと言っても過言ではない、幻の獲物。

 

 なぜか。

 

 それは、『練華が狩士の意思によってしか顕現しない』という条件が存在するからである。


「狩士が練華を発現させるのは、飢神を狩り取る渾身の一刀を繰り出すときと、もう一つ」




「比肩の贄として、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()





 比肩の贄とはつまり、窮地に陥った狩士が己の仲間を、比肩を守るために取る、贄の役のこと。



「練華を纏う己を贄に、飢神から仲間の命を守る手段のこと」



「……代償の大きいそれは、狩士として、決して手を出すなと教えられる行いのはずだ」



 厳しい目で言葉を引き取る銀正に、香流は重々しく頷く。

 真人となった狩士は、狩司衆にとって貴重だ。

 その戦力を失うことは余程の痛手であるし、練華を飢神に食わすことは、《《ある厄介を生む》》ことにもなる。

 甘美な毒のように飢神を魅了する練華だが、それを捕食した飢神の力を大幅に増強させる効果があるのだ。

 そのため、例え仲間を救うためでも、決してするなと禁じられるのが比肩の贄。

 禁忌の行いなのである。



「董慶様は、あなた様の申し出を断った時に、『資格がない』とおっしゃったと言われましたね」



 禁忌を犯した者に課せられる代償は、肉体の喪失だけではない。




「練華は、肉体に宿る全ての練を集め上げてほころぶ花」


「練華を喰われれば、その狩士は、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()


「狩士としての、武の記憶を失ってしまう」




 そのため、贄となったものは、生き永らえたとしても悪くすれば廃人。

 意識を保っていても、以前のように刀は振るえなくなってしまう。


「それは董慶様も例外ではなかった。 あの方は贄で利き腕を失い、練を失い、一度は死の淵をさ迷われた」


 あの人は、狩士としての資格を一度失った。

 だから、弟子を取る資格がない。

 董慶はそう言ったのだ。


「しかし、あの人は生き残った。 そして強靭な魂でもって、意識すら冥界から呼び戻した」


 そして長い人生二度目の鍛錬ののち、狩士としても舞い戻ってきた。


「あの方は、長きに渡る狩士の歴史においても、類を見ない復活を成し遂げられたのです」


 言い終える頃。

 銀正は言葉を失って立ち尽くしていた。

 比肩の贄は、ほぼ死と同義の捨て身の手。

 それを行う者も、それから生き永らえる者も、全くいないと言っても過言ではない禁忌。

 だが、あの方は。

 自らが師事したあの人は、それを成し遂げ、あまつさえ武を再びその手に宿した?


「そんな、」


 愕然と呟く様子に、香流は寂しく笑う。

 そうして、何よりも大切なものを抱くように、片手を胸に押し当てた。


「あの方は見事、己の比肩を守り通しました」


 練華を食らうことは、飢神にとって、利点ばかりではない。

 練華を食らった飢神は増幅した力を得る代償に、肉体の変革のため、一定期間まともに戦うことができずに無防備になる。

 そのため、贄を喰った飢神は本能的にすぐさま安息の地を求めて戦線を離脱するのだ。

 『仲間を救うための贄』と言われる所以ゆえんはここにある。


 当時、董慶と縁を交わしていた比肩は、確かに生き永らえた。

 董慶は息を吹き返した時、いの一番にそれを人にただし、そうして笑ったらしい。

 『そうか、あの人は、生きていてくれたか』と。


「確かに比肩の贄は、飢神に力を与える禁忌。 しかし、あの方は、己が守るべきものを決して見失わず、意志を貫き通した」


 後々のことを思えば、比肩の贄を行うことは、冷静な判断を求められる狩士として甘いともいえるだろう。

 だが、と香流は思う。


「何かを守るため、即断の内に己を差し出せる人を、愚かと断じることだけが、道理でしょうか?」


「……武人としてなら、道理だ」


 苦悩と共に断じる銀正。

 その答えを、香流はひどく嬉しげに聞いていた。


「そう答えることができるあなたは、立派な狩士の資格がある人だ」


 人情と冷徹の合間に、無垢の心をさらけ出せる。

 苦悩しながらも最善を見据える心眼を持つ人。

 存外、情に溺れることも、心を忘れたかのように冷酷に己を偽ることも、容易たやすいことだ。

 しかしそれを良しとせず、揺れ動く己の情も、打算的に判断を下す怜悧な思考も、共に持ち続ける。

 それこそが狩士の道。

 人たり、武人たる、道をゆく者。


「あの方の目は、狂いがなかったようだ」


 だったら、あなたの心も、


「あの方の選択を、愚かとは断じますまい」


 武人であって、人であることを忘れていない、狩士である、あなたなら。




「董慶様は…… あの方は、何かを守るために、己を差し出すこともいとわぬ覚悟がおありになる方だった」


「それが命失うであろう行いでも」


「だから、御当主」


「きっとあなたを守ったのも、あの方の確固たる意志だった」


 あなたを守ることを、あの人は、確かな心で選んだはずだ。














「……そんな顔をなさりますな、御当主」


 しばらくの沈黙。

 その後に、香流はそっと首を傾げた。

 

 白い頬。

 そこに滲んだ赤に、一つの雫が流れて行く。

 二つはやんわりと混じりあって、線引くように落ち行く。

 形の良い頬の上を撫でるその粒をじいと見つめて、立ち尽くす男が、凍り付かせていた何かを瓦解させていく様を、香流は静かに見守っていた。

 そうして、ついに虚ろに濁っていた瞳に光を小さく宿した銀正に、安堵の笑みで背を向けた。

 数歩の距離をとった香流は、手にたずさえていた長い包みの紐を解き、()()を取り出した。

 それの切っ先を無造作につかみ、振り返り様、銀正へと持ち手を差しだす。


「どうぞ」


 言葉と共に向けられたそれに、銀正は戸惑い、思わず手を伸ばした。

 それは、よく使いこまれた様子の木刀だった。


「昨晩、苑枝殿に用意していただいたのです。 あなた様と出掛けるのに持っていきたいと申せば、快く貸し出してくださいました」


 その代わり、私のハタキは取り上げられたままですが。

 ため息交じりにそう笑えば、銀正は一層戸惑いを深くする。

 訳が分からぬというように手の中の木刀に目を落として、目の前の女とそれを見比べた。


「なぜ、こんなものを……」


「おや、私が持つのと合わせて二振り。 それを持つ者が一人ずつ」


 となれば、やることなど決まっているでしょう、と眉を動かせば、銀正は呆気にとられて小さく口を開いた。

 香流はしかるべき間合いを取ると、迷いのない所作で木刀を構えた。


「!」


 その佇まいは銀正の勘を刺激し、一瞬で全身に武人の気配を呼び寄せる。


「構えなされよ、御当主」


 晴れ行く朝霧を纏い、香流は凛と告げる。

 銀正の武人としての感覚が、構えろと体に命じる。


「あなたは、武の心得があるのか……?」


「私の里は、狩士の里。 我が里では、狩士とならぬ娘でも幼少より武術の手解きを受けます」


 だから心配ご無用、と肩を竦め、香流は銀正をさらに促した。

 それに怪訝な表情を浮かべながらも、男は音もなく木刀を構え、重心を整える。

 綻びを見せる口元をそっと開き、香流は息を吐いた。

 そして嫣然と笑う。

 ただ、この時を夢見ていたと、満ち足りて微笑む。



「あなた様の太刀筋、見極めさせていただく」





 呼吸だけが。

 鼓動だけが落ちる、静謐。

 その波長が、重なりを得た、一瞬だった。





「「!」」





 鏡合わせのように全く等しく、二者は踏み込む。

 片や、上段。

 片や、下段。

 共に繰り出された一撃が、正中にて食らい合う。

 重いのは、銀正の一刀。

 しかし、それを香流は読んでいる。

 弾き返された力を弾みに、鋭く身を翻して二撃目を死角へ叩き込む。

 空切る一閃。

 銀正は直前でそれを受け止める。

 間髪入れずに押し返せば、香流は身軽な動きで背後へと飛び退すさった。

 距離ができた。

 だが、息つく暇は、許されない。

 素早い動きで再び距離を詰めた香流が、しなやかに一刀繰り出す。

 銀正はまたしても受け身に徹する。

 女の太刀筋は決して迷いがない。

 柔らかな全身を使い、男より多少軽くはあるが、容赦のない一撃を放ってくる。


 銀正は、目を瞠っていた。

 そして、思考の端で、冷静に判断を下していた。

 駄目だ。

 これは、気を緩めてはいけない。

 このままでは押し切られる。


 つうと、男の背を汗が伝う。


 体は切り返せと叫び、その一瞬を無意識に探す。


 だが、わずかに残る戸惑いが、己を追い詰める娘を害すなと首を振っていた。





 切れ、


「(駄目だ)」


 打ち返せ、


「(無理だ)」


 このまま無様を晒すのか、


「(できるわけがないっ)」


 貴様それでも狩士たる者か!


「(この人は、飢神ではない!)」




 ――――この人はっ





「集中なされよッ、御当主!」





 膠着する思考を、その声は打ち払った。

 はっと見開いた視界の先に、声は叫ぶ。


「手心などと、無粋をなさいますな! これは、あなたを知るための勝負っ」


 鮮烈な光が、銀正の眼を刺し貫く。

 臆病に走る心を、打ち震えさせる。

 渾身の一刀と見受けられる構えを取り、女は――――香流は叱声しっせいにて断じた。


「五年に渡る董慶様の教えの結実が、その程度ですか!?」


「!」




 紫電、一閃。


 激しく繰り出され、しかと交じりあった対の斬撃。

 それは朝の静寂を切り裂き、刹那の内に勝敗を決した。

 巻き上がる風の如く、香流の木刀を弾き飛ばした銀正。

 空に舞ったそれはくるくると舞い、香流の背後へと軽妙な音を立てて落下した。

 迷いなき太刀筋は美しい線を描き、そうしてぶれることなく得物を失った香流の喉元へ切っ先を突き付ける。

 残心に、身を置く体。

 再び落ちた静寂に、朝の気配があふれ出した。

 目覚めの気配が、満ち溢れた。




「お見事」




 急所を捉えられたまま、その喉は小さく笑った。

 わずかであるが、肩で息をする銀正。

 余裕を削いだ様子なのを至極嬉しげに眺め、香流は目を細めた。

 そして、破顔する。

 今まで見せたことがないほどあどけない顔で、喜びを極彩色に表した。



「あなたの刀は、美しいな」



 いつか見た、あの方と同じように。

 まるで、あの方が残していったかのように。 



「とても、とても、美しいな」



 見つめ合う琥珀の目が、瞠目する。

 その綺麗な色の中に、自分が笑っているのを、香流は見つける。

 やっと叶ったと、万感込めて笑っている。


「私は、あなたの存在を知った日から、あなたの太刀筋をただ見てみたいと願っていた」


 慕い続けたあの方が選んだあなたの刀を、その美しさを、知りたかった。

 それが、やっと思い遂げられた。


「あの方が、あなたを選ばれたのは、間違いではなかった」


 あなたは確かに、芯の美しい人だ。

 突き付けられた切っ先が揺らぐ。

 ゆっくりと引いていく木刀を視界に収めながら、香流はそれを見ていた。

 その人を。

 呆けたように力を抜いて構えを解く、銀正を見つめていた。

 そして、記憶を呼び覚ますように瞼を閉じ、それを言葉にした。





「御当主。 あなた様は、董慶様の《あの言葉》の真意を、存じていらっしゃいますか?」


「『何があっても、飢神から目を離すな。 確実に狩り取るまで目を背けるな』」


「その真意を、聞いたことがありますか?」





「しん、い?」


 呆けたまま繰り返す銀正に、香流は頷く。


「あなた様も心当たりはあるかもしれませんが、狩士を志願する若手の中には、命に代えても職務を全うしようと生き急ぐ者もあります」


 狩士が狩司衆に入る経緯は、家柄だけではない。

 飢神は練を狙うという性質から、練がよく溜まっている大人を好んで狙う。

 そのため孤児となった者が嘉元国には多く、狩司衆はこういった子供を次世代の狩士として引き受けることも少なくなかった。

 親を殺された子供は飢神を憎み、その命に代えても狩りつくしてやると思い余ってしまうことも多い。


「あの方は、あの言葉を、誰にでも言っていたわけではありません。 あの方はそういった思い余りやすい狩士たちに、殊の外それを言い含めていたのです」


 いつかの日に、里の狩士が教えてくれたこと。




『姫様、』


()()にはね、裏の意味があるのです。 董慶殿があの言葉に込めた()()は、』


『死に急ぎやすい若者が、己の命を粗末に扱うことがないよう。 簡単に死を選ばぬよう』


『何があっても、飢神から目を離すな。 確実に狩り取るまで目を背けるな』


()()()()


『生きることを諦めるな』


『その命の最期まで、生をまっとうするために』






「決して死して帰るな。 必ず生きて戻れ」


「生きろ」


 生きろ、どうか、それを、私は望む――――と。






 琥珀が、一際大きく見開かれる。

 そこにある鮮明な驚きを優しく見つめ、香流はそっと一歩を踏み出した。


「……あなた様が生き永らえたことを、きっとあの方は喜んでいらっしゃいます」


 この言葉を、残していかれたのなら、きっと。

 だから。

 そう続けた途端。

 銀正は木刀を取り落して、小さく震えながら顔を覆った。

 その弱弱しい肩に手を伸ばす。

 儚く揺れる武骨な線をそっと撫で、香流は呼んだ。


「銀正殿」


 ゆっくりと震える体を引き寄せ、少し高い位置にある白銀の頭を、肩口で抱きとめた。


「亡くした人を偲ぶことは、決していけないことではありません。 ですが、故人への悔いの為に、限りある時と感情を無闇に犠牲にすることはないと、私は思います」


 董慶様も、きっと、そんなことは望まれない。

 それに、


「貴方は優しい。 その優しさが流す涙、それだけでいいんです。 董慶さまを弔うには、それだけで十分だ」


「罰を得ようなどと、いびつに己を苦境におとしめ、誰にとなく負い目を感じて生きることはないのです。 銀正殿、私は、」


「貴方が、御自分を許すことを望みたい」


 負い目だけに囚われて、息を殺して生きることを、罰のように己に課さないでほしいと。


「あなたが生きるを苦にしているのなら、どうかそれを許してやってほしいと、思います」


 だって、


「あなたの心が損なわれてゆくのを、黙ってみているなんて、できませんよ」





 そっと、香流は道の先を見据えた。

 そびえる山門の向こう。

 東の空に、天の灯が差す。

 夜が明ける。

 朝が昇る。

 また、一日が始まる。

 けれど、それは昨日までとは違う朝。

 

 どうか、照らしてほしい。

 この人のくらい悔恨の淵を、どうかとまばゆい光に祈る。


 日は、誰にでも等しくと答えるように光を放つ。

 その様に、誰にでも等しく優しく、美しく生きた彼の人を思い描き、香流は目を細めた。

 朝の訪れを、ただ、静かに迎え入れていた。

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