二十
騒乱より、一転。
飢神を狩りつくしたことで、事態は沈静化を果たした。
事の収束を図らねばならなくなった狩司衆は上へ下への大騒動だった。
逃げた町人の誘導と、飢神の弔い、祭り続行の判断をするための話し合いまで。
山ほど降り積もる仕事に、全員が駆り出される始末であった。
ただ、幸いなことに、この騒動で死人がでることはなかった。
そのため、祭事を優先せよと言う国主の一声で祭りは夕暮れより再開される運びとなり、町は復旧に大わらわとなる。
忙殺される狩司衆を見ていられなかった香流は、彼らを手伝って町の整理に当たることになった。
報告のために城に向かった銀正には、早く帰るようきつく言われていたが、香流自身がそれをよしとしなかったのだ。
結局阿由利も手伝うと言い張ったので、二人で狩士たちの仕事を手助けし、のちに夕暮れ。
ようやく城下が落ち着きを取り戻した頃、その男が香流のもとにやってきた。
使いだという男は慇懃に香流に頭を下げ、そして言った。
『右治代家、弓鶴の方様がお呼びです。 どうぞ、お付き合いください』と。
*
通されたのは、その料亭でも最上らしき部屋だった。
揺れる火が照らす室内から、その人は紫紺に変わりゆく夕空を眺めている。
案内してきた男が襖を閉めて出て行くと、弓鶴の方はゆったりと振り返って微笑んだ。
「災難な一日だったのぅ、香流」
「弓鶴様」
袖口で口元を隠し、弓鶴の方がフフッと笑う。
香流は「城に招かれておられたのでは……」と訊ね、入り口近くに腰を下ろした。
「なに、祭りの見物に出てきたのよ」
それで騒動の渦中にお前を見かけたから呼んだのだと、佳人は事も無げに言う。
「国主様と…… ある高名な法師様も、其方を見ておられたそうだよ」
「それは……」
「大層勇ましい女子だと驚いておられた。 我が家の嫁だと言えば、またぜひ会いたいとお声をいただいた」
「……勿体ないことです」
恐縮して頭を下げれば、弓鶴の方は戯れるように香流の方へ扇を扇いだ。
随分蒸せるなぁと外を眺めながら流れる髪が、宵闇に溶けるよう。
夜に広がるようなその姿を見つめていると、ふいに「のう」と声をかけられた。
「あれは、其方を守れるほどの男ではない。 そうは思わぬかえ?」
唐突な問いかけだった。
一瞬意味を掴み損ね、香流は戸惑う。
しかし、その後には『あれ』というのが彼女の息子―――――銀正を指しているのだと気が付いて、香流は眉を顰めた。
「あれとは、御当主のことですか?」
「ほかに誰がある。 面白い子よな」
くくっと笑う声が、静寂に響き渡る。
香流は目を伏した。
まただ、と思った。
以前も同じ。
この人は自分の息子を『あれ』と、ぞんざいに呼ばわる。
子である存在を、虫けらでも見るように無感情に扱う。
その無機質さが銀正を貶めるようで、香流は意図せず手のひらを握りしめていた。
「なぜ、そのようにお思いに?」
己を押さえつけて訊けば、弓鶴の方はぐにゃと目元を歪めて言った。
あれは、結局いつも、お前を苦境に晒すではないかと。
「苦境? 屋敷でのお役目のことですか?」
それならあの人に責はないと答えようとすると、弓鶴の方はついと目を細めて否定の気配を放つ。
「それだけではない。 昼の騒動のこともよ」
「……どういうことでしょう。 今日のことを仰っておられるなら、私が飢神に行き会うたのは、偶然です」
それに、あの人は香流の危機を救ってくれた。
感謝こそすれ、責める理由など一つもないはずだ。
しかし弓鶴の方は、香流の反論を憐れげに聞き流した。
「何も知らぬとは、可愛らしいこと」
そう、不穏な言葉を吐き出して。
「何も知らぬとは、どういうことですか? 今日の騒動に、何かがあるのですか?」
問い詰める香流に、白い顔は笑みを貼り付けて首をかしげる。
「あると言えば、其方どうする?」
人を喰ったような物言いだ。
しかし、そこに香流は何かを嗅ぎ取った。
昼間、あの騒動の最中、胸に宿った違和感が肥大する。
なぜだと、市中に現れた飢神の群れに疑問が湧き上がったのが、思い起こされる。
ぐいと顎を引いて、香流は弓鶴の方を見据えた。
「……おかしいとは、思うておりました。 この美弥は近年ほとんど飢神による被害を出していない、平和な国だと聞いています」
昼に阿由利が教えてくれた、美弥の平穏。
今日知り合った狩士によれば、ここは飢神と直接やりあう狩司衆ですら、大きな損害を出さないほど安定している国だという。
身内の間者の話でも、そもそも近隣において、異形の影自体少ないはず。
それなのに、だ。
あの飢神たちは、なんの前触れもなく美弥市中のど真ん中に現れた。
まるで、いきなり降って湧いたかのように。
それがあまりにも、奇怪なのだ。
「丙種ならともかく、乙種が接近していれば、近くの狩司衆から伝鳥が飛ばされてもおかしくありません。 ですが後から狩司衆に確認を取ると、そんな知らせはないという」
事態の奇妙さに、当の狩士ですら、首を捻っていたほどだ。
誰も気づかず、誰にも見られず。
飢神はどうやって美弥に潜り込んだのか。
その一端を、目の前のこの人は知っているのか。
香流は眼差しを鋭くして夜に身を溶かす女人を見据えた。
「弓鶴様、何事かを知っているなら、教えてください。 あの騒動、裏に何があるのですか?」
瞬間、弓鶴の方の目は、蜘蛛の糸にかかった蝶を見るように香流を眺めた。
そしてうくくと笑いを忍ばせ、扇を弄んで首を振る。
「知らん。 妾はなぁんにも知らぬよ、愛い子」
だが。
「そうよな…… お前の番。 あの忌み子なら、何か知っているやもなぁ」
「!?」
「おやおや、心当たりがあるようじゃ」
可愛いらしい。
弓鶴の目が愉悦に染まる。
握りこんだ手が、汗をかく。
嫌なつっかえが喉を塞ぐような気がして、香流は生唾を飲んだ。
考えるなと、何かが囁くのに、思考が記憶を引き寄せる。
祭りの朝、決して家を出るなと香流に言った、銀正。
騒動の直後、苦しげな顔が『忠告したのに』と語っていたこと。
多くを語ることをしない、あの人。
「……御当主なら、何事かを知っているとおっしゃるのですか」
目を眇めて返せば、弓鶴の方は「さぁて?」と香流を煙に巻く。
そして心底愉快そうに囁いた。
あれは、お前が信じるに足る男ではないよ、と。
ひどく楽しげな弓鶴の方の姿がぼやける。
じんわりと項を触られるような怖気に、背が泡立つ。
汗がにじむ手を広げると、弓鶴の方はにんまりとそれを見た。
「のう、香流? 『比翼の鳥』と言うものを知っているかえ」
またしても唐突に話を変える声に、香流は嫌な震えを抑えながら顔を上げる。
「……比翼の、鳥?」
「異国の伝説だ。 それらは雌雄で一羽ずつが片翼しか持たぬ、個では飛べない、憐れな生き物だそうだ」
弓鶴の方は扇を揺らめかせて語る。
それは、一体では飛ぶことの叶わぬ鳥。
番が共にあり、そうして初めて飛ぶことができる鳥。
決して独りでは生きてはいけぬ鳥。
「のう、愛い子」
視界が揺らぐ。
近づいてくる、目前の人の歪んだ口紅だけが、鮮明に映る。
すぐそこに座りこんだ弓鶴の方の赤が、香流に呪いを吹きかける。
「夫婦というものは、その鳥のように互いが信を寄せ合い、共にあろうと手を取り合うものだ。 そうは思わぬか?」
「……私は、」
「だがあれは其方と距離を取ることを望み、其方の苦境を先んじて取り除くこともせず、その身をいつまでも許嫁という曖昧なものに捨て置く」
「いえ、」
「剰え、番である其方に、後ろ暗い隠し事を腹に抱えている」
「いえ、」
「それはあまりにも無情ではないか」
「違います、奥方、」
「何が違う。 何をもってあれを信ずる。 何をもってあれの潔白の証とする? ただ、幾月か前にこの国に来たばかりのお前が」
「それは、」
「のぅ、香流」
絡みつくように優しく囁かれる声に、思考が千々になる。
ゆらゆらと、ゆらめく扇が幾重にも見える。
冷や汗が、止まらない。
ああ、
目前の凍った瞳が、香流に刃先を突き付ける。
「やはり、其方は望まれておらぬ。 番として望まれず、この国に一人きり。 信じるべき男は遠く、番として信を置いていただくこともできず。 其方も、同じ」
どこにも飛び立てない。
刹那、香流は弓鶴の腕を捕らえていた。
「!!?」
細く、荒れたこともないような白魚の手を、握りしめる。
弓鶴は目を見開いて咄嗟に身を引いた。
それを逃さぬようぐいと引き寄せて、香流は、
「一体私に、何をなさっているのですか?」
苦し気に呻いた。
弓鶴は唖然としてその様を見つめる。
しかしゆるゆると平素の笑みを取り戻すと、
「ふふ、気づいたのかえ。 聡い子」
と、掴まれた手に握っていた扇を手放した。
その行く先を確かめ、香流は喘ぎながら弓鶴を見据えた。
「広縁から声をかけられた一度目に、おかしいとは思っておりました。 二度はありません。 その扇、何か細工がありますね?」
足元に落ちた扇を指して問えば、ほほほという笑いと共に種明かしをされる。
「なに、渡来の技と言うものよ。 少しばかり情に作用して、嗅いだものを恐怖や疑心に囚われるようにする粉を纏わせてある。 城にいらっしゃる法師様にいただいたのよ」
「それはもしや、『明命様』という方ですか?」
「なんだ、知っておったのか? そうだ、あの方とは懇意にしておってのう」
手の内を見破られたというのに、弓鶴は気に留めた風もない。
香流は扇を部屋の隅に蹴り飛ばし、握っていた手を離した。
「弓鶴様。 そのような怪しげな技を使ってまで私を揺さぶろうとなさるのはなぜですか? 私が気に入らないからですか?」
私が、
「あなた様と同じ、他国から来た嫁だからですか」
視界が、まだ揺れている。
いつもだと、思った。
この人はいつも笑っていて、人に真意を悟らせない。
何事かの意図をその身の内に隠しているはずなのに、どうでもいいことだけは種明かしして、一番深い場所は決して触らせない。
だから、香流には分からない。
この人が自分を翻弄する理由も、己の息子との間に蟠りを作ろうとする理由も。
そして。
あの人も同じだと、思った。
あの人が狩司衆で立っている現状も。
今日祭りに来るなと言った理由も。
きっとあの人の一番深いところに、香流は触れることを許されていない。
親子共々、大切なことを隠して、香流を遠ざける。
「(私は、まだ、あなた方の『何か』に、近づくことすらできない)」
届かないものを探して惑うように、香流は立ち尽くす。
そんな香流をじっと見つめ、弓鶴はそっと手を伸ばしてきた。
「ふふ、つまらん噂でも耳にしたのかえ?」
「……そうですね、ただの噂です。 話に持ち出すほどのものではありませんでした」
「よい。 どうせ、真の話よ」
柔い手が頬を撫で、香流を上向かせる。
弓鶴は視線を合わせると、「それを耳にして其方、何を思った」と囁いた。
「私は、」
「妾を憐れと、心痛めてくれたのかえ?」
「っ、」
「優しい子よなぁ、其方。 妾にすら慈悲をくれるのかえ?」
痛みが、胸を裂く。
それは憐れみかと、詰られたような気がした。
しかし、そんな香流を置き去りに、弓鶴は纏わりつくような声で続ける。
「そうか、なら、憐れんでおくれ。 夫に先立たれ、里も遠く、未だこの国に一人きりの我が身。 其方の慈悲で、愛おしんでおくれ」
長く黒い髪が、香流の肩口に流れる。
しな垂れる様に弓鶴は香流を抱きしめて、再び呪いを吹き付ける。
「憐れなこの身。 嫁に来た、遠き昔と同じ。 この国に馴染めず、一人きり」
「誰も真には心をくれるものなく、一人きり」
「なぁ、香流」
「この孤独、分かってくれるのは其方だけだ」
「妾と同じ身の上である、其方だけ」
「だから、のう、香流。 このぽっかりと空いた虚ろ、其方が埋めておくれ……?」
「妾と同じだと、言うておくれ」
飛べぬ鳥だと、言うておくれ。
「それを言えば、あなた様の心は温もりを得ますか」
声に、身を委ねていた女は瞠目した。
伸びてきた手が、女の細い肩を、打掛の上から掴む。
引きはがされる体。
挑むような目が、女を見て言った。
「私があなたと同じだと、憐れな身の上だと認めれば、あなたのその冷えた目は癒えますか?」
歪みない眼差しに、弓鶴の方は虚を突かれたように唇を震わせた。
「何、を、申す、其方」
「ただ、お聞きしたいだけです。 あなた様が真に望むもの。 その目の奥底の、狂ったような炎があなた様を苛んでなお、求めるものがなんなのか」
燃える、燃える。
燃えている。
奥底で、弓鶴の心が燃えている。
たどり着く当てが。
叶う当てがないと、叫び狂い、燃えている。
ただ燃えていることしか…… その願う形が分からない香流は、苦汁を舐めるように問いかけた。
「それは確かに、この憐れな小娘の言葉ですか? この国にやってきてたった数月しか経たぬ、縁も所縁もない女の同情ですか?」
「……そうだ」
ならば。
「ならば、なぜ」
あなたは、
「なぜ、そのように私を見るのです」
弓鶴の自身の身を焦がす痛みを写し取ったような顔が、弓鶴を追い詰める。
「そのような、何者にも望みをかけぬというような凍てついた目で、まだ私を見ていなさるのです」
「!」
冷えたままの口元が、言葉を失って閉ざされる。
炎が揺らぐ。
冷水を浴びせられたように、火炎の勢いが弱まる。
その一瞬を許さぬように、香流は切り込んだ。
「弓鶴様。 私はもう、隠されることも、遠ざけられることも、望みません。 相手を知らないことで…… その無知のために相手を傷つける愚を犯すつもりもないのです」
眼の奥。
白銀の髪が、舞う。
遠い背中に声を飛ばす。
銀正殿。
「あなたが奥底に秘めた、真の望みが叶えられることなく打ち捨てられたままでいることも、望まない」
銀正殿。
「あなたが、何もかもを諦めた目をなさるのを見るのは、見たくない」
銀正殿。
銀正殿。
「あなた様の心も、銀正殿の心も、私は知らない。 あなた方は私に触れることを許さず、私は近づくことすらできない」
どこにいますか。
「ですがもう、私はあなた方に信頼してもらえる『いつか』なんて待つつもりはないのです。 もう、遠のくあなた方を待つつもりはないのです」
どこで、お一人でおられますか。
「銀正殿が何かを隠しているのだとしても、それは私自身で確かめます。 あなた様がくださる切れ端の言葉だけで判じるつもりはありません」
お傍に行きます。
「私は知りたい。 あなた方が誰にも明け渡せないものを知りたい」
もう、どこにも行かせません。 私は、
「もう、どこにも逃しません。 私は、あなた方を捕まえる」
あなたの隣に立つ。
「教えてください、弓鶴様」
教えてほしい、銀正殿。
「あなたは、何を求めているのです」
あなたは、何に一人、向き合っておられるのですか。
銀正殿。
「だまれ、」
震える声が、拒絶を叫ぶ。
「だまれ…… だまれ、だまれ、黙れ!」
火炎が、近づくことを拒んで燃え盛る。
怒りを糧に、猛り狂う。
「黙れや香流! 何も…… 何も知らない小娘がッ」
髪を振り乱して激怒する弓鶴に、香流はそれでも食らいつく。
「知らないから、教えてほしいのです! 知ることで何かを損ねることも…… あなたを傷つけるかもしれぬとしても、その咎を負う覚悟もできています。 弓鶴様、どうか、」
私に許しを。
「来るな!」
振り払われた指先の爪が、香流の目元を深く抉る。
赤い血が散り、香流は弓鶴を掴んでいた手を離した。
「っ、」
傷口を押さえ、片目だけで弓鶴を追った。
しかし、伸ばした手をかいくぐって、弓鶴は遠のく。
香流に許しを与えず、遠のいてく。
「誰にも…… 誰にも、この心は許さぬ。 この心、この傷は、あの方以外に癒せはせぬ!」
血の滲むような叫びをあげて、凍り付いていく。
「あの方以外…… あの方だけが……」
「あの方だけが、私の比翼……!!」
「弓、つる、さ」
どうか、話を。
伸ばした手は、払われる。
その指先を、炎が焼く。
弓鶴の目は、もう憎しみでしか、香流を見ていなかった。
「去れ! 疾く去れ!」
「これ以上、妾の機嫌を損ねぬうちに、早よう立ち去れ!!」
その身を燃やし尽くして、全てを拒絶していた。




