幕間
美弥国主のおわす城は、その造りに渡来の知恵が存分に盛り込まれているのが特徴だった。
特に謁見の間は太い円柱が立ち並び、高い天井が絢爛豪華な絵を抱いて、入ってきた者を威圧的に迎える。
そして並んだ柱の奥。
御簾で囲われた一段高いところに、この国の主はいた。
「以上をもって、御挨拶とさせていただきたく存じます」
御簾向こうの顔の見えない国主へ、祭りの挨拶と狩司衆行列開始の報告をした銀正は、畳の上に深く額を垂れる。
そしてしばらくののち、
「頭をあげよ、右治代の」
国主ではない声が、姿勢を許す。
それに小さく眉を顰め、銀正は背を正した。
声は、国主と同じく御簾の向こうから聞こえた。
本来そこは、余程の例外でない限り、同席など許されない場所だ。
御簾には、二つの影があった。
中央に座す一つは国主。
もう一つは、上等な帽子と袈裟を纏った、法師らしき者だった。
「話は聞き届けたぞ、右治代よ。 国主様も、この日の祭りを大変楽しみしておられる。 其の方らの行列もだ。 ご期待に恥じぬよう、よう励めよ」
「……勿体ないお言葉です、明命様」
再び下げた頭の下で、銀正は奥歯を噛む。
名前を呼ぶことすら厭わしいあの法師に、諾々と従わねばならない己が、ひどく無様だった。
御簾の向こうであれがどんな顔をしているのかと想像するだけで、腸を引き裂かれるような思いに駆られる。
しかし、自分は耐えねばならない。
己の無力と罪業のために。
それでも最後に手の内に残った、守らねばならないもののために。
あの方への償いのために。
全てがあの日から変わってしまったと、銀正は思う。
幼い頃、寺で何も知らず日々を過ごしていた日々。
あの方に出会い、狩士としての薫陶を受けていた頃。
それが唐突に終わりを迎えた日。
この法師――――明命が自分の前に現れた日から、銀正は何もかもを失い、矜持も心もすべて差し出して、ただ最後の一線を守るために生きていた。
一年前。
急死した兄の後釜として当主に収まれと命じられたときも、この国を守るためだと、すべてを飲みこんだ。
全てを腹の中で殺して、あの法師に飼い殺されることを選んだ。
それがおぞましい犠牲を払う選択だとしても、無力な自分にはそれしか選べないと、あの方が育ててくれた狩士としての尊厳に自ら土を塗った。
その無様を、あの法師の目は、愉悦に満ちて眺めていた。
あの目を、決して銀正は忘れない。
「明命様、この度の祭りは我ら美弥狩司衆の腕の見せ所! どうぞ、存分にお楽しみくださいませ」
「必ずや、お望み通りの務めを果たして見せます!」
「ですからどうか、今後ともこの国を、」
「我らを、飢神の脅威からお守り下さい!」
「明命様!」
「明命様!」
銀正の背後に控えた狩司衆の上格たちが、口々に明命への懇願を口にする。
この法師の力に依存して、己が命のために身も世もなく狂っている。
あの宴の晩に、娘――――香流を弄ぼうと、酒に狂っていたように。
銀正は目を閉じ、心を殺して、その様を遠ざけた。
それでも、ただ自分を見つめる狂喜の目からは逃れられない。
見開いた視界に、御簾向こうの明命の視線を感じる。
その手のうちに繋いだ、虫けらのように他愛ない男の無様を、じいっと眺めている。
「右治代よ」
背後の男たちを無視して、歪み切った喜びが滲む声が、銀正を呼ぶ。
返事の代わりに小さく頭を下げれば、明命はにんまりと口元を歪めた。
「分かっているだろうが、今日の行列は祭りの盛り上がり所だ。 民草にお前たちの力を見せつけておくためにも、必ず段取り通り事を運べ」
「……はい」
「お前たちの力を示すことは、民草の信奉を得るに必須だ。 お前たちにこの国を守りきる力がないと露呈すれば、一気に不信が広がる。 その時は、わしも最後の手を選ばねばならぬ」
「……はい」
「忘れるな。 お前たち、いや、お前の立ち振る舞いに、この国の命運がかかっておるのだということを」
銀正にすべての責があると言うその実、実際にこの国の命運を握っている存在は、加虐の笑みで懇々と告げる。
従順に応じる銀正に、明命の嗜虐心がうぞめくのが分かった。
法師が持つにはあまりにも上等な扇を開き、明命は下卑た声を銀正に吹きかける。
「よう演じろや、右治代よ」
言葉に、目の前が、白く焼けた。
気が狂いそうな苦痛が、激情と共に銀正へ迫りくる。
これまで何度も、何度も。
祈るように願った望みが、耳の奥で己に囁く。
『切れ。 切ってしまえ、あの諸悪の根源を。 そうすれば、全て終わる』
手が、刀に伸びんと指先を震わせる。
しかし、その柄を握る前に、明命は告げた。
「そうだ、忘れていた」
「お主が外からもらった娘」
「いずれ、央の国から迎えたお前の嫁にも、顔を合わせねばなぁ」
身を焼いていた火が、一瞬で覚めた。
白く焼けていた目の奥に、黒の髪が揺れる。
その髪が流れる、美しい背が去来する。
帰らないと断じた、強い瞳が、銀正を見ている。
信じてくれと笑った顔。
香流という、あの娘。
自分の、許嫁。
あの方と同じ言葉をくれた人。
「(だめだ)」
瞬間、冷静な声が銀正の意識を縛った。
駄目だ。
近づかせてはいけない。
あの人を、ここに近づかせてはいけない。
この国の中枢――――美弥の一番暗いところ。
決して、近づかせない。
あの人ばかりは…………今度こそは、守らなければ。
「恐れながら」
無意識のうちに、口が言葉を走らせていた。
突然鋭い声を上げた銀正に、上格たちがびくりと肩を震わせる。
銀正は深く深く額を下げ、すっと息を吸った。
「私の許嫁である娘は決してこの国に馴染まず、家を出ることすら拒んでおります。 自らの出自を鼻にかけ、右治代を……美弥を軽んじる、傲慢な娘です。 きっとお引き合わせしても、明命様を御不快にさせるだけでしょう」
銀正という男は、嘘に馴染まない人間だ。
それでも口は、ただ香流をここから遠ざけるため、淡々と偽りを塗り重ねた。
あの鮮烈な姿を明命から隠すように、黒く塗りつぶした。
「愚かで、価値のない娘です。 いずれ、私の方から破談を申し出るやもしれません」
だから、会う必要などない。
会わせない。
ここには来させない。
言外に、そう断じた。
そんな銀正の偽りをどう思ったのか、明命はじっと黙していたかと思うと、フンと鼻を鳴らした。
「まぁ、よいわ。 どうせ、中央がうるさいのを黙らせるために引き取った娘だ。 家から出て来ぬなら、それに越したことはない」
急速に興味が失せたというような様子で、明命は銀正に下がれと命じた。
本来なら国主が命じるものを、我が物顔で肩代わりする異常。
それにもすでに慣れきっていた銀正は、何も言わずに頭を下げて立ち上がった。
上格たちの横を通り過ぎ、簾で区切られた部屋を出ると、背後でわっと声が上がる。
上格たちが、明命に取り入ろうとする耳障りな声だ。
この国の命運を握るあの法師に縋ろうと、我先に媚を売っているのだ。
すでに美弥狩司衆上層部は、銀正以外、明命の手の内。
銀正の配下であるはずの年嵩の男たちは、誰一人銀正の言葉など聞かない。
味方でもない。
決して誰も頼れない。
背に纏わりつく現実に両の手を握りしめ、銀正は顔を上げた。
すると。
「……母上」
立っている廊下の先に、数日前から城へ招かれていたはずの弓鶴がいた。
弓鶴は、銀正を見ていなかった。
こちらを見てはいるのだ。
だがその目は決して銀正を捉えず、玻璃のように息子を映しているだけ。
「母上」
銀正は再び母を呼ぶ。
しかし、弓鶴は何も答えぬまま、打掛を翻して謁見の間へと入って行ってしまった。
「母上っ」
強く呼ばわっても、その背中が振り向くことはない。
謁見の間を横切った母が、国主の御簾の中へと入りこむ。
国主の正室でもない女が、御簾の内に入る。
弓鶴は明命に傅くと、親し気にその肩へ寄り添った。
そうして睦言を囁くようにその耳へ唇を寄せ、雅やかな笑い声をあげる。
最早、何もかもが狂っていた。
銀正はすべてから目を背け、声を振り切るような速さで廊下を進んだ。
遠のく闇を背で感じながら、ぎゅうと目を瞑った。
そして、思った。
私には、いつか必ず罰が下る、と。
それまでは、必ずこの国を守り通して見せる、と。
だから、どうか。
どうかと、願った。
遠い記憶の彼方。
幼い自分を導いてくれた人に、願っていた。
「(どうか、この国を救う日を。 私を断罪するものを、お導きください。 ――様)」
そして、あの娘を、この国から守ってほしい。
あなたと同じ言葉をくれた、あの真っ直ぐで鮮烈な娘を。
闇を振り払うように廊下を進み、配下が控えている間まで来た時だった。
前から、若い狩士が近づいてきた。
確か、十雪という若手だ。
以前の狩りで、飢神に喰われそうになったところを助けた。
十雪は慌ただしくやってくると、銀正の前で立ち止まってわたわたと頭を下げた。
「すすす、頭狩様! お忙しいところ申し訳ありませんっ! 急ぎお知らせしたいことがありまして」
「……よい、どうした」
汗をかいて肩を上下させる十雪を宥め、銀正は用向きを訊ねる。
十雪は「はい」と大声で答えると、そっと身をかがめて、小さな声で知らせを呟いた。
ぼそぼそと零れる声に、銀正は瞬間瞠目する。
そして常にはなく狼狽えた様子で、驚嘆を口走っていた。
「下に来ているのか、あの人が?!」




