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比翼の花嫁  作者: 壺天
19/79

『昔語り』

 山々が赤や黄色によそおう頃にもよおされる、秋の大祭。

 その行事の一つとして開催される狩士同士の奉納試合を観戦していた幼い香流は、ぐっと生唾を飲んで、一人の男を見守っていた。

 山の神に見物していただくため、神主によって清められた舞台の上に立つ男。

 相対する試合相手と鏡合わせのように木刀を突き合わせる男は、利き腕を失った隻腕だった。

 左腕だけで構える姿は、ともすればその男の不利を観衆に印象付けるだろう。

 だが、舞台を囲む誰もが…… 対戦相手までも、そんなことは露とも思ってはいなかった。

 男から放たれる気配。

 そして、向かい合うからこそ分かる、隙のないたたずまい。

 狩士として、武人として。

 歴戦の雄たる鋭気を纏う男に、不利などという矮小な理由は足枷にもならぬようだった。


「――――いざ、試合始めっ」


 行司が軍配を空から振り下ろしたと同時だった。

 香流は、疾風はやてをその目に見た。

 瞬きの刹那。

 その風は、踊り巻き上がるように対戦相手の懐に飛び込み、軽々と相手の木刀を空へと弾き飛ばした。

 観衆が、驚き口を開いて天へと瞠目する。

 山から風が吹き下ろす。

 遠い山の峰の神が天晴あっぱれと喝采を飛ばすように、風は男の背を撫で、天高く舞い上がっていく。

 幼い香流はその光景を、零れ落ちそうな瞳いっぱいに閉じ込めた。

 美しい男の背を、目の奥底に焼き付けた。


「……勝負あり! 勝者、董慶殿っ」


 行司の決が下る。

 残心に時を止めていた男――――董慶が、顔を上げる。

 晴れやかな顔で振り返り、香流に微笑みをくれる。

 観衆の喝采。

 勝者への賛辞、敗者への健闘をたたえ、秋の空のもと、熱を高まらせる。

 周囲の大人たちに埋もれながら、香流は感動に胸を高鳴らせて、精いっぱい手を振った。


「(すごい、すごい、すごい、董慶様!)」


 ずっと、あの人の後姿を見ていた。

 片手を失い、狩士として狩場に立てなくなってから、それでも再び武人として立とうと努めていた背を見ていた。

 それはきっと、長く苦しい時代だった。

 しかし、ついにあの人はやり遂げた。

 全盛までは追いつかなくとも、力強く舞い戻って参られた。


「香ちゃん!」


 木刀を握った手を、董慶が空へ突き上げる。

 優しくて、力強い笑みが、やっと果たしたと笑う。

 やっと武人たる一線に立ったと笑う。

 それは董慶、人生二度目の修行の日々が結実した、晴れやかな笑みであった。









 ――――というのが、秋の終わりに旅立った董慶の、最後の雄姿である。



 それから少しした、冬の始めのある日。


「納得できません!」


 茅葺屋根の大屋敷。

 村長むらおさの家であるその一室から、憮然とした声は上がった。

 障子の開け放たれた縁側沿いの部屋に、幼い香流が頭からカッカと湯気を吹いて肩を震わせている。

 そんな娘を前に座らせている父は、困り切った様子で口をへにゃんと曲げていた。


「まぁ、そうカッカするな、香ちゃん」


「これが怒らずにいられますか! なんですか、なんなんですか、この文は! 私は…… 香流は、得心がいきません!」


「何って言ってもなぁ。 憤るのも分かるが、これが奴の希望だから……」


「希望でもなんでも、香流は腹に据えかねます!」




「なんで董慶様は、美弥なんて遠国で、里の子でもない子を…… それも寺に属しているような子を、弟子に取るなんて言い出したんですか!」




 庭できじがけーんと鳴く。

 香流父はずぶ濡れた猫のようなしょぼくれ顔で、娘との間に広げてある文を眺めた。

 そして、その差出人に思いをせる。


「(お前の自由で、わし、娘に責められてしょんぼりなんだけれど、如何いかに?)」


 遠く見上げた青空に、少し前に里から旅立っていった男が茶目っ気な笑みで決め顔を返している。

 いや、そういうのいいから。

 それより今すぐ帰ってきてうちの子に釈明してくれない? と、父はため息をつく。

 そんな父親の落ち込みなどいざ知らず、小さな香流は今にも火炎を噴き上げそうな勢いでぷるぷると体を震わせていた。


「ひ、ひどいです、董慶様! わ、わ、私だって、私だってずっと、董慶様に師事することを望んでいましたのにっ」


 香流の里は狩士の里だ。

 狩士は現役を退くと、後進の指導に入る。

 それは香流の里でも徹底されていて、腕を失い狩場に立てなくなった董慶も、本来なら幾人かの弟子を取って、次世代の育成に努めるはずだった。(香流の里では狩士とならない娘たちも、幼少期には武術の手解きを受けるのが普通だった)

 だが、董慶は隻腕であることと、それに付随する()()()()から、その役目を免除されていた。

 当人も弟子は取らないと豪語しており、ぜび董慶に弟子入りをと願っていた香流は、泣く泣くそれを諦めたのである。

 それなのに、と香流は親の敵とばかりに目の前の文を睨みつけて拳を握る。


「私には、弟子は取らないと断ったくせに…… 旅先の美弥で見どころのある()()()()()を見つけたから、弟子に取ると…… その上美弥に定住するなんて!」


 旅立った董慶から最初の文が届いたのは、先日のことだ。

 元々、董慶の旅立ちの理由は、彼自身の武者修行のためだった。

 秋の試合でいい加減片腕でも力がついてきただろうと見なした里長である香流の父が、諸国を回って狩士修行をしてこいと董慶に出立を勧めたのだ。

 五年間各国を巡って力をつけて来いというのが目的だった。

 それなのに、だ。

 あろうことか董慶は、最初の目的地であった美弥に着いた途端、そこで知り合った奇児の少年を見どころありと見定め、自身の弟子にすると決めて文を寄越したのだ。

 これを聞いて仰天したのは香流だ。

 自分には駄目だと断ったくせに。

 泣いて駄々をこねても、うんとは言ってくれなかったのに。

 董慶はなんと遠い美弥の地で、里の子ではない少年を弟子に選んだのだという。

 その上、その子のために武者修行をほっぽりだして美弥に定住するとも言いだす始末。

 董慶を慕う香流にしてみれば到底受け入れられる話ではなく、ひどい裏切りだと憤った。

 ぐっと力を入れるほどに潤む視界。

 負けん気の強い香流はそんな己の醜態も受け入れられず、ついに立ち上がって父の前に仁王立ちになった。


「こ、こんな裏切り、」


 文の上に、困ったときによくしていた董慶のお茶目顔が浮かぶ。

 そんな顔で許すと思ったら、大間違いなのである。


「あんまりです!」


 父上のもじゃ髭入道!!

 捨て台詞のようになぜか父への暴言を残し、香流は庭へと駆け出した。


「ちょ、もじゃ髭入道ってなに!? それは悪口か、香ちゃん!」


 反抗期なんて父上許しませんよ! と叫ぶ声を背後にしながら、香流は走り去る。


「(馬鹿、馬鹿、董慶様の大馬鹿!!)」


 心は董慶への失望であふれていた。

 ひどい、ひどい。

 悔しい、寂しい―――――董慶様。

 もうどこへやればいいのか分からない悲しみを抱えながら、香流は走った。

 冬の忍び寄る季節。

 山から吹き寄せる風は、少しだけ肌寒く、うら寂しく、香流を包んでくれていた。




 *




 冬の始まりの頃は冬眠前の獣が狂暴になるから、あまり山に入るなと大人たちに言われている。

 本当なら山奥の滝つぼでしんみり独り黄昏たそがれていたかった香流だが、仕方なく行く先を変えて、一つの木へと登りついた。

 それは、里の狩士が修練に励む広場を臨めるところに立っている木だった。

 まだ弟子入りを果たしていない(つまり、武術を始めていない)香流は、暇があればこの木によじ登って、里の狩士たちの鍛錬の様子を見物していた。

 そこには在りし日の董慶の姿もあり、日々休むことなく修練に励む董慶の姿を、香流はずっと見ていた。

 今日はもう稽古の時間ではないので誰一人いない広場を眺め、香流ははぁと重い息を吐く。


「(どうして、)」


 どうして、と見送った彼の人へと思いを馳せる。

 どうしてあの人は自分のことは断ったのに、他所の子を弟子に取ることにしたのだろう。

 どうして、その子は選ばれたのだろう。

 自分では、何か足りなかったのか。

 その子なら、董慶が弟子にしたいと思える何かがあった?


「(一体、どんな子でしょう)」


 もやもやとした、董慶への遣る瀬無い思いの合間。

 香流は董慶が弟子にしたという《奇児の少年》のことを思った。

 奇児は、あまり狩士として職に就くことが多くない。

 能力の代償に失ったものが足枷となり、武人として独り立ちすることが難しいためだ。

 香流の里にも奇児はいたが、早い段階で相応しい所へと奉公に出された。

 それだけ、奇児を狩士として育てるのは難しい。


「(でも、董慶様はその少年を見所ありと判断なされた。 私のことは選んでくれなかったのに、その少年のことは、狩士たる資格ありとお考えになった)」


 あの人が――――董慶が、狩士たるにふさわしいと見出した人とは、どのような人であろう。

 少なくとも、自分よりは余程素晴らしい資質や心をお持ちなのだろうか。

 だとすれば、潔く自分は、


「(……納得する、なんて、無理ですよ)」


 葉が落ちた枯れ枝の上で、香流は体を丸める。

 やはり、無理にでもついていけばよかった。

 そうすれば弟子にしたという少年と共に、香流も董慶の指導を受けられたかもしれない。

 ありもしない可能性に思いを巡らせ、ついうっとこみ上がるものに顔をしかめた、その時。



「あー? おーい、そこにいんのは、姫さんじゃないですか?」



 若い男の声が木の根元から上がり、香流は急いで顔をそでぬぐって下を見下ろした。

 見れば、数人の狩士の男たちが、仕事帰りなのか狩衣装でこちらを見上げていた。


「おー、やっぱり姫さんだ。 そんなとこで何してるんです?」


 今日はもう人もいないのにと、中でも一番の若手が破顔する。

 それにしかめっ面を浮かべると、香流は「董慶様、文、弟子」とだけぶっきらぼうに言って、そっぽを向いた。


「あああ~~」


 お館様に聞いちゃった? と、男たちが苦笑いをする。

 どうやら大人連中はもう全部知っているようで、寒いでしょう、降りてらっしゃいと手を差し伸べられた。

 仕方なく香流が枝を伝って下がれば、一番背の高い男がそのまま肩に担ぎあげてくれる。

 まだ小柄な香流は広い肩にちょんと乗って、ぶつくされたまま足の指先を見つめた。


「あーあー、不貞腐れちゃって。 それじゃあ、可愛いお顔が台無しだ」


「別にいいです。元々可愛くもありませんし」


「ははは、性根まで可愛げがなくなってるな、こりゃ!」


「お館が泣いちまいますよ、姫様」


 歩き出しながら、男たちが口々に軽口をたたく。

 それが自分たちの姫の機嫌をなだめようとしているものだと理解していた香流は、ほんの少し後ろめたく思いつつ、それでもつっけんどんな態度を貫いた。

 そんな香流の様子に男たちも目を見合わせ、仕方なく最年長の狩士が香流を受け取って頭を撫でてくれる。


「まぁ、そうへそを曲げんでな、姫様。 董慶様にも、きっと事情がおありなのですよ。 あの方が、あなたのことをことほか大切にしていらしたのは、あなただってよう御存じでしょう」


「…………董慶様は、分け隔てなく、誰にでもお優しかったです。 別に私だけなんてこと、」


「うーん、そうですなぁ。 確かに優しいと言う意味では、皆に等しく優しい方だった。 でも、それだけではない。 幼子の中であの方が見所ありと目しておられたのは、あなたを置いて他になかったですよ」


「……そうなんですか?」


 怪訝な顔で香流が首を傾げると、最年長は「おや、お気づきではなかったか」と優しい目をくれる。


「あの方はね、いつも言っていましたよ。『我が里の姫君の心意気はこの国一だ! あの子の芯の美しさは、きっと長じても人を惹きつけるだろう』とね」


 自分を抱える男の言葉に、香流はぱちくりと潤めていた目を瞬きした。

 まさかそんな。

 あの人が自分のことをそんな風に言ってくれていたなんて。

 そんなこと、自分は全く知らなかったと、体のどこかで喜びの声を上げるものが震えるのが分かった。

 しかし、一方でそれならなぜ、自分は選ばれなかったのだろうと項垂うなだれる思いも混み上がってくる。

 正反対の二つが渦巻くのに翻弄される香流。

 結局渦はどうしてと思うほうが勢いを増して、香流に肩を落とさせた。


「だったら…… だったらどうして、私を弟子にすると言ってくださらなかったのでしょう。 やはり、私では足りなかったのでしょうか。 美弥の少年にあるものが、私には……」


 言いながら、目端を熱くするものに香流は歯を食いしばる。

 出てくるな、見せたくないんだと押さえつけようにも、それは香流の頬を伝って落ちて行く。

 男たちが、憐れむように自分を見ているのが分かる。

 そんな気遣いも辛くて、香流は小さな両手でぐしぐしと目元を拭った。

 しばらくそうしていると、香流を肩に乗せてくれていた男が「姫様」と香流の前髪を撫でた。


「悔しいですね。 ここにいる皆、お気持ちようく分かりますよ。 我らだって、憧れる方に認められないと思えば、とても辛い。 その方を慕っていればいるほどに」


「姫さんは、董慶殿を心から慕っておりましたものね」


 一番若手の狩士が、涙に濡れた香流の頬を優しく包んでくれる。

 しょぼしょぼする目を瞬かせて顔を上げれば、男たち皆が愛おしげな瞳で香流を見ていた。


「……わたし、私は…… 私も、いつか董慶様に《あの言葉》をいただきたいと思っていたのに」


 若かりし董慶が、自分よりも若手の狩士に、言い聞かせていたというある《言葉》。

 里の狩士が、董慶といえばあの《言葉》だと、酒が入れば笑い合って香流に教えてくれたそれ。

 それを、いつか弟子になった自分も、直接董慶にいただくことができると香流は夢見ていた。

 なのに。

 か細い呟きに、男たちが「ああ、あれか」と目を合わせて笑みを漏らす。

 そして香流を抱える最年長が、香流の脇を持って持ち上げ、破顔して言った。



「姫様、うんと泣きなされ。 うんと泣いて、心の内で、存分に董慶殿をののしってやりなされ。 そうしていつか人心地ついたら、うんと努めなされ。 努めて努めて、うんと強くなって、いつか帰ってきた董慶殿に、あなたが選ばなかった子供は、こんなに立派になったのだと、見せつけてやりなされ」


「そうだ、そうだ、それがいい! きっと姫さんは強い女子おなごになります。強くて優しい人になって、董慶殿を見返してやればいい!」


「そうだな、そうなれば、董慶殿はきっと後悔なさる。 こんないい女子を放って置いて他所に行ってたなど、わしの見る目がなかったとな」


「…………」


 男たちが口々に繰り広げる提案に、またしてもぱちくりと目を瞬かせて、香流は空に浮いた足をぶらつかせた。

 そうしてじっと考え、自信のない顔つきで小さく呟く。


「そんな、董慶様が目をみはるような立派な娘に、私などがなれるでしょうか……?」


 あんな立派な方がこれはと思うような人に、自分なんかがなれるのか。

 気後れに眉を下げる香流に、男たちが笑う。

 心から信じているという色を浮かべ、力強く頷いた。


「なれますよ。 きっとなれます。 だって、あなたには私たち里の狩士がついている」


「強うなりましょうね、姫さん。 力だけでなく、芯の美しい、本当に強い人に」


 背の高い男が香流を受け取り、再び肩に担ぎ上げる。

 折よく山風が吹き、涙に濡れた香流の頬を乾かしていった。

 山の峰の合間、冬の始まりの空が澄み渡っていた。

 その空の向こうにある遠国・美弥を思い、そこに留まることを決めた慕わしい人を思い、香流はそっと目を閉じた。


「(強く。 あの方が、見違えたと褒めてくれるくらいに、強く)」


 なれるかと、胸に聞いた。

 胸は、力強い鼓動で、できると返した。

 そっと目をこじ開けた香流は、自分を見上げる男たちに真っ直ぐな目を返した。

 男たちが、その目に満足そうに微笑む。

 自分たちの姫君は、きっと美しくほころぶと確信した笑みであった。






「そうだ、姫様。 一つ、いいことを教えて差し上げましょう」


「? いいこと?」


 香流を担ぎ上げる男が、いたずらを思いついたような顔で、背後を振り返る。


「いいことって何ですか?」


 香流がれてせっつくと、男は「ほら、さっき言っていた、董慶殿の《あの言葉》です」とくすくす笑う。

 ついてくる狩士たちも、「ああ、あのことか」と勘づいたように苦笑を漏らした。


「あのお言葉が、どうかしたのですが?」


 怪訝な思いで香流が首を傾げると、すぐ横にある男の顔が意味ありげにして、指でちょいちょいと香流に近づくよう合図を送った。

 香流は背を屈め、小さな耳を男の方に近づける。

 男は大きな手で口元を覆うと、多分に愉快げな気配を込めて、そっとそれを教えてくれた。


「董慶殿の《あの言葉》。 あれはね、董慶殿の照れ隠しなのですよ」


 照れ隠し?

 それはどういうことだと眉間にしわを寄せる香流に、男は面白そうに笑って言った。



「あれにはね、裏の意味があるのです。 董慶殿があの言葉に込めた()()は……」

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