十四
早朝。
まだ日の昇りきらぬ刻限。
右治代の家の裏口前に、香流はいた。
動きやすい袴姿に襷を締め、途中で解けることの無いよう草鞋をぎゅうと足に縛り付ける。
勤めのあいだへこたれないために、手ぬぐいと水筒もしっかり持った。
勿論、大ハタキだって忘れていない。
すべての準備を確認した香流は、「よし」とつぶやく。
そうして右治代の家で一番小さい大八車に身を滑り込ませると、気合を込めて前を向いた。
「と、いうわけで行きましょうか」
「駄目だ」
「駄目です」
「駄目に決まっていますでしょう」
――――三連で水を差された。
じとり。
集中を乱された香流は、半眼になって背後を見る。
そこには果たして、銀正、阿由利、苑枝の三人が、厳しい顔で首を横に振っていた。
「……はぁ」
仕方なさそうに溜息をついた香流は、渋々の体で車の持ち手を置く。
そうして三人の前に仁王立ちになると、ぐいと口を引き結んだ。
「一体何が駄目なのですか、御三方。 これは私が弓鶴の方様から命ぜられた仕事。 口出しは無用です」
「そうは言っても、これはない。 氷室からの氷運びなど…… いくらなんでもあんまりだ」
至極真っ当なことを言って、銀正が端正な顔を顰める。
後ろで他の二人も、大きく首を縦に振って同意した。
昨日の朝。
阿由利を非難していた侍女は、弓鶴の方の命だと前置いて、香流に新たな勤めを言い渡した。
右治代家の西にある山。
そこに作られている氷室に、後日控えた祭りのための氷を取りに行くこと。
それも香流一人きりで。
夏の氷は貴重品だ。
だがこの時代、国主以外でも、それを全く口にできないということはない。
右治代は国主のように独自の氷室を持っており、夏が始まるこの頃には、そこから氷を切り出してくるのが通例となっているのだ。
重い氷を切り出し、これまた重い車で運んでくるのは、下男の仕事。
立場以前に若い娘がする仕事ではないのだが、香流はこれをすんなりと受けてしまったのである。
渋い顔で頭を押さえる苑枝が、苦言を呈する。
「氷を切り出すのも運ぶのも、手伝いもなく一人でやれとはあまりにも無茶です。 下男だって数人でこなす仕事ですよ」
いくら香流様に反感があるとはいえ、と暗に侍女たちを非難する。
最初、香流の承諾を聞いた銀正と苑枝は激しく止めたが、当の香流が頑として撤回をしなかった。
結局その場で二人は折れてくれたが、あとから苑枝には、
『どうせ、侍女たちが大奥様に泣きついたくらいの話です。 おそらく、香流様が当主様の離れに入れたことをやっかんだのでしょう』
と、裏を教えてもらった。
香流としては、『……なるほど?』という程度の話だったので、とりあえず頷いておいたのだが、鋭く視線で刺されて閉口した。
どうにも香流は、自分に向けられるものに対して鈍い。
それを苑枝はすでに承知しているらしく、『やはり鈍い方』とお小言をもらった。
「香流様も香流様です! なぜ、さも当たり前のようにこんなことをなさるのですか! 大奥様の言いつけとはいえ…… もっと御身を大切になさってください!」
小袖姿の阿由利が、襷を握りしめて憤慨している。
「なぜ襷を……」と思いつつも、香流は何とかそれを宥めて銀正に向き合った。
「御当主、前にも申しましたでしょう。 私はどんな苦役からも逃げるつもりはない。 大奥様がやれと仰るのなら、一、二もなく受けるのが私の覚悟」
だから、今は信じて送り出してほしい。
大丈夫、
「里では伐木の作業も手伝ったことがありますし、背負子に薪をめいっぱい結び付けて山を下っていました。 力仕事など、慣れたものです」
とんとんと胸を叩けば、三人が呆気にとられたような顔をする。
「あなたのその無駄に体力があるのは、それ故ですか……」
苑枝が呆れたように言って、銀正はぎゅうと渋面を作った。
二人して、
「苑枝、母は……」
「明日からの祭りを祝うためと、国主様に城へ招かれ、すでにお発ちです」
「……逃げたな」
と、こそこそと言い合っている。
「はぁ……」
深い息を落とす銀正。
それから香流をじっと見つめて、「その顔では聞く気はないな」と至極不本意そうにしてから念を押した。
「……少しでも無理をしているようなら、すぐに止めさせる。 御身が最優先だ。 それだけは承知してくれ」
「ありがとうございます、御当主」
「当主様!?」
阿由利がまさか、と声を上げる。
見開かれた目が苑枝のほうを縋るように見るが、仕方ないと首を振られ、途方にくれた顔をする。
そして泣きだしそうに唇を噛んでから、なにか決然とした様子で胸を張った。
「な、なれば! 私もお手伝いします!」
「あ、それは駄目です」
「やめておきなさい」
香流と苑枝が、否と声をかぶせた。
間髪を入れない反対に、阿由利は「な、なぜですか!」と打ち震えた。
「そのために、こうして用意もしてきたのですよ!」
ぷるぷると着物を握りしめる姿に、「ああ、それで襷を……」と香流は額を覆う。
朝早くからなんの準備だろうかと、謎だったのだ。
しかし、申し出はありがたいが、流石にこの勤めにか弱い阿由利を連れていくことはできない。
ぎゅうと握りしめられている手を押さえ、香流は首を振った。
「私が言うのもなんですが、車を引いて山を上がるのも下るのも、きつい行程です。 屋内のお勤めしかしてこなかった阿由利殿には、到底無理だ」
「その通りです。 外仕事に慣れない者がついて行っても、足手まといになるだけ。 無駄にけがをして、香流様を困らせたくはないでしょう」
苑枝と二人、懇々と言い含めれば、阿由利はうぐと詰まって泣きそうになる。
そんな様子に心が痛み、香流は優しく阿由利の肩を叩いた。
「阿由利殿。 そう、無理に私に情けをかけずともよいのですよ。 これは我が身がまいた種。 なれば、刈り取る勤めも、私だけのもの」
それに、自分と一緒にいれば、またこの家で後ろ指を指されることになりかねない。
だから、
「私のことは構わず、また誤解を受ける前に、御同輩の元へお戻りなさい。 大丈夫。 今ならまだ、あちらもあなたを迎えてくれます」
まだ戻る道はある。
そう言外に示せば、阿由利はさっと傷ついたような顔をして俯いた。
そして、ふるふると肩を揺らして黙したかと思うと、いきなり勢いよく面を上げて声を震わせた。
「も、戻れなんて、そんなこと! あ、あなた様のような危なっかしい人を放っておけるわけないではありませんか!」
「し、しかし、」
突然の大声に香流が及び腰になると、若い侍女はふんぞり返ってそっぽを向いた。
「いいです、分かりました。 お邪魔はしません。 私はお帰りを屋敷でお待ちしております。 ですが、少しでも帰りが遅ければ山まで探しに行きますゆえ、そればかりは御覚悟くださいよ!」
一息にまくし立てた顔は赤。
剣幕に驚いた香流は、ぱちくりと目を瞬かせる。
阿由利の向こうには、顔を見合わせている銀正と苑枝。
ふんふんと鼻息の荒い阿由利に、香流は段々と顔を緩めて、困ったように笑った。
「まったく、阿由利殿は…… そんなに可愛らしいことを仰らないでください。 愛らしくて困ってしまいますよ」
赤い頬を、指先で優しくなぞる。
阿由利が「きっ……」と竦み上がって固まった。
そんな様子も愛しくて、香流は一層笑みを深くする。
二人の向こうで銀正と苑枝が、なにやら遠い目をしていた。
さて、これで役目を果たせる。
憂いを払った香流は、行ってきますと言うように、銀正へ頭を下げた。
受けた銀正は、行って欲しくなさそうにしながら、それでも頷く。
それが少し後ろめたく、香流は肩を竦めた。
「そんな顔をなさらないで。 あなた様が悪いのではない。 すべて私が受けると決めた結果です」
「そうだとしても、あなたがこの家で苦労するのを、私は見たいわけではない」
弱り切ったような顔が、なんともこそばゆい。
結局は案じてくださっているのだなぁと思って、香流は肩がほぐれた。
全てを語ってくれるわけではないけれど、この人はこの人なりに厚意をもって接してくれているのだ。
「もう、里に帰れとは仰らないのですね」
「……多少、諦めた。 だが、」
もの言いたげな目に、香流は察しをつける。
この人はまだ、自分を遠ざけるのを完全に諦めたわけではない。
それが例え香流のためだとしても、香流はそんなことを受け入れるつもりはないと言ったのに。
「(最初から針の筵に胡坐をかくくらい、覚悟の上なのですけれどね。 私は)」
こうなれば、もつれ込むのは根競べだ。
香流の覚悟に銀正が参ったを言うか、銀正の勧めを香流が受け入れるか。
この勝負、確実に一本取ると腹を決めて、自分を心配する目に香流は笑みで答えた。
「では私は、御当主が『これはどんな苦境にも折れない』とお認めになるまで、お傍に居ることにしましょう」
挑むようにそう言えば、銀正は目を見開いて固まった。
それから困り顔で眉を下げて、何となく戸惑ったように目を逸らす。
かと思えば深くため息をついて、「本当に気風のいい方だ、あなたは」と肩に流した襟足の髪を揺らした。
言われてきょとんと瞬く香流は、「……はい」とだけ答えておいた。
そんな二人を、苑枝と阿由利がこそこそ見ている。
何となくその様子が喜色に満ちているのは、気のせいだろうか。
「(まぁ、なにはともあれ、お役目です)」
香流は、切り替えだけ早く、気合を入れた。
*
木々の合間を山中へ伸びる、緩い坂道。
車一台が何とか通れるそこを、香流は大八車を引いて登っていた。
昇ったばかりの朝日に辺りがほんのりと明るくなり、朝鳥たちが囀り始めている。
「姫さん」
唐突に声をかけられ、香流は立ち止まった。
人影はない。
しかし別段驚いた様子もなく、香流は木立の一角に目をやった。
車の持ち手を下げて、緑の合間を見つめる。
「……来ましたか」
「いっこうに出ていらっしゃらなんだので、軟禁でもされているのかと思いましたよ」
くっくと声が笑い、香流は澄ました顔で車を示す。
「おかげさまで、下働きなどして、お目こぼしいただいております」
そりゃご苦労だ、と声は揶揄って笑い続ける。
嫁入りしたはずの娘が下働きなど澄ましてやっているのが、相当可笑しかったのだろう。
ひーひー苦しむ気配が、いつまで経っても止まない。
それがあんまり気に障った香流は文句でもと口を開きかけたが、一手向こうが早かった。
「む、婿殿とは、どうです。 ちゃんと猫被ってらっしゃるんでしょうね? いつもの調子で、ズケズケものを申してなどいないですよね?」
「…………」
「……ちょっと姫さん、なんですその沈黙」
急に真面目になった声が、耳に痛い。
片手で耳を塞ぐと、じとりとした声が「姫さーん」と呼びかけてくる。
「別に、思ったことを直截に言っているだけです」
ここ数日の銀正との会話が頭をめぐる。
そうだ。
別にずけずけなんて、言ってはいない。
帰らないという意思表明も、庵での問答も、今朝の宣言も。
それまでまともな会話をしてこなかったあの人との間で、必要なことだった。
多少。
多少、地を出しすぎてガツガツ言葉を重ねたような気もするが………… おかげで少し、あの人が見えるところまで互いの距離が進んだのだし、終わりよければそれでよしではないか。
不貞腐れたようにそっぽを向く香流に、呆れたような溜息が届く。
「まったくもう。 そうやって無遠慮にやってきたから、歴代の見合い相手に逃げられてきたんでしょうが、あなた。 あっちは良家の坊ちゃんなんですから、姫さんもお淑やかに攻めないと」
「それ、できると思って言ってます?」
「自分で言っといてなんですが、笑いを堪えきれない程度には絶望的だと思っています」
「出てきなさい。 今すぐ出てきて、果し合いの相手をなさい。 そのふざけた口を土と接吻させてさしあげます」
零下の目で枝葉の向こうへ睨みを利かせば、「こわいこわい」と声は臆した様子もなく軽口をたたく。
香流は苦い顔をして、腕を組んだ。
まったく、これだから真殿配下の男たちは始末が悪い。
あの豪放磊落な兄を慕って集まった者ばかりで皆がそういう気質だし、昔から香流を「姫さん」と呼んで妹みたいにいじるから、兄が山ほどできたようで香流は辟易しているのだ。
完全にへそを曲げた香流に、木立の気配は仕方なさそうな空気を送ってきた。
なんでそっちが仕方なさそうにするんだ。
どう考えてもこっちが被害を被っているのに。
もう無視して仕事に戻ろうかと、香流は車の持ち手を構えようとする。
それを、声はやんわりと押しとどめた。
「まぁ、そう不貞腐れんで、姫さん。 俺らも姫さんの相方がどんな男か気をもむんですよ。 大事な妹分の相手だ。 生半可な男では、認められねぇ。 きっと姫さんが手を取るに足る男でなくちゃあ」
どうです? 右治代当主は姫さんの心眼に適いそうですか?
優しい問いかけに、香流は束の間黙考する。
そうして悩ましいという顔で空を見て、目を細めた。
「誠実な方だとは思いますよ。 ですがまだ…… 生涯を共にする覚悟を持つほどには、あの人の全てが見えない。 ある程度は話せば教えてくれますが、あの方は多くを語る気はない御仁ですし」
あの人に信を置くと決めるには、
「まだ、判断するには、過ごした時が足りないでしょうね」
銀正が、性根の曲がった人間とは思わない。
あの人は自らを省み、抱え込みやすくはあるが、己の役目を全うしようという気概がある。
人柄として、悪くはない青年だろう。
しかし、彼の信念を未だ香流は見定めることができていない。
何をもって生きる指針とするのかを、香流は知らない。
そんな距離感で彼に自分の信を置くと決め、一生を捧げる決心をするには、いささか時期尚早とも思えた。
できることならもう少し、あの人のことが知りたい。
共に過ごす時間を得たい。
それに、
「私がどんな苦境にも折れないと認めさせるまではお傍にいると、宣言してしまいましたしねぇ」
急に声が沈黙する。
なにやら気まずそうな気配が流れてきたので、香流は首を傾げた。
「どうしました? 急に黙って」
「……ねぇ、姫さんそれ、婿殿に言ったんですか?」
「? 何か問題でも?」
「いえ。 相変わらずだなぁ、と思いまして?」
木立の気配は、遠くを見たようだった。
『同じ男として、婿殿にご愁傷様と言いたいなぁなんて思いまして』
――――とは、流石に言わない。
この姫君の自覚のない男気は、今に始まったことではないのである。
ところで、それはそうとと香流は声を上げた。
「兄はどうしました? 私とのやり取りは、兄が受け持つ手筈だったでしょう」
事前の取り決めでは、香流との間を取り持つ役目は、真殿が負っていたはずだ。
なのに、あれはどこをほっつき歩いていると聞けば、声は一転、固い調子で応じた。
「若は一度、国へ戻られました。 里から赤隈の伝鳥がありましたゆえ」
「赤が? 何事でしょう……」
里からわざわざ、美弥にいる真殿まで飛ばすとは、余程の大事か。
内容を確認しようと口を開きかけたが、それよりも先に声が木々の向こうから問が続く。
「それで、実際どうです。 右治代の中は探れそうですか?」
「……まだ、深い内情までは。 もう少し時間が必要ですね」
声の調子に合わせ、すっと気配を鋭くして、香流は首尾を応えた。
常にはない、研ぎ澄まされた視線。
それを保ったまま「そちらは?」と返せば、
「数人が城下に散っていますが、まだ探っている最中です」
と、短く戻ってきた。
まだ美弥に着いてひと月と半分。
この国の内情を探るというお役目を遂げるには、少しばかり時間を要するか。
そう香流が考えを巡らせていると、
「しかし、」
急に低まった声が、どうにも解せないといった様子で呟いた。
「どうしました?」
香流が促せば、声は少しの間黙してから「いや、それが」と歯切れ悪く言った。
「これは、単に私の所感なのですが…… ひと月少し、この国を探っていて思ったのです」
「どうにも、この国はおかしい」
「おかしい?」
漠然とした意見に、香流は眉を顰める。
声は言葉を選ぶようにして続けた。
「明確な証左があるわけではない。 あくまで私自身の見立てです」
「美弥に至ってこの方、町人に紛れて様子を探っていましたが…… どうにもこの国は不審な点が多い」
「美弥は豊かな国だ。 周辺諸国も多くの間者を放っているようなのですが、なぜかある程度国の中枢に近づきすぎると、それらは皆、帰ってこぬようなのです」
それに、
「伝鳥もこの国からは出てこない。 美弥の伝鳥以外、間者が飛ばす鳥は国境を越えるあたりですべて行方知れずになる様子」
「そして、飢神に関してもおかしな点が」
「外の連中が言うには、どうやら美弥に近づくにつれて、異様に飢神が少なくなるらしい。 これだけの業人を抱えていながら…… こんなことは異常だ」
固い声で告げられる報告に、香流は口を閉じる。
消える間者。
外に出てこられない伝鳥。
国の規模に見合わない、飢神の数。
不自然な点と点をじいっと見つめて、その意味するところを探ろうとする。
そんな香流に最後、声は忠告した。
「おそらく、この国には何かあります。 姫さん、どうぞご用心ください」




