十二
「では、二つ目をお聞きしてもよろしいですか?」
さらりと流れを変えて香流が問いかけると、銀正は「あ、ああ」とその顔を困惑の色に染めた。
こちらの切り替えの早さに面食らったようだが、構わず懐に忍ばせていたものを取り出してみせる。
「これですが、」とその紙束を振って見せれば、銀正が顔色を変えた。
紙束は、銀正が選別した不要物の一つだった。
書きつけてある手は、おそらく青年当人のものだろう。
そして問題は、その内容だ。
「これは、飢神に関する書類ですね。 御当主は不要物に分けたようですが、おそらくこれらは、間違って紛れ込んだのでは?」
束の内の一つ、公文書にのみ押される朱印を示して、確認を取る。
銀正は白い顔を青ざめさせると、束に向かって手を伸ばしてきた。
「か、返してくれ。 それは、保管しておかなければならない大切なものだ」
銀正が紙を掴んだと同時、香流もすんなりと束から手を離す。
元より返すつもりであったから、惜しげもない。
書類を確認した銀正はほっと息をつくと、難しい顔をして香流に目を寄越してきた。
「まさかとは思うが、あなた、これらが読めたのか?」
私塾や寺子屋が各国に開かれるようになったこの時代、文字を理解できる者は平民にも多い。
だがそれは、この嘉元国で通用する言語に限った話だ。
銀正が隠した書面を見遣った香流は、「まさか」と首を振った。
「おそらくそれは、飢神に関する内容でしょう。 『狩人文字』など、私には読めませんよ」
『狩人文字』。
それは狩司衆に属する者だけに伝承される特殊な文字だ。
業人の練を捕食する飢神たちは、その血肉を食らう過程で、畜生のように無能な状態から、人と同様な知能を持つものに成長する。
成長に伴い力も増して危険度が上がるため、狩司衆ではこういった飢神を階級付けして、最低級を『丁』。
『丙』『乙』と続いて、最上級を『甲』と呼称する。
丁種は生まれたて。
人に害成すこともほぼない。
丙種は香流が美弥への旅路で遭遇したような、野犬や狼、そういった獣と大差のない個体。
乙種は『妖型』とも呼ばれ、多少知恵がついてくる。
そして、問題なのは甲種。
ここまでくれば人の言葉も見事に操り、策略を弄して狩司衆を苦しめる。
そこで古くに考案されたのが、狩人文字なのである。
まかり間違って狩司衆の秘匿事項が民衆や飢神に漏れれば、狩りに支障が出る。
それを防ぐため、重要な内容のやり取りは、狩人文字を用いて行われるのだ。
香流が拾っていた書類も、この国で流布している言語とは違うものが書かれていた。
それを知らぬ者に、読めるわけがないのである。
「飢神の絵図と、見慣れない文字から、狩人文字であろうと推察して拾っただけです。 狩司衆の家の出とはいえ、私の学が足りないのは、釣書でご存じでしょう」
おそらくこの庵は、銀正の仕事部屋なのだろう。
あれほど荒れ果てるまで人を寄せ付けなかったのも、重要な資料を抱え込んでいたから。
そこまで読み取っていたが、余計なことは口にせず、香流は二つ目をたずねた。
「僭越ながら、御当主は仕事を抱え込みすぎているのではありませんか? あの紙の山は、全て飢神狩りについてのものでしょう」
そう言うと、銀正はぐっと詰まった。
それが答えだ。
香流はすいと目を眇めた。
本来頭狩(狩司衆の頭目)がこなさなければならない書類仕事は、直属の部下が手伝って仕上げるものだ。
だがあの庵の様子から、この部屋に銀正以外の人間が立ち入っている気配はない。
おそらくこの青年は、広い国領から上がってくる仕事のほとんど全てを、自分の中に抱え込んでいるのだろう。
そんなことは異常だ。
銀正はまだ香流を疑っている様子だったが、そっと視線をさ迷わせると、諦めた様に遠くを見た。
「……これでも当主だ。 仕事が多いのは当然だ。 あなたが気にすることではない」
切り捨てるような答えに、「お言葉ですが、」と香流は声を張った。
「何もかもを抱え込むのが、頭狩のあり様ではありません。 人に頼まぬということは、人を信じておらぬと言うこと。 差し出がましいことを申します」
一拍溜めて体を向けると、香流は切り込む。
「御当主は、信じる者がないのですか? すべてを抱え込まねばならぬほど、」
お一人なのですか?
答えは、すぐにはなかった。
虚を突かれたように瞠目した目は固まり、苦悩に揺れ、そして再び落とされた。
「あなたはこんな難しい話に、逃げ場のない問いかけ方をするのだな」
静かな、ともすれば弱弱しくもあるような声が、自嘲とともに消える。
「とても大切なことだからです。 御当主が何もかも抱え込まれて、いつか限界を迎えてしまう。 それは私も本意ではありません」
香流の言葉に、沈んだ気配は、また苦し気に笑ったようだった。
「釣書の、」
小さい呟きに、香流は首を捻る。
釣書?
それがどうしたのだろうと考えていると、銀正は湯呑を呷ってつづけた。
「来歴にも書いてあっただろう。 私には、兄が居た。 病がちな人ではあったが、父が亡くなってからはその兄がこの家の当主で、美弥狩司衆の頭目だった」
そのことは、香流も知っていた。
子供は男が二人だった右治代は、当然長子が家と狩司衆の役目を継いだ。
そして一方の銀正は、一年前、
「一年前、兄が病で儚くなるまで、私は寺に預けられたままの一介の僧侶に過ぎなかった。 それが兄亡きあと、急遽当主としてこの立場に収まり、頭狩の役目をいただいたに過ぎない」
そんな歴の浅い若造に、信を寄せてくれるものなど少ない。
人に頼ることを望むなど、身に余ることだ。
それに、
「この家にとって…… この美弥には、私など、」
言いかけた言葉の先は、香流にも分からなかった。
ただ、琥珀の目がひどく苦しみに満ちていることだけは読み取れて、つい、
「!」
痛々しい傷のある頬へ伸ばしそうになった手を、直前でぎゅっと握る。
銀正は呆気にとられた様子で、その手を見ていた。
婚約中の身の上とはいえ、婚前の男女がみだりに触れ合うものではない。
母や苑枝が見ていれば、「まぁ!」と憤慨しそうだと思いながら、香流は身を引いた。
そして少し考えて、縁側の上にそっと姿勢を正した。
「御当主、私は他所から来たものです。 あなたにとっては知り合って日も浅い、浅学なただの小娘です」
手をついて、銀正を真っ直ぐ見る。
どうか、しかと届くようにと、声に力を込めた。
「ですが、言わせてください。 信頼してくれとは言いません。御当主が耳を傾けようと思った分だけでいいんです。 聞いてください」
「信頼する者を作って下さい。 多くと、思わなくてもよいのです。 少しでいい、背を預けられる者を作ってください。 頭領とは、えてして孤独なものです。 ですが、戦いに赴くのなら、背を預けられる誰かも必要です」
自分などと、諦めたように言った言葉。
そんな諦観に、我が身を明け渡さないでほしい。
頭領たるあなたには、己の配下を信じる義務がある。
そして、そんなあなたに、私は遣わされたのだ。
「いつかお伝えせねばと思うておりました。 私は、央の国の上役方から、御当主にお伝えする文言を預かっております」
「!!」
間者としての役目、そしてもう一つ。
香流には、伝送の任が課せられていた。
「『比肩を得よ。』 非公式ですが、五老格方のお達しです」
*
狩司衆の戦には、いくつか決まりごとがある。
そのうちの一つが、『狩司衆に属する者は、二人一対の形で動くこと』というもの。
これは、飢神の生態による。
階級によって変化するのだが、丙種以上の飢神はすべて、『殻』と呼ばれる器官を持つ。
殻は階が上がるごとに増え、丙種の持つものは『牙』、乙種は牙に足して『爪』、甲種は先の二つともう一つ、『角』と呼称される殻が発生する。
殻には、それぞれ役割がある。
角は甲種のみが持つが、これは最上位の個体だけが扱える『異能』の発生源である。
爪は乙種以上に見られる、攻撃に特化した個体ごとに形状の異なる部分。
そして牙はその名の通り、得物を捕食する歯。
一方で、もう一つ役割がある。
飢神には人でいう心臓のような臓器――――『灯臓』と呼ばれる核があるが、奴らはこれをつぶさない限り、何度でも再生する。
牙はその重要な機関である灯臓を守るための、防御壁でもあるのだ。
しかもこの牙は、落としてもすぐ生えそろう。
そのため、丙級以上の飢神狩りでは、一人が牙を落とすかこじ開ける役目を担い、一人が確実に灯臓を狙う手筈で臨む。
余程熟練した狩士でない限り、一人で丙種以上には挑まぬよう禁令があるし、そんな練者でも、甲種(あるいは乙種)に一人で挑むことはない。
狩士たるもの、狩場においては二人一対。
これが鉄則。
そして狩場にて、ともに立つ相方を、狩士たちはこう呼ぶ。
己の『比肩』と。
*
「五老格様が……?」
銀正が呟くのに、香流は肯首する。
老格の話の通りなら、この若い当主にはまだ、比肩となる者はいない。
普通、狩司衆で実戦の任に着くまでに成長していれば、上からの采配で、必ず比肩を得るものだ、
しかし銀正は、二十歳を超えるまで狩司衆に属した経歴もなく、当主となって日も浅い。
戦場に出ることはあっても、未だ比肩を選出していない異例なのだ。
そんな若い身空を憂い、五老格は比肩を得ることを銀正に望んでいる。
各国の狩司衆頭目は、己が望んだ相手を比肩とすることができる。
それをしないまま、一年も隣を空席にしているということは、銀正自身が比肩を決める気がないということだ。
案の定、青年は苦い顔で首を振った。
「駄目だ…… いくら五老格のお達しとはいえ、この話は受けられない。 私はまだこの役目について浅い。 狩士としても、実力が伴っておらぬ。 そんな身の上で比肩を得ようなど、あまりに身に過ぎている」
おそらくそんな理由だろうと思っていた通りのことを言い、銀正は目を逸らす。
確かに、比肩は狩士にとって、己の命を預ける片割れだ。
頭狩とは言え、歴も浅く、実績も少ない者に選ばれることを、狩士は敬遠するだろう。
だからといって、いつまでも比肩を得ることがないのは外聞が悪いものだ。
それに、役目を果たす上で、比肩の存在は銀正の身の安全を図る意味もある。
人に遠慮するばかりに比肩を願うことができないなら、それは狩士としても、頭領としても、未熟だ。
香流は握りしめた拳を座した足の上に据えると、背を張って銀正に正面から向き合った。
「それはいけません、御当主。 そんなように己を卑下しているようでは、一団の長として、正しく配下を導くことなどできない」
「っ、」
琥珀の目が、痛いところを突かれたと大きくなる。
澄んだ瞳の中に、挑むような顔の己がいる。
この時世、高々嫁に入っただけの娘が、男の勤めに口出しするものではない。
しかし、言うべきことは、言うべき時に伝えねば。
里の母の豪気を胸に、香流は言葉を走らせる。
「例え兄君の後釜として役目に着いたのだとしても、それはそれ。 闇雲に後ろめたさを感じ、教えを乞うべき先達に遠慮して距離をとったところで、なんになります」
夢に見た、幼い頃を思いだす。
できない自分を諦めて、香流から離れていった里の子たち。
銀正も、同じようなものだ。
諦観に身を沈めて、すべてから距離を取る。
今の香流は、あの頃のようにそれを卑怯だとも思わないし、慮ることだってできるけれど。
でも今のこの人には、引き留める言葉が必要だ。
「劣っているなら、努めればいいのです。 例え実力がついてこなくても、あなたが上へ行こうと思いすらしなければ、何事も始まらない」
「人を遠ざけないでください。 手を取ってくれる者などないと、頭から決めつけないで。 少なくとも私は、」
「あなたが一人になることなど、望まない」
「!」
風が戦ぐ。
髪筋が遊ぶ。
香流の結い上げた黒と、銀正の項を流れる白が、共に日に光る。
驚きに揺れる琥珀の目を、逸らすことなく見つめる。
そこにどうか、降り積もるものがあってほしいと、傲慢なことを願いながら。
そうして長い沈黙ののち。
あまりにも反応がないのを訝しんだ香流が「御当主?」と呼びかけると、銀正ははっと我に返った様子で、口元を押さえた。
「申し訳ありません、出過ぎたことを申しました」
「あ、いや、」
今更になって己の不躾を詫びると、銀正は狼狽えたように香流が頭を下げるのを押しとどめる。
あまりに自分がずけずけと発言したため、その傍若無人ぶりに茫然としていたのかと思ったが……
香流が首をかしげると、青年は夢から覚めたような顔で、言った。
「すまない、少し、思い出していたんだ」
思い出していた?
何を、と香流が問いかける前に、その目はどこか遠くへと囚われていた。
「言われたんだ。 それを、思い出していた。 あなたと同じことを、前にも……」




