あなたにとって大事なもの
「貴方にとって大事なもの」 小百合編
心地よい眠りから、うっすらと意識だけが覚めた時、温もりを手探りで探した。
布団のシーツばかりが私の手に触れるので、ゆっくり目を開けた。
大きなベッドに私しかいない。
むくりと体を起こすと、離れた大きな窓の先、バルコニーの椅子に腰かけている彼がいた。
寝巻の上から羽織を肩にかけ、煙を燻らせている。
夜空に寝そべった月に、彼のなびく髪が手を振るように揺れていて、表情は見えなかった。
私はパジャマのボタンをとめながら布団から足を出し、スリッパを履いて、バルコニーの方へ向かった。
すると彼は、私が近くに来ると振り返り、窓の向こうから笑顔を向けてくれた。
彼のその、落とすように微笑む表情が、私は大好きだった。
灰皿に煙草を消した彼は、すっと立ち上がって窓を開けてくれた。
「眠れない?」
彼に触れてそう尋ねると、見下ろしながら私の頭を撫でた。
「いや・・・何となく目が覚めてな・・・。眠気はあるんだけど。」
「そっか。・・・その羽織・・・昔着てたやつ?」
普段洋服姿しか見たことなかったので、私がそう言うと、彼は少し驚いて目を伏せた。
「これは・・・そうだな、本家にいたころ常用してた・・・」
何やら歯切れ悪く答える様子に、私は小首をかしげて見つめていた。
彼は視線を泳がせて、部屋に入りながら羽織を脱いだ。
気まずそうにする彼に、私は話題を変えた。
「最近は煙草吸うの?全然普段匂いがしないから知らなかった。」
窓を閉めながらそう尋ねたけど、返答がなかったので、薄暗い部屋を振り返った。
彼は羽織を持ったまま、クローゼットの前に佇んでいた。
そして私が歩み寄ると、静かに口を開いた。
「この羽織は、呉服屋の娘だった妻がくれたものだった。」
「そうだったんだ。大事にしてるんだね。」
私がそう答えると、彼は少し申し訳なさそうな顔をした。
「残している和服は皆、長い間着まわしてきたものが多いからな、本家の匂いが染みついてる。」
手放したくても手放せない、私にはそんな表情に見えた。
「匂いを・・・・消したくてな・・・。けど、何度洗濯しようが、煙草を吸おうが、袖を通すと嫌でも思い出すことはある。いや・・・本当は消したくないのかもしれないが・・・。」
そう吐露しながら、すまん、と私に謝った。
「・・・大事なものは、これからもずっと大事にしたらいいと思うな。」
そう言うと彼は、灰色の瞳を少し丸くして、そっと抱きつく私を受け止めた。
「辛い記憶以外にも、幸せな思い出が詰まってるものなら、失くしたらいけないものだと思う。・・・うまく言えないけど、そんな気がするの。」
彼の規則正しい心音が聞こえる。
静かな夜、強く抱きしめ返す彼を、私は変わらず愛おしく思った。