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そらのそこのくにせかいのおわり(改変版)5.5 < chapter.3 >

 そのころ、タケミカヅチはビニールハウスの中にいた。

「もしもーし! おい、しっかりしろ! くっ……家族はどこだ!? 近くにいないのか!?」

 タケミカヅチの傍に倒れているのは、茨城県のトマト農家の男性である。ハウス内で作業をしていて、熱中症になってしまったらしい。意識がなく、身体が異常に熱い。直ちに処置せねば命にかかわる。

「止むを得ん! 身体を使わせてもらうぞ!」

 タケミカヅチは男性の身体に憑依し、水道のある場所まで走る。そして蛇口を全開にし、ゴムホースで頭から水を被った。

 同時に、男性の作業着のポケットから携帯電話を取り出し、水に濡れないよう注意しながら119番通報する。

 たまたま通りかかった通行人、というていで状況を説明し、発信地の確認が終わったところで、「急いでいるためこの場に居られない」と告げて通話を切る。

 それから身体を抜け出すと、男性の家に向かい、夕食の仕込みをしている女性を見つけた。介抱した際に男性の記憶を読んでおいた。この女性は五十年以上連れ添った妻だ。夫婦仲はたいへん良好。この人間なら、間違いなく神の警告に気付いてくれる。

「すまない! 緊急事態ゆえ、許せ!」

 椅子に腰かけて豆の鞘を剥く女性のすぐ傍で、ガチャンと大きな音を立て、飯茶碗を割る。

「えっ?」

 女性が流し台の水切り籠に目をやると、そこには粉々になった飯茶碗があった。

 なぜ割れたのか分からず、驚き、動揺する女性。するとさらに、箸立ての箸が真ん中からポキリと折れた。

「え、え、えっ!? 何? 何なの……?」

 続けて、戸棚に仕舞われていた漆塗りの椀がポーンと飛び出し、カラコロと床に転がる。

 飯茶碗も、箸も、椀も、すべてあの男性の愛用品である。女性はそれに気付くと、ハッとした顔で家を飛び出し、ビニールハウスに駆けていった。

「ふう……これで、どうにか助かるだろう……」

 このように、なぜか突然立て続けに物が壊れるときは、神が何かを知らせようとしている。明らかな経年劣化でない限り、誰の何が、どのように壊れたのか、よく考えてみることが肝要である。

 そんなこんなで本日三十八件目の人命救助を終えたタケミカヅチは、ようやくフツヌシに状況確認の連絡を入れた。

「おーい、フッくーん? 大雷の様子はどうだー?」

 念話で呼びかけてみるも、返事がない。

「……ふむ? やはり、『聖域』の内部までは声は届かんか……?」

 大雷より神格の高い神同士ならば、『聖域』の結界効果を無視して連絡を取り合えるはずである。が、タケミカヅチはこの事態にも、何の疑問も抱かない。

「ま、大雷は実力派だからな~! 俺とフッ君のホットラインも遮断するとは、また腕を上げたな! さすがは俺の妹分! ヌハハハハ!」

 誰に聞かせるわけでもない独り言でまで大雷自慢が飛び出す。これはインターネット等で『限界オタク』と呼ばれる状態に限りなく近い。『限界オタク』は推しが好きすぎて諸々の社会常識が吹っ飛びかけている、もしくは既に吹っ飛んでしまった人々なので、万が一にも遭遇してしまった場合には、非常に慎重かつ丁寧な対応が要求される。なお、大抵の『限界オタク』は対処を間違うとマジギレ推し語りモードに突入し、間違えなくても饒舌上機嫌推し語りモードに移行するので、一般人に回避策は存在しない。遭遇した時点で敗北が確定している。

 タケミカヅチの場合、大雷に関しては「まさにソレ」で、彼女を侍らせているときには口元はだらしなく緩み、まなじりは下がりっぱなし。その表情には軍神らしさの欠片もなく、あまりの有様にアマテラスやツクヨミから「少しは自重しろ」と注意されるほどだ。

 それほどまでに大雷を愛し、信頼しているからこそ、タケミカヅチは東京へ近寄らず、茨城県内で避難誘導と人命救助に当たっていたのだが──。

「バ鹿島ァーッ! おーい! 聞こえてっかぁー!?」

 突然聞こえた念話に、タケミカヅチは眉をしかめる。

「……聞き覚えのある声だが……」

「聞こえてんならさっさと返事しやがれ! このウスノロ!」

「なんの用だアホノジャク。貴様にバカシマ呼ばわりされる覚えはないぞ」

「ハァ? 大有りだろバーカ! 大雷って女、闇堕ちしたぞ!」

「フッ。何を言い出すかと思えば。また貴様の好きな嘘か? どうせならば、もう少しまともな嘘を……」

「信じたくねえならそれで結構! だがな、スカイツリーの近所には俺の『器』のダチ公どもが何人も住んでんだ。そいつらに何かあったら、俺はお前を許さねえ。鹿島神宮にカチコミかけて滅茶苦茶にしてやっからな! 賽銭箱にウンコされたくなかったら、さっさとスカイツリーに行きやがれ! じゃあな!」

 言うだけ言って、天邪鬼は念話を強制終了した。

 タケミカヅチが呼びかけてみても、既に二者間での通話は遮断されている。

「……なんなんだ、あいつは!」

 フンとひとつ鼻を鳴らし、スルーしようかとも思った。しかし、どうにも気になる。


 江東区、中央区の稲荷たちが聞いたという大雷の悲鳴。

 微かに感じたという、大雷以外の神的存在の気配。

 まったく繋がらないフツヌシとの念話。

 そして天邪鬼からの突然の連絡。


「……いや、まさか……」

 タケミカヅチは神使の霊獣・白鹿を召喚し、その背に跨る。

「近くの鹿島神社まで! 急いでくれ!」

「了解!」

 白鹿は力強く地を蹴った。




 その戦場は、フツヌシにとって悪夢も同然であった。

 『闇堕ち』と化した大雷は黒い稲妻を乱射し、付近一帯を停電させた。一般住宅もオフィスビルも工場も公共施設も、信号機や携帯基地局も、何もかもが一斉に電力を喪失する。

 八月某日、午後三時。この日、この時の気温は37.7度。大雷が降らせた雨により、湿度は100%となっている。体温以上の気温と不快な湿度の中、落雷による突然の停電だ。エアコンや照明器具はもちろん、テレビも固定電話も使えない。そのうえ基地局にも落雷しているため、大多数のスマホで通話とネット検索ができなくなっていた。状況を確認しようと、どの建物からも続々と人が出てきてしまう。

 ここはスカイツリーの裏手、押上二丁目都営アパートの敷地内。人の出入りが少ない奥まった私道であったため、これまでは何の問題もなく戦闘行為を継続できていた。だが、近隣住民が大勢出てきてしまうとなれば──。

「くっ……英霊召喚! 誰でもいい! とにかく全員出て来て! この辺りの人間を、全身全霊で守り抜け!!」

 召喚された英霊の数、なんと三万超。能力・年代・性別を問わず、フツヌシが召し抱える全ての英霊がこの場に呼び出された。彼らはフツヌシの指示通り、何も知らない近隣住民の護衛に着く。

 この時点で、フツヌシは力の大半を人間たちの安全確保に当ててしまった。本来の神格はフツヌシのほうが圧倒的に上であっても、この場の力関係は逆転している。大雷の放った黒い稲妻を真正面から受け止めるが、その場にとどまることができず、勢いに押されて数歩後退させられる。ビリビリと痺れる両手の感覚、焦げ付く手の平の痛みには、苦笑するよりほかにない。

「うっわ……嘘でしょ? この程度でダメージ来ちゃうの……?」

 後がないとはこのことだ。攻撃を避ければ人間たちが犠牲になるし、受け止めれば大ダメージを食らう。だが、フツヌシに迷いはなかった。

 人間は弱い。体のどこかにほんの少し傷を負っただけで、あっけなく死んでしまう。しかし、自分は神だ。たとえ四肢が千切れても、全身を劫火で焼かれようとも、すべての力を完全に使い果たさない限り、何度だって復活できる。

 どちらを犠牲にするかは、考えるまでもないことだった。

「大雷ちゃん! タケぽんじゃなくて、ホントーに申し訳ないんだけど……ゴメン!」

 フッと身を屈め、恐るべき速度で大雷に迫る。

 大雷は反応しきれず、フツヌシのタックルをモロに食らった。押し倒されながらも咄嗟に放った黒い稲妻はフツヌシに直撃している。が、フツヌシは構わず次の攻撃を繰り出す。

「戦時特装! 《ガネーシャ・オーバードライブ》!!」

 パァンと打った柏手かしわでひとつ。押し倒した大雷に馬乗りになったまま、フツヌシは自身の姿を変えた。

 それは富と幸運の神、ガネーシャの姿に似通ったいでたちで──。




 それから二十分後、現着したタケミカヅチが見たのは、あまりにも想定外な戦場だった。

「……これは……インドゾウ……か?」

 一瞬は上野動物園から脱走したかと思ったが、すぐに違うと気付く。まず、大きい。上野で飼育しているアジアゾウは体高が三メートル前後の動物だ。けれども目の前にいるゾウは、地面に横たわった状態でも身体の厚みが三メートル以上ある。きちんと立ち上がれば、地面から肩までの高さが十メートルを超えるのではなかろうか。シベリアのマンモスだって、ここまで大きくはなかったはずだ。

 タケミカヅチは白鹿の背に騎乗したまま、ゾウの周りをぐるりと一周する。

 ゾウは気を失っているらしく、白鹿が足先でつついても、何の反応も見せない。

「ふむ……? なぜ、このような巨ゾウが押上の都営住宅に? よくよく見れば、どことなくピンク色であるし……?」

 神使の霊獣・白鹿も、背中に乗せた神と同じ角度で首を傾げている。

 周囲を見回しても、五号棟の住人が集まって、冷凍庫の中身を心配しているだけだ。タケミカヅチが現着したとき、既に戦闘は終了し、英霊たちの姿は消えていた。この場の状況を見て経緯を推察するのは非常に難しいことだった。

「ええと……まあ、とりあえず、このゾウは人間たちには見えていない。すなわち神獣である……と。それは間違いないよな?」

 タケミカヅチが疑問形で同意を求めると、白鹿は主人の仮説を証明すべく、ゾウに鼻先を近付けて、スンスンとニオイを嗅ぐ。

 すると次の瞬間、白鹿は驚いたように飛び退すさり、野太い声で言った。

「大将! このゾウ、フツヌシ様ですぜ!?」

「なんだって!? 本当に!?」

「へい! フツヌシ様のニオイで間違いありやせん! こう、運動部の部室的な、ジムのロッカールーム的な……」

「俺の嗅覚では、何も感じないが?」

「神獣は鼻が利きやすからねえ! あとは洗っていない剣道着と、生乾きの肌着と、使い込んだ防具の臭いもしやすぜ?」

「あー……うん。それは、氏子の影響かもしれんな……?」

 ということは、武芸者や自衛隊員を守護する自分も、実は汗臭いのだろうか。タケミカヅチは着物の襟を掴み、おもむろに衣服の臭いを嗅いでしまう。

 するとここで、非常に残念な事実が判明した。

「なっ……なんということだ! このニオイは……っ!」

 ここに来るまでに、河原のバーベキューで肉や魚を焼く煙を浴びた。登山者を見守りながら、尾根付近のガレ場で砂埃を浴びた。踏切で立ち往生した老人と一緒に、線路沿い特有の鉄臭い空気を浴びた。それからも行く先々で窮地に陥った人を助けては、その場に立ち込めた煙や埃、汚泥、工業油、堆肥、納豆工場のニオイなど、様々な臭気に晒された。

 その結果、今、タケミカヅチの装束からは、何とも形容しがたい悪臭が漂っていた。

「くっ……こ、こんなニオイを漂わせた状態で大雷に近付いたら、ただのスメハラオヤジになってしまうではないか……っ!」

「大丈夫でさあ大将。上野のゴリラよりは全然マシですぜ」

「比較対象が完全にアウトだな! ああ! どうしよう! どこか最寄りの銭湯へ……いや、この辺りは停電しているんだよな? 水道も止まっているのか?」

「えーと……あ!」

「うん?」

 白鹿の視線を追うと、都営住宅の住民たちが空のバケツを手に、ごみ集積所に集まっていた。建物の中と別系統の水道であれば、断水していないのではないか。そんな思いで試しているのだろうが、彼らは蛇口をひねって首を横に振っている。団地内の設備の故障ではなく、もっと大元の、水道局の送水設備が止まっているらしい。

「うぬぅ~……風呂は諦めるしかないか……。それにしても、フツヌシが巨大なゾウさんで、大雷はどこに行ったか分からなくて、あたり一帯停電していて、俺は臭い。なんだ? なにがどうなっているんだ、この状況は……」

 詳細を説明してくれる誰かがいなければ、後から現着した者の認識はこの程度のモノである。気配を探ろうにも、大雷の『聖域』の効果が消えていないため、これだけ間近にいる相方の気配すら感じ取れない。人間同様、視覚や聴覚に頼って動くしかない状況だ。

「うぅ~む……まあ、考えたところで分からんものは仕方がないな。ひとまず、フツヌシを連れ帰らねばならんが……?」

 タケミカヅチは改めて、この状況の疑問点をまとめる。


 フツヌシは、なぜ巨大インドゾウになっているのか。

 こんな場所で気絶している理由は何か。

 大雷本人と交戦相手、いずれの姿も見当たらないのはなぜか。

 周辺エリアの稲荷たちが感じた『他の神的存在の気配』とは何だったのか。

 念話を寄越した天邪鬼は、ここで起こったことをどの程度把握しているのか。


 何から何まで、分からないことだらけである。しかし、目に見える脅威が無かったことから、二人はすっかり油断していた。

「大将。ご本人様から話を聞くのが、手っ取り早くて良いんじゃねぇですか?」

「ま、それもそうだな。おーい! 起きろ、フツヌシ! おい! 起きろと言うに!!」

「フツヌシ様ぁーっ! タケミカヅチ様がおいでですぜーっ! フツヌシ様アアアァァァー!」

「フッ君起きろ! フッく~ん! おーい! フ・ツ・ヌ・シィ~ッ!!」

 二人が大声で、フツヌシを起こそうとした時である。



 巨大インドゾウが、ドンと真上に撥ね上げられた。



「え?」

「あ?」

 反射的に上を向くタケミカヅチと白鹿。

 巨大インドゾウはスカイツリーを超える高さまで撥ね上げられ、ふっと動きを止めたかと思うと、今度は重力に引かれ、自由落下を始める。

「え、ちょ、おい! 待て待て待てぇ~いっ! 何が……っ!?」

「受け止めやすか!?」

「ああ! やるしかあるまい! ハアアアアアァァァァァーッ!」

 タケミカヅチは白鹿の背からひらりと飛び降り、頭上に防御壁を構築。墜ちてくる巨大インドゾウを受け止めようとした。

 しかしその時、タケミカヅチの無防備な胸元に、何者かが抱き着いてきた。

「うわっ!?」

 よろめくタケミカヅチ。動揺から、頭上に構築した防御壁の制御を誤る。

「っ! しま……っ!」

 タケミカヅチは分厚い防御壁をトランポリンのように使い、何度か弾ませて勢いを削いでから、ゆっくり地面に下ろそうと考えていた。そのためこの防御壁には、通常では絶対にありえない、非常に強い弾力がつけられていた。

 接触の直前、その防御壁の角度が変わってしまったことで──。

「あああぁぁぁーっ!? フッくんゴメエエエェェェーンッ!!」

 ポーンと宙を飛ぶ巨大インドゾウ。真上に撥ね上げるはずだった巨体は、明後日の方向へと飛んでいく。漫画であれば『キラーン』という効果音が書き込まれるような、見事な遠投である。

「た……大変だ! 霊感のある人間が、空を飛ぶピンクのゾウさんを目撃してしまうぞ!」

 何がどう大変なのか、言っている本人もよく分かっていない。

 動揺しすぎたタケミカヅチは、自分にしがみついた何者かへの対処を完全に忘れていた。チラリと視界に入った髪飾りでこれが大雷だと予想できたことも、対処を遅れさせた大きな要因である。


 大雷が無事でよかった。


 何よりもその思いがあったからこそ、フツヌシが撥ね上げられたことも、抱き着いてきたタイミングも、何一つ悪いほうへ考えていなかった。

 だからタケミカヅチは、何の迷いも疑いもなく、いつも通りの反応を見せてしまった。

「大丈夫だったか、大雷。何があった?」

 しがみつくように抱き着く大雷の、震える肩をそっと抱く。大雷が闇堕ちしている可能性なんて、これっぽっちも考えていない。

「大雷? どうした? そんなに強く抱きしめられると、いささか苦しいのだが?」

 そう言いながらも、振りほどこうとはしない。よほど恐ろしいことがあったのだろうと思い、落ち着かせるため、こちらからも強めの抱擁を返した。

 その時、タケミカヅチはようやく違和感を覚えた。


 何か、妙な臭いがする。


 自分の着物から漂う諸々のニオイのせいで、気付くのが遅れた。

 これまでに何度も嗅いだことがある。このニオイは、闇堕ちのみが放つ瘴気──他に類のない、それ特有の臭気である。

「っ! 大雷! 其方……っ!」

 顔を確認しようとしたが、できなかった。

 背中に回された大雷の手からは、真っ黒な根のようなものが伸びている。それはタケミカヅチの背中から首へと這わされ、襟元から着衣の下に入り込み、既に全身に広がっていた。

「……身体が……っ!?」

 どれだけ力を入れても、ピクリとも動かせない。呪詛や特殊能力の類ではなく、物理的に拘束されている。日本国最強の軍神が、純粋に『力負け』しているのだ。これは絶対にありえない事なのだが──。

「────ッ!!」

 黒い根はさらにあり得ない攻撃を仕掛けてきた。


 タケミカヅチの力を吸い取ったのだ。


 一瞬で全ての力を吸い上げられ、タケミカヅチは膝から崩れ落ちた。

 大雷はぐったりとしたタケミカヅチを抱きとめると、きつく抱きしめたまま、その場に座り込む。

「……タケミカヅチ様……やっと……やっと来てくださった……私のために……私だけのために……タケミカヅチ様……」

 虚脱状態のタケミカヅチの額に口付け、大雷は心底嬉しそうに微笑んだ。

 黒い霧は生じない。黒い雨も降っていない。

 望んだモノを手に入れて、大雷の心は満たされていた。

 意識ははっきりしている。髪も瞳も、肌も血肉も、どこを見ても大雷本来の姿を保ったままである。両手の指から伸ばされた黒い根以外、彼女の身体には、なにひとつ闇堕ちらしき症状は見られなかった。

 穢れによる暴走状態に置かれていないのならば、彼女はなぜ、こんなことをするのか。

 その理由は、タケミカヅチには分かっていた。

 触れ合う肌から流れ込む、大雷の本心。この黒い根のせいなのだろう。互いの心が丸裸に、なにもかもが、ありのままに伝わり合っている。

 言いたい気持ちも、言えない想いも、言ってはいけない秘めた言葉も。

 残酷なまでに通じ合ってしまった心の中には、虚しく、ただただ虚しく、昂る鼓動が響き渡っていた。


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