第13話 思い出せなかった日のこと
あの日――ひとつ目の事件が起きたのは、会社の時計が三時を回ったくらいのときだった。
「ホットじゃないんだ?」
給湯室に入ってきた真智子ちゃんが珍しそうに聞いてきた。
「うん、しばらくはアイスかな」
アイスティーをいれながら私は答えた。ホットティー好きの私がアイスティーをいれているのには訳があった。
「あ、そっかそっか。立川さんにホットティーかけちゃったこと気にしてるんだ――」
二日前――給湯室から席に戻るとき、つまずいて、持っていた紙コップからあつあつのホットティーがこぼれてしまった。それがよりによって、職場で最も恐れられている立川さんの手にかかってしまった。当たり前だけどめちゃくちゃ怒られた。
そういう訳で私はホットティーを当分飲まないことにしていた。
「立川さんに『なんでホットなのよ!』て言われてたもんね」
真智子ちゃんは立川さんの口調をまねてニッと笑った。
「うん、だからしばらくアイス。まだ立川さん怒ってるみたいだし。て、真智子ちゃんおもしろがってない?」
「全然! 沙羅ちゃん頑張れって思ってる!」
「……ありがとう、頑張る!」
「沙羅ちゃんとすれ違うときの立川さんの目、かなりヤバいから、しばらくはアイス飲んで大人しくしてるしかないね。アイスだったらかかっても大丈夫だし」
「全然大丈夫じゃないし。もう絶対にかけないし。やっぱりおもしろがってない?」
「ちょっとだけ」
「ひとごとだと思って~」
私は真智子ちゃんにそう言って、アイスティーの入った紙コップを持って給湯室を出た。私の席に戻るにはどうしても立川さんの席の後ろを通らないといけなかった。
真智子ちゃんが縁起でもないこと言うから変に緊張してくる。いったん止まって深呼吸をして。よし。気合いを入れて歩きだしたとき、
「佐藤さん、ちょっと」
「ひゃいっ!」
係長に急に呼ばれて足がもつれた。体勢を崩した私はそのまま転んでしまった。アイスティーの入った紙コップがスローモーションで、軽快にキーボードを叩いている立川さんに飛んでいくのが見えた。どうか立川さんにかかりませんように。私は目を瞑って神様に祈った。
「佐藤さん……?」
呼ばれて目を開けると、頭からアイスティーをかぶった立川さんの後ろ姿が見えた。ちょっと離れていても怒りに震えているのがわかった。混乱した私は、
「か、係長なんでしょうか!?」
「いやいやいやいや! 君、今僕に声かけるところじゃないでしょう!?」
「そそ、そうですよね!」
慌てて立川さんに声をかけた。
「す、すみません立川さん! 大丈夫ですか!?」
おもむろに振り返った立川さんはやっぱりめちゃくちゃ怒っていた。カッと見開いた目で、私と給湯室の真智子ちゃんを一瞥して、
「ん゛ーーっ!」
そんな掛け声とともに頭に逆さに乗った紙コップをくしゃりと握りつぶした。どど、どうしよう……!
「佐藤さん! それと、給湯室で見ている斉藤さん! あなたたち二人でおもしろがってやってるんでしょ!?」
「私は違いますまったく関係ないです!」
立川さんに、真智子ちゃんは給湯室からひょこっと顔を出して早口言葉みたいに言った。
「わ、私も違います! ただ転んだだけで……まったくわざとじゃないです!」
「わざとじゃなかったら、二回も紅茶をかけられることなんてないでしょ!」
「すみません……」
「それになんでアイスなのよ! 寒いじゃない!」
「い、今すぐタオルを取ってきます!」
「自分のタオルを使うからいいわ! 私、水で洗ってくるから!」
席から立ち上がった立川さんに、係長はしどろもどろになりながら、
「立川さん、いやあ、その、災難だったね! 今日はもう帰っていいからね!」
「いえ、今日中に終わらせておきたい仕事が残っているので!」
「あ~~そう! うんうん、そういうことなら立川さんに任せます、でもムリはしないようにね!」
どうも、と立川さんはスタスタと歩いていく。係長は私に、
「佐藤さん、ちゃんと足元に気をつけて歩かないといけないよ」
「は、はいっ! すみません気をつけます……」
「じゃあ佐藤さん、今日はもう帰ろっか!」
「え? 私もまだ仕事が残って――」
「いいからいいから、ね。この状況じゃあ仕事にならないでしょう。今日中にやらないといけない仕事は誰かに引き継いでもらって、あとは明日頑張ってもらうしかないね」
「は、はい、わかりました! あ、そういえば係長なんで私を呼んだんですか?」
「あ~~、そろそろ君が帰る時間じゃないかと思ってね!」
絶対ちがう……。
そんなふうに私は会社を早退することになった。帰る前に立川さんに謝りに行ったらもう一回めちゃくちゃ怒られた――
二つ目の事件は、私が会社から帰る途中で起こった。
そのまま家に帰る気になれなくて、一つ前の駅で降りて、しょんぼり私は歩いていた。曇り空で春にしては寒かったけど歩いているうちにちょうどよくなった。人通りは不自然なくらい少なかった。ふと歩くの疲れたなと思ったとき、川沿いの土手の桜の木の間に、ベンチが一つあることに気づいた。
あんなところにベンチあったっけ?
ちょっと不自然で気になったけど私はベンチに座って休むことにした。黄緑の葉をつけた桜の木をぼんやり眺めていたら、アイスティーのペットボトルが川に浮かんでいるのが見えて、立川さんのことを思い出してまたしょんぼりした。
あのとき転ばなかったら、あんなことにはならなかったのにな……。私の運動神経よくなったりしないかな。そうだ。真智子ちゃんに仕事任せちゃってごめんなさいってメッセージ送っておこう……。
スマホを鞄から取り出して、ぽちぽちメッセージを打った。そろそろ家に帰ろう。そう思ってベンチから立ち上がろうとしたとき、
「こんにちはっ!」
元気いっぱいの声が聞こえた。ちらっと見ると、白いワンピースを着た白い髪の女の子がいつの間にか私の隣に座っていた。
「へっ!?」
びっくりした拍子に私は転んで、土手をずさあと滑った。
あんまり痛くない、痛くないけど、お気に入りのコートが犠牲に……!
私もう、頑張れない。
「大丈夫ですよっ! あなたは頑張れますっ! あなたはまだまだ頑張れますっ!」
「あ、ありがとう」
私は立ち上がって、励ましてくれた女の子にお礼を言った。
「どういたしましてっ! あのっ、不躾だとは思いますがっ、よければ今から少しお時間をいただきたいのですがっ!」
女の子はニコっと笑いながら私の方へ近づいてくる。
髪が白くて瞳が青くて、白いワンピースを着て、サンダルで、ぐいぐい距離を縮めてきて……なんか嫌な予感がする!
「あの私、用事があるので……」
「ちょっ、ちょっと待ってくださいっ!」
走って逃げようとしたけど、右手をぱしっと掴まれた。
「きゃっ!? は、離してください!」
「そこをなんとかお願いしますっ!」
「しゅ、宗教の勧誘はちょっと……!」
立ち止まって手をほどこうとしたけど全然ほどけなくて、思いきり走って振りほどくしかないと思った。ぐっと地面を踏み込んで走りだすとすぐに手を振りほどくことができた。やった、ここから逃げられる! そう思った。でも、
「決して宗教の勧誘ではないですからっ!」
伸ばした女の子の手が背中にトンと当たった。その拍子に私は転んで、また土手をずさあと滑った。
つらい。土手の芝生がふかふかなのが不幸中の幸い……。
「わわっ!? 悪気はないですっ! 大丈夫ですかっ?」
「大丈夫じゃないです……」
なんとか体を起こして私は正座をした。逃げる気力がなくなってぐったりしている私の前に、
「このとおりですっ、あなたとお話をさせてくださいっ!」
女の子がしゅっと回り込んできて頭を地面に――
「て、土下座!? なな、なにしてるんですか!? やめてください!」
「嫌ですっ! どうしてもあなたとお話がしたいんですっ!」
「すみません、今から用事があるので……」
「暇そうにしてたじゃないですかっ!」
「ぜ、全然暇じゃないです!」
「そこをなんとか、ほんの少しだけでいいのでお話をっ! あっ、時間がっ! このとおりどうかお願いしますっ!」
女の子は涙目で両手を合わせたり、土下座をしたり。すごく必死なのが伝わってきた。ちょっと可哀想に思えてきた……。
「そうなんです可哀想なんです私っ、助けてくださいっ!」
話さないと帰してくれそうにないし、仕方がないのかな。
「……わかりました。五分くらいでいいですか」
「いいんですかっ!?」
「話をしたら帰してくれますよね?」
「もちろんですっ!」
女の子はなにもなかったみたいにスタッと立ち上がると、ニコニコ話しはじめた。
「とっても突然なんですがっ、お仕事を休みたいと思うことはありますかっ?」
「え? ありますけど……」
なんの質問なんだろう。会社はしばらく休みたい、立川さん怖い……。
「では長期で休めたらなにがしたいですかっ? あっ、そうそう旅行っていいですよねっ!」
「旅行いいですよね。私も長期で休みが取れたら旅行に行きたいです」
いつかヨーロッパに旅行に行きたいな。私の一番の夢。早くお金貯まらないかな。それと一緒に行ってくれるひとを見つけないといけないんだよね。海外はちょっと怖いから四人くらいで行きたいけど、ヨーロッパ旅行に興味がありそうなひと私の周りにいない……。
女の子は嬉しそうにぴょんと跳ねた。
「ヨーロッパっ! 私はとっても好きですよっ、ヨーロッパっ! 魅力的な観光地がたくさんありますから一度は行ってみたい地域ですよねっ!」
「はい! 私も一度行ってみたいです――ん?」
あれ? 私、この子にヨーロッパに行きたいって話した――?
「佐藤沙羅さんっ!」
この子に私の名前言った――?
「この度はお忙しいところお時間をいただいてありがとうございましたっ! それではまたっ!」
「あ、はい、それでは! え!?」
ピカッと光って辺りが真っ白になった。光が収まると女の子もベンチも、コートの汚れもなくなっていた。私はその場で膝を抱えて、ぼうっとしていたけど、五分くらいで寒くなってきて帰ることにした。
「こういうの白昼夢っていうんだっけ……あ、菓子折りとタオル買ってから帰ろう……」
家に帰ってリビングでぼんやりワイドショーを見ているとお母さんがパートから帰ってきた。
「どうしたの? こんな時間にいるなんて珍しいじゃない」
「今日いろいろあったんだ――」
お母さんに帰りに土手で会った女の子の話をしたら、明日も会社があるんだから今日は早く寝なさいって言われた。私はかなり早くにベッドに入った。でも疲れていたからすぐに意識がすうっと遠くなった。そして、うっすらあの女の子の声が聞こえてきた。
『沙羅さん、佐藤沙羅さんっ! いいえ、サラ・サトース王女っ! 準備が整いましたよっ! それではご希望……ご希望通りっ! ヨーロッパ風異世界での旅行を存分にお楽しみくださいっ!』
なに言ってるんだろう――そんなふうに思いながら私は寝てしまった――