山上道及対本多忠勝
佐野城の佐野宗綱は、度々の戦で上杉勢を退け領地を守り抜いてきたた強者である。一時期北条と結んでいたが今は敵対し、佐竹家と結んでいる。
勝頼は佐野城へ行く事を佐竹義重に伝え、つなぎを頼んでいた。そのおかげか一行は歓迎された。
「佐野宗綱でござる。お目にかかれて恐悦至極」
「武田勝頼である。佐野殿の武勇は聞いておる。無敗らしいな」
「田舎侍ゆえ、知恵で勝ち残っただけでござる」
「下野は武田の支配下となった。存じておろう。佐野殿は佐竹殿と結んでいるそうだが、武田家も佐竹殿、結城殿、それに上杉景勝殿と結んでおる。佐野殿の領地はそのままで、ここにいる穴山梅雪の与力として従ってもらいたい」
佐野宗綱は勝頼を見た。武田の勢力に逆らっては生き残れない。だがただ従えと言われて従うのもつまらん。そう、この男、ここまで負けた事のないという誇りがあった。
勝頼も宗綱を見た。あ、こいつ面白い。従わせるなら力を示せ、って顔してる。ちゃんとしないと今だけいい顔して裏切るかもな。
あ、そうだ。居るのかな、あの人。
「佐野殿。確か貴殿の家臣に山上道及というものがいなかったか?」
「ご存知か」
山上道及。前世であの前田慶次郞利益と並んで上杉景勝が家康に逆らった時に上杉家に雇われた浪人衆の最強武士の一人。勝頼がいつか会いたい人ベスト10に入る豪傑である。
「どうだろう、佐野殿の豪傑山上道及とそこの真田昌幸の家臣、本多忠勝と試合をさせてみないか。武田家には竹刀という竹で作った試合用の刀がある。あたれば痛いがな。余が戦ってもいいのだが負けると格好がつかないのでな」
「道及が勝ったら?」
「皆川城をやろう」
皆川城の当主皆川広照は宇都宮国綱の家臣だが北条に通じている。国綱が手を焼いており追い出すつもりでいた。宇都宮の領地だが、佐野の方が近いし宇都宮には代わりに何処か見繕えばいいだろう。皆川広照には佐野の妹が嫁いでいる。
佐野は面白い、受けましょうと言い山上道及を呼んだ。
「でっけー」
勝頼の第一印象である。プロレスラーにいそうなゴツイ男が現れた。はは、勝てるよね忠勝君。
山上道及と本多忠勝は竹刀を持ち睨み合った。お互いに こいつ、やるな と思っていた。
勝頼の合図で試合が始まった。
道及と忠勝の試合は凄まじかった。お互いに上段から竹刀を振り下ろし衝突し、弾けた。力と力、技と技がぶつかり合う。胴を払おうとすれば竹刀を弾き飛ばしカウンターの突きを狙う。それを交わし横面を狙うがしゃがんで交わされ、足元を狙われるが飛び上がって避ける。動きは素早く様々な型を使うがバランスは崩れない。双方とも休まない、攻めて攻めて攻めまくる。お互いの竹刀がボロボロになっても勝負がつかなかった。勝頼はいい物見たーと感激し、試合を止めた。
「やめい、二人とも見事だ」
「お屋形様。ゼー、ゼー、 未だ勝負はついておりませぬ」
「武田様。ゼー、ゼー、 それがしは負けて、ゼー、ない」
「わかった。わかった。だが二人共、息が上がっておるぞ。いい勝負だった。両者勝利とする。佐野殿には皆川城を差し上げよう」
佐野宗綱は勝頼の男振りに驚き、これなら良いかと勝頼に礼を尽くすようになった。
山上道及と本多忠勝は未だ納得せず見合っていた。
「いつかこの決着をつけようぞ!」
「おう、首を洗って待っていろ」
こらこら、お前らが戦う展開はダメだろ。え、これもフラグ?
佐野城を出て、穴山梅雪へは館林城を攻略後兵を少し残し、駿河へ帰国するよう指示した。準備でき次第下野へ引っ越すように付け加えた。穴山は駿河帰国後、江尻の城を後を収める曾根昌世に引き渡し、駿府へ嫡男の勝千代を人質として差し出した。これはこの時代では当たり前の事で人質の意味もあるが主君を信頼して預け、将来取り立ててもらう意味の方が大きい。下野へ旅たつ前にお市と面会した。勝頼から伝言を預かっていたのである。
「穴山殿。下野へ行かれるとか。これで大名ですね」
「武田の家臣として関東を収める拠点、下野へ赴く事は重大なお役目と思っております。それがしを信頼して頂き誠にありがたく一命をかけて成し遂げる所存」
「上野、武蔵へも重臣の方々がお住みになるとか。それぞれに誇りや意地もおありでしょうが、お屋形様は皆が連携して一つの武田だとおっしゃっておいででした。お互いに連絡を取り助けあって下さいね」
「ありがたきお言葉。心に刻みこみました。ところでお屋形様から伝言がございます。それがしには意味がわからないのですが」
「なんとおっしゃっておりましたか?」
「佐野にいる。羅亜面作ってくれと」
『何言ってくれちゃってんの、あの野郎!』 (心の声です)
市は、できるか、こらぁと顔に怒りが現れたが、冷静になり
「お屋形様がそう言ったのですね。わかりました。もしお屋形様にお会いする事がありましたら市がわかりましたと言っていたとお伝えください」
穴山は何の事かわからなかったが、伝えたからいいかと思い、そして家臣の家族とともに下野へ移動した。
お市は翌日から造船所の研究室へ住み込み、諏訪の格さんとも連絡を取り何かを作り始めた。
勝頼一行は佐野城を出て足利城へ向かった。足利には日本最古の学校、足利学校がある。実は前世では母方の祖母が足利に住んでいて観光地の足利学校へ行った事があったので、寄ってみたかったのである。兵を渡良瀬川の河原、鑁阿寺周辺へ配置し、少数で足利学校へ向かった。
足利学校では、坊主が子供や大人に書物を使い勉強を教えていた。学校には莫大な書物があり、活気に溢れていた。
これも縁だなと勝頼は学校へ寄進し、鑁阿寺へ寄った。坊主から周辺に情報を聞いたところ、足利城の長尾家は北条と結んでおり、佐野家とは敵対しているそうだ。
寺を出て足利城へ向かった。