信廉逝く
馬場美濃守。久々の登場である。鬼美濃と恐れられた猛将は、石川数正、酒井忠次とともに岡崎城を守っていた。今のところ織田勢、いや羽柴勢が三河に攻めてくる気配はない。馬場は、三河、飛騨の国境に注意を払いながら勝頼の東北仕置きが終わるのを待っていた。そこに茜が現れた。茜は信玄公の元側女、馬場美濃守も面識があった。今、茜は武田忍びの長である。
「馬場様。大殿の戦が終わりました。穴山は切腹、下野は取り戻しました」
「そうか、やっと終わったな。だがこれからが本当の戦だ。天下取りのな。で、大殿は?」
「信廉様のお見舞いに古府中へ向かわれました。馬場様へは引き続き警戒を怠るなと。それと、私には秀吉と柴田勝家の戦を見届けよと」
そう、賤ヶ岳の戦いと言われた戦がこの時代でも起きようとしていた。柴田勝家は越中に佐々成政を残し、それ以外はほぼ全軍で秀吉戦に臨もうとしていた。
勝頼は小山城の調査を信豊へ命じ、自分は古府中にいる信廉に会いに向かった。まだ戻ってきてから会えていない。失踪中は大変な思いをされたようでお見舞いに行きたかったのである。
真田昌幸は信勝に願い出て黒川城へ向かった。蘆名へは昌幸の次男、源二郎信繁がなぜか養子に行き、真田家で一番の領地持ちになっていた。頭のいい息子ではあるが心配で見に行きたかったのである。ついでに米沢まで行き、山県昌景と今後の話もしたかったし、勝頼から伊達小次郎がどういう政治をしているかを見てくるようにも言われていた。忍びの報告だけでなく、昌幸の目で見てこいという指示だった。
小山城は信豊に与えられた。結局宇都宮国綱は命はゆるされたが、佐野城一つに領地をへらされた。結城へは真岡が与えられ若干の加増、佐竹には武蔵の一郡が加増された。宇都宮城は原昌胤へ与えられた。下野は信豊と原が支配することになった。
三河は馬場美濃守、遠江は真田昌幸、甲斐は信廉、上野は跡部、内藤。信濃は真田信綱、昌輝兄弟と室賀に。飛騨は秋山、木曽氏、小笠原氏に。駿河は信勝直轄。伊豆は土屋率いる海軍に、武蔵の一部(江戸)を信勝直轄地とし、残りを曾根と、そう、八王子、滝山を織田信忠に与えた。ちなみに諏訪、伊那と大崩は勝頼直轄である。曾根には相模の一部も与えた。北条が武田の配下になると言ってきて了承したのである。
北条は小田原城を失った。城を立て直す余力もなく、相模半国を残し武田の加護を得て生き残る事にしたのである。
賤ヶ岳の戦いが起きる前に織田信忠の生存を世間へ知らせた。勝頼は主な大名に文を出した。勿論、忍びの足で高速便として。
『ご縁があり、織田信忠殿を当方でお預かりしている。織田家と武田は協定を結んでおりそれは信長殿亡き後も、正式な織田家当主、信忠殿にも有効である。現在、織田家内では争いが起きているようで、仮の当主であられる信雄殿、それを操る羽柴秀吉殿、敵対している柴田勝家殿がいる織田家には戻れず、一時お預かりしている次第。織田家が落ち着いたところでお帰り頂こうと考えております。』
島津、大友、毛利、長宗我部、上杉、そして宇喜多、細川、筒井。また柴田勝家や前田利家、佐々成政へも。当然黒田官兵衛、織田信雄、羽柴秀吉にもだ。
賤ヶ岳の戦いで前の歴史と違うのは既に滝川一益と丹羽長秀、織田信孝はこの世にいない。つまり織田兄弟の争いは起きない。丹羽長秀が若狭から邪魔しないので勝家は動きやすい。一益がいないから伊勢で戦は起きない。そして、織田信忠が生きている事を皆が知った。さあどうなる?これで戦が起きるのか?勝頼は秀吉がどう出るかを見たかった。それにより今後の戦い方は変わっていく。
勝頼は茜筆頭の武田諜報網、服部半蔵の伊賀勢に織田家の様子を探らせつつ、自分は古府中へ到着した。躑躅ヶ崎の屋形には今は信廉が住んでいる。
「叔父上。勝頼が参りました」
信廉は衰弱し床から出る事が出来なかった。
「お屋形様。いや大殿。わざわざお越しいただき………」
「叔父上。不在中ご苦労されたと聞いております。誠に申し訳なく。小山田は腹を切り、息子が忠臣を訴えたので継がせました。穴山も腹を切りました。残るは五郎だけとなりました」
「そうですか。もうわしは長くないでしょう。わしの墓は古府中にお願いします」
「そんな気弱でどうするのです。ご隠居し、身体を休めて下され。叔父上、いやお子の麟岳殿へこの甲斐を治めていただきたくお願いに参ったのです。拠点を移したとはいえ、武田の故郷は甲斐でござる。是非ともお納め頂きたく。」
勝頼が面会した七日後に信廉は息を引き取った。その死に顔は晴れやかだったという。