信忠の行方
秀吉は光秀の首を持ち、自陣へ引き上げた。秀吉の顔を見て安心した信忠はその違和感に気づかなかった。首は信忠に預ける物だ、持って帰る事自体おかしいのである。それに気付いたのは滝川一益だけだった。
「丹羽殿。おかしいとは思いませんか。秀吉が光秀の首を持って帰ったのですが」
「何だと。首は証拠だ。猿め、何に使う気だ。一益、よくぞ気付かれた。これは本当にあるかもしれんぞ」
その話は滝川の陣にいた本多忠勝にも聞こえてきた。忠勝の横には服部半蔵、そして今は信忠に仕えている沙沙貴綱紀がいた。
「半蔵、どうやら大殿の心配していた通りになりそうだ。一番あって欲しくないやつだ」
「秀吉の軍は三万。勝ち目はありませぬ」
「だが逃げる事すら難しいぞ」
「その為に我らがいるのです。既に手配は済んでおります。ただ、うまくいけばですが。本多様にはその剛腕を奮っていただかないと」
時間がない、忠勝は信忠にお目通りを申し出た。
「信忠様。勝頼公の心配が現実になりました。今すぐ我らと一緒にお逃げください」
「何を言っている。秀吉は従順であったぞ、ん、まさか。あやつに騙されたのか。わかった。案内せい。」
信忠は気付いた。その時、丹羽長秀と滝川一益が飛び込んできた。
「上様、お逃げください。秀吉は光秀の首を持って帰りました。首がいるという事は、自らが使うという事。つまり我らが邪魔になるはずです。我らが食い止めます。その間に」
「お前達も一緒に来るがよい」
そこに本多忠勝が口を挟んだ。
「皆は無理です。丹羽殿、滝川殿の言う通りに。勝頼公が伊勢に船を用意しておられます。そこまでは伊賀者に案内させます。それがしも護衛致します。一刻を争います」
城の外から銃声と馬に嘶く声がした。
「しまった。もう来やがった。行くぞ、一益」
丹羽長秀は外へ駆け出していった。これが丹羽、滝川との別れとなった。丹羽長秀は籠城の構えを取った。時間稼ぎである。その間に城の裏手から信忠一行が逃げ出した。ところが、それは秀吉に読まれており筒井順慶軍が待っていた。そう、筒井順慶は秀吉と通じており、明智残党を狩るという言い訳で、実際は信忠を逃さぬよう勝竜寺城を囲んでいた。信忠は逃げた。包囲網を抜けて琵琶湖方面へひたすら走った。それを筒井軍が追いかけ追いかけ、大津の辺りで捕まった。信忠は小舟に乗り、これまで、と叫び琵琶湖の中へ入っていった。それを追い、見張る筒井軍。筒井順慶は、城から明智の重臣が逃げるから首を取るように家臣に命じていた。幸い、城の背後に配置した部下は信忠の顔を知らない。筒井軍は追っている相手が織田信忠とは知らぬまま追い詰めていた。
そう、この信忠は伊賀者が用意した影武者だった。本物の信忠は頭を丸め坊主に化けて、包囲が緩んだ隙に伊賀者と忠勝に護衛されつつ伊賀方面へ向かった。
影武者は琵琶湖上で護衛の者に首を切らせ、護衛は首を持って小舟で逃げた。それを追った為筒井軍は間延びし、城攻めから遠ざかってしまった。
秀吉は自陣に戻って官兵衛に城の警備を説明した。大した事はない。兵も疲れ切っておる。予定通り殲滅するぞと言って兵を集めさせた。光秀の首はここにある。信忠は妙覚寺で死んだ、事にする。丹羽長秀達は明智に敗れた、そこを秀吉が戻って退治し、逆賊光秀を討ち滅ぼした、事にする。
それには、根こそぎ殺す、虫一匹逃してはならぬ。
兵には、勝竜寺城にいるのは織田軍だ、だが、逆賊明智日向に味方した叛逆者だ。叛逆者が我らに抵抗しようとしている。上様の仇ぞ、迷わず殺せ!といい、陣取りさせた。
城攻めが始まった。多勢に無勢、籠城したところで長くは保たない事は双方わかっていた。丹羽長秀は、誰か助けが来る事を祈っていた。勝家、細川、誰でもいいから秀吉を止めてくれと。火矢が飛んできて城が燃え始めた。黒田官兵衛の策で証拠隠滅である。全て燃やしてしまえと。
翌日、勝竜寺城は燃え尽き、城にいた兵も全員殺された。信孝、丹羽長秀、滝川一益、蒲生親子も城と一緒に燃えてしまった。筒井軍を欠いた織田軍は脆かった。
信忠の影武者の首は琵琶湖に沈んだ。逃げた兵が首に重しをつけて沈めたのである。筒井軍は首を諦めざるを得なかった。
秀吉は事後処理に追われた。まず、怪しそうなものは全て燃やした。そして、全国に文を出し、柴田勝家にも今後の事を相談したいので清須へ来るように頼んだ。
全ての人々に、この戦いでは織田軍は明智軍に負け、その勝った明智軍を秀吉軍が討ち滅ぼしたという情報を擦り込んだ。
一つ気になるのが信忠の行方である。焼け跡には信忠らしき燃えかすはなかった。琵琶湖へ逃げて沈んだ話も聞いたが、信忠にしては無様だ。あの本能寺周辺から逃げたのならここからも逃げられる?だが手段がわからん。取り越し苦労と思う事にした。
本物の信忠一行は落ち武者狩りに脅かされ、何度も死ぬ思いをしたが、本多忠勝の活躍で何とか凌いだ。沙沙貴綱紀は信忠をかばって命を落とした。享年60、最後に勝頼に会いたがっていたが叶わなかった。伊賀まで来ると、服部半蔵の手の者が道案内と護衛をしてくれたので多少楽にはなったが、度重なる戦で職を失ない、落ちぶれた山賊があちこちにいて伊勢に出るまでは闘いの連続であった。
事の真相を知る数名が伊勢にたどりついた。伊勢には武田水軍の船が待機していて、そのまま駿府まで移動した。
「勝頼殿。というわけです。秀吉に全て攫われました。それとお助けいただきありがとうございました。お松の命まで」
信忠は勝頼に心の底からお礼を言った。武田の船の中に、岐阜城に居たはずのお松が居たのである。
「お松は余の妹だ。助けて当たり前であろう。それよりすまん。出陣していて兵がいない。清須に信忠殿を連れて行けなんだ」
ここで急いで清須に行けば清須会議で大逆転できるかもしれない。だが、今の信忠はそこまで行く力がない。秀吉は信忠の遺体がない事に気付くだろうか?影武者はバレるか?わからないが最悪のケースで考えれば、信忠は清須に着く前に死ぬ事になる。秀吉の手のものが尾張に入った後で待ち構えているだろう。
それを防ぐには勝頼が軍を率いて清須に行けばいいのだが、今は自領を守る兵しか残っていない。
これが吉と出るのか凶と出るのかはわからないが、信忠は清須へは行けない事となってしまった。
まさか、俺が清須に行けないのも秀吉の作戦じゃあないよね?どこまで読んでるんだ、あの猿は。
「助けていただいたこの命。どう使うかしばらく考えたいと思います。それがしの忍びも今回駿府に同行しておりますので情報を取りつつ思案致します」
「信忠殿の忍びとな。織田家の忍びといえば沙沙貴綱紀という者がいなかったか?」
「沙沙貴は今回、それがしを庇って死にました。沙沙貴の娘が今回同行しております」
「そうか。綱紀が逝ったか。駿府に墓を建ててやろう」
勝頼は半蔵に言って、川根の伊賀村に墓を作るよう命じ、信忠の忍びも川根に住まわせるよう指示した。