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黄昏色の魔導士  作者: 雨森 千佳
第二章 自警団
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32 ベン教授の蜜語

 ベン教授は寡黙な男だった。授業など、知識を語る場では少しは雄弁になれるようだが、私生活に関しては何も語らない。独り身で仕事だけの生活のため、語るべきこともないのかもしれない。

 この男の良いところは、見ているだけで満足してくれることだ。そこがチャド教授との大きな違いだとシュラルは思った。触れたら最後、シュラルが離れていくと分かっている。

 今も、執務机で本に目を通しているように見えて、歩く度に揺れるシュラルのスカートの裾を目が追っていた。気付かぬふりをして、シュラルは茶の用意をした。

 茶器の中に、故国から送られてきた薬を混ぜる。シュラルの、今年最後の仕事だ。


「教授、お茶を淹れたので休憩なさってください」


 シュラルが声をかけると、ベン教授は返事もせずに立ち上がり、シュラルのそばにあるソファに腰掛けた。その顔はむっとしていて機嫌が悪そうに見える。しかし、伏し目がちな時はその内心は逆なのだと既にシュラルは知っていた。今、彼はシュラルに近付く口実ができて喜んでいる。それを隠そうと努力した結果がこの表情なのだ。

 ソファの足元にあるローテーブルにカップを置き、ポットの中身をゆっくりと注ぐ。そうしている間、彼の視線が己に注がれているのを感じていた。

 たっぷり時間をかけて注ぎ終え、顔を上げると目が合った。視線を泳がせる彼に、何も知らぬ風に微笑んでみせる。開いた襟元の奥を覗こうとしていたことを、当然彼女は知っていた。


「グラネア帝国にいる親戚から貰った茶葉なんです。お口に合えばいいのですが」


 ベン教授はカップを手に取り、それに口をつけた。彼の喉を薬が通っていくのを見守る。後は、薬が効くのを待つだけだ。

 彼は、シュラルに勧められるがままに二杯目の茶を飲んだ。

 時間が経つほどに、ベン教授の体から力が抜けていく。だらしなくソファにもたれかかり、眠る直前のようなぼんやりとした目は無遠慮にシュラルに向けられる。事前に聞いていたとおりの効き目が現れてきていた。

 いつ話を切り出そうかとシュラルが迷っていると、寡黙なはずのベン教授が唐突に喋り出した。常なら考えにくいことだった。


「おめでとう」


 何の話かと、シュラルは小首を傾げてみせた。

 彼の視線の先を追って、シュラルは胸元で輝いている銀色のバッジに指先で触れた。数日前に手に入れた、一級魔導士であることを示すバッジだった。


「ありがとうございます。ベン教授のおかげです」


 それは間違いなかった。彼がいなければ、一級魔導士など到底無理だっただろう。そもそも彼女は、二級魔導士になる能力すらないのだから。

 それだけではない。ベン教授は、シュラルをこの研究所の研究員に推薦してくれた。そのおかげで、春から彼女はここの研究員になる。

 心の中で笑いが止まらなかった。なんて愚かなのだろう。いい歳の男が、若い女に誑かされてまんまと罠にかかったのだ。こんな男に権力を与えているのだから、この国の程度も知れたものだ。

 そんな嘲りを一切外へ漏らさず、シュラルはあくまで控えめで真面目な人間を演じていた。


「君の素性を、騎士団が探っている」


 ぴくりと、頬が動きそうになった。


「グラネア帝国からの移民というが、それが真実かどうかを。だが、帝国側で裏付けが取れたらしい」


 当然だ。グラネア帝国は、ガーデザルグ王国と協力関係にある。表向き、グラネア帝国はスタシエル王国と和平を結んでいるが、こんな小国がどうなろうが構わない。ガーデザルグ王国と手を結んだ方が利益があると分かれば、そちらに味方するだけのこと。


「忌々しいあの男。研究生の頃から、あの澄ました紫色の目が気に食わなかった。呪いで死んでいればよかったものを……君のような、美しい人を疑うなどと」


(その男の方が、どうやら能力は上のようね)


 望んでいた研究ではなく教育を押し付けられ、こんなところで燻っている男だ。その鼻の利く男より数段劣るのだろう。だが、その方がシュラルには都合が良かった。

 ベン教授は、いよいよ眠りそうな具合だった。もう頃合だろう。今なら、彼は何でも喋ってくれる。そして薬が抜けた時には、何一つ覚えていない。

 シュラルはベン教授のそばに寄り、エドヴァルド王子の代わりに問いを投げかけた。


「スタシエル王国は、日没の矢が隠れている場所を知っているのですか?」

「……知っている。この国の中枢を担う、王の臣下達だけが把握している。それから――日没の矢が狙う、エリク王の子孫が」

「エリク王の子孫? 本当に存在するのですか?」

「する。国は絶対に認めないが、王は子を残した。日没の矢はそれを知らなかった。百年近く経ち、七日夜でその子孫が現れた時、日没の矢は混乱した。紫色の目の人間を狙うのは、その者が本当に子孫だからではない。血が薄くなり追えなくなってしまったが故に、場当たり的に殺しているだけだ」


 目を閉じてしまいそうになる教授の手に、シュラルは手を重ねた。彼はびくりとした。だが、まだ薬で虚ろな目をしている。


「では、教授はその場所をご存じないのですね?」


 皺の寄った手を、白く滑らかな指で撫でた。教授の顔が、とろけるような、情けない笑顔になる。


「知らない。だが待ってくれ。これは私の憶測だが」


 まるでエサを前にお預けを食らっている犬のようだ、とシュラルは思った。自分はこんなにできるのだから、褒美をくれ、と。


「魔術品は――特に、古くなってしまっている日没の矢は、揺さぶりに弱い。七日夜のようにエリク王に似た者が現れたり、精霊の激しい動揺が伝わるようなことがあれば、きっと姿を現すだろう」


 憶測は憶測だ。どこまで正しいか、シュラルには判断できなかった。


(いいわ。この情報から何を考えるかは、エドヴァルド王子の仕事だもの)


 ベン教授はだらしない笑みをそのままに、目を閉じた。


「美しい。ああ、夢の中でくらい、もっと」


 徐々に呂律が回らなくなってきた彼から、シュラルは離れた。もう用は済んだ。今後、この男に関わる必要もないだろう。

 今の話をエドヴァルド王子が聞いたなら、この国はどうなるだろうか。何かが起こりそうな予感に、シュラルはぞくぞくと体を震わせた。彼女にとっては対岸の火事に等しい。危ない時には、故国へ帰ればいいのだから。

 幻と蜜語を交わしているベン教授を気にも留めず、シュラルはその場を後にした。

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