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黄昏色の魔導士  作者: 雨森 千佳
第二章 自警団
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08 自覚

 一年ぶりに見る研究所は、沈み始めた日の光で赤く染まっていた。

 門をくぐり、寮へと向かうフィーナの足取りは軽い。肩の下まで伸びた栗色の髪が、彼女の気分を表すかのようにふわふわと揺れていた。

 レツに話したいことが山ほどあった。手紙のやりとりはしていたが、顔を見てお喋りがしたい。


 ポーセではたくさんの収穫があった。向こうでのパートナーは協力的な子で、星舞は無事できるようになったし、新しく色んな魔法を覚えた。セイが向こうで元気にしていることも伝えたい。それに、ポーセで彼女は新しい夢を見つけたのだ。

 荷物を置いたら会いに行こうと考える。彼の居場所は大体決まっている。この時間なら、庭のどこかか資料館のどちらかだろう。

 そう思って寮に入ろうとしたところ、入口でカーラと鉢合わせた。お互い、ポーセから実家へ直接帰ったので、ポーセで別れて以来だった。


「カーラ。もう戻ってたのね」


 カーラはフィーナの顔を見ると、途端に顔が曇った。彼女の手を引いて、寮へは入らずに建物の脇に回る。周囲に人がいないのを確かめてから、カーラはようやく口を開いた。


「フィーナ……あなた、聞いた? あの人のこと。あの、紫色の目の」

「レツのこと? 二級魔導士の試験に合格したのは、手紙で教えてもらったわ」


 カーラは首を振った。


「そうじゃなくて。強制退所になったの。皆噂してるわ」


 フィーナはぽかんと口を開けた。


「いつ? どうして?」

「二日前だって聞いたわ。それで……あの、あなたのパートナーを襲ったって。それでだって」

「……そんなの、あるわけないわ」


 頭がくらくらしてくる。

 手紙で読む限り、彼に変わった様子はなかった。会わない内に変わってしまったのだろうか。いや、変わるにしたって、そんな変わり方があるだろうかと、頭の中で疑問と否定と肯定が混ざり合う。


「私は聞いただけなの、昨日着いたばかりだから。私が着いた時には噂が広がってて……その、あなたに近付いたのも、あの人を狙ってたからじゃないかって」

「そんな! 私から声をかけたのよ!」

「私に言わないで。皆がそう噂してるだけよ」


 カーラが困った顔をしているのを見て、フィーナは一つ深呼吸した。


「そうよね……ごめんなさい」


 彼女に当たってもどうしようもない。彼女は教えてくれているだけなのだ。

 今までだって、カーラはレツに対する偏見を口にしたことはなかった。


「ルイは?」

「見当たらないわ。もしかしたら部屋にいるのかもしれないけど、男子寮へは確かめに行けないし」


 まだ帰っていないのかもしれない。手紙には、それぞれの故郷を見に行くと書かれていた。ノーザスクよりサイベンの方が距離があるので、帰る日がずれることは十分考えられる。

 ルイがいないとなると、話ができる人物はシュラル以外にいない。


「シュラルと話してくる」


 カーラは何か言いたげな顔をしたが、黙ってフィーナを見送った。

 速くなる鼓動をそのままに、フィーナはカーラを置いて寮に入り、一年ぶりの自分の部屋へと向かう。

 何かの間違いだと否定しつつも、ほんの少しだけ「もしかして」と疑っている自分が嫌になる。とにかく、確かめないことには何も分からないと、フィーナは努めて考えないようにした。


 部屋の扉に手を掛け、二度、深呼吸する。自分の部屋に入るというのに、彼女にはとても勇気が必要だった。

 ノックをして扉を開ける。中での話し声がぴたりと止まった。

 狭い部屋なので、探す必要はなかった。椅子に腰掛け、ラウハとお喋りをしていたらしいシュラルは、すぐに彼女の視界に飛び込んできた。


「あら、おかえりなさい。一年ぶりね」


 フィーナの姿を見て、シュラルは満面の笑みを見せた。うっとりするような美しさだった。少女としての可愛らしさから、大人の女性としての色気へと変わりつつある。

 やけに機嫌の良い様子に、フィーナは少し苛立ちを覚えた。

 荷物を置き、手に滲んだ汗をこっそり拭う。もう一度だけ深呼吸をして、フィーナは口を開いた。


「噂を聞いたわ」


 その言葉に、シュラルは一瞬怯えた表情を見せ、俯いた。さらりと流れた黒髪が作る影が、彼女を一層儚げに見せる。

 少し唇が震える。しかし、フィーナは言うことを止めなかった。


「でも、私は信じてないわ」


 そう言ったならば、シュラルは悲しげな顔をすると思った。「信じてくれないなんて酷い」と。だがフィーナの予想に反して、シュラルは気遣わしげな様子で一つうなずいた。


「分かるわ」

「……何が分かるっていうの?」

「信じたくないっていうあなたの気持ち」


 フィーナは眉根を寄せた。そんなフィーナの顔を見ても、シュラルは相変わらず気遣うような優しげな笑みを崩さない。


「好きな男の子の心が他の人にあるなんて、辛いもの」


 フィーナはぎくりと体を震わせた。心臓の音がうるさい。まるで耳のすぐそばで鳴っているようだ。


「……違うわ」


 それだけを言うので精一杯だった。


「ごめんなさい。あなたの恋を奪うつもりなんてなかったの。本当よ」

「違うったら! ただの友達よ!」


 シュラルはついと立ち上がり、前に出た。思わず後ずさる。


「フィーナ、落ち着いて」

「落ち着いているわ!」

「あなたの……パートナーであるあなたのためなら、私、辛くてもちゃんと説明するわ」


 滑らかな白い指が伸びてきて、フィーナの頬に触れた。甘い花のような香りが鼻をくすぐる。近くで見るその唇は赤く色付き、妙に艶めかしい。


「最初に、彼が私の――」

「やめて!」


 たまらず、フィーナはシュラルを突き飛ばした。よろめいた彼女の肩を、すかさずラウハが支える。


「あなたの言うことなんて信じないわ!」


 吐き捨てるようにそう言うと、フィーナは部屋を飛び出した。

 当初の目的は既に彼女の中でどこかへ行ってしまっていた。

 頭を下げて廊下を駆ける。今は誰にも、この顔を見られたくなかった。


 どこへ行こうと考えていたわけではない。足は勝手に慣れた道を辿っていた。

 着いてみれば、結局いつもの場所だった。資料館のそばの、林の入口。乱暴に木の根元に座り込み、フィーナは膝を抱え、その膝に額をつけた。


(最悪よ)


 堪えていた涙が溢れてきて、彼女の膝を濡らしていく。

 以前もこうしてここで泣いてしまったことを思い出した。師匠であるミーシャが亡くなった時だ。あの時、ぎこちないながらも慰めてくれたのは彼だったが、今回ばかりは望めなかった。そもそもどんな顔をして会えばいいかも分からないが。


 自分はどうして泣いているのだろう。

 レツがいなくなったからだろうか。噂を否定しつつも、疑ってしまったからだろうか。こんな形で自分の気持ちを自覚したからだろうか。


(会いたいけど、会いたくない)


 一目見て、自分の知っている彼だと安心したかった。だが一方で、自分の知っている彼でなくなっていたらどうしようと、たまらなく不安だった。

 名前を呼ぶと、控えめに笑ってくれるその顔が好きだった。同じ本を読んで、感想を言い合う時間が好きだった。ルイと練習している時の真剣な横顔が好きだった。呪われているというが、その目の紫色が好きだ。夕暮れ時になると、いつも空にその色を探してしまう。

 一年前、彼の苦手な甘いお菓子を渡してしまって、弁解する彼の言葉の中の「好き」に動揺してしまったことを思い出す。きっと特別な意味なんてない、友達に対するのと同じ意味だっただろうに。頭では分かっていても、彼女にはそれが嬉しくて幸福だったのだ。


「フィーナ」


 自分の前に誰かがしゃがんだのが分かった。ゆっくり顔を上げる。きっとひどい顔をしているだろうと思った。

 もうすっかり日は沈みきって、辺りは真っ暗だった。それでも、僅かな月明かりで金の髪と琥珀色の目は輝くように明るい。

 ルイが帰ってきた。そう思うと、フィーナは張り詰めていた糸が緩むのを感じた。勢いが落ちたと思っていた涙が、また溢れてくる。


「……私、レツが好きなの」


 彼は、あからさまに呆れた顔をした。


「本人に言ってくれ。俺は伝えたりしないぞ」

「……いないの」

「いない?」

「ここを、追い出されたって」


 ルイは寮の方へと視線を向けた。彼の気配を探しているのかもしれない。ややあって、ルイは再びフィーナの方へ向き直った。


「どうして?」


 フィーナはかぶりを振った。


「分からない。噂はあるけど、信じてないの。信じないわ」


 ルイは逡巡した後、魔法で小鳥を作り出した。暗い中でよく光る、白い鳥だった。ルイの指先に止まっていたかと思うと、すぐに飛び立っていく。

 ルイはそれを見送ると、立ち上がった。


「とりあえず寮に戻った方がいい。まだ冷える」


 自分の部屋には戻りたくなかった。カーラのところにお邪魔しようかと考える。彼女には迷惑をかけて申し訳ないが、シュラルと同じ部屋で同じ空気を吸うことに耐えられそうになかった。

 のろのろと立ち上がり、気は進まないが寮へと歩く。足が重い。


「……ルイは、噂を信じる?」

「俺はまだ、その噂のことは何も聞いてない」


 フィーナがそれに口ごもると、ルイは「いいよ、言わなくて」と言った。


「本人から聞くさ。多分、セタンのどこかにいるだろう」

「どうして?」

「あいつ、お金持ってないし」


 フィーナはちらりとルイを盗み見た。その横顔からは、動揺した様子は全く見られない。だが、突然パートナーがいなくなって、辛くないわけがないだろうとフィーナは思った。フィーナとシュラルとは違い、彼らは真っ当なペアなのだから。

 ルイは噂を信じない気がした。だからなのか、燻っていた疑念はゆっくりと小さくなっていった。冷静に考えれば、何か誤解や手違いがあったのだと思える。それで退所になってしまうのもおかしな話だが、今の研究所では、それは起こりえないことではないとフィーナは思う。

 ポーセで見つけた新しい夢のことを考える。

 ここに留まるのは、正直苦痛だった。だが、ここにいなければ夢から遠のいてしまう。


(逃げたりしないわ。負けるもんですか)


 枯れてきた涙を拭う。

 暗闇の中で良かったと思った。腫れぼったい目を見られずに済むのだから。

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