05 転倒(1)
目が覚めると、レツは部屋に一人きりだった。それがとても奇妙に感じる。研究所に入ってからは、セタンでもポーセでも必ず人がいたので、それを考えるとかなり久しぶりだった。
レツは、ルイより一足先に研究所に戻ってきていた。彼と、彼の周囲に常にいる光の精霊がいないためか、いつもより二人用の寮の部屋は広く感じられる。
ルイはサイベンを訪問した後、ポーセで彼の両親に会う予定だった。もしかしたら何日か捕まるかもしれないと言っていたので、今日はまだ帰ってこないだろう。
ふと、ルイの故郷で見た彼の姿絵を思い出した。久しぶりにルイに会えて、両親はとても喜ぶだろう。
二級魔導士になったので、レツは今まで以上に資料館に通って過ごしていた。今まで閲覧が許されていなかった書架の一部に入れるようになったからだ。
ルイが戻ってくるまでに、思いつく限り調べてみようと考えていた。
◇◇◇◇
精霊感謝祭である今日は、研究所内は特に人が少なかった。まだ故郷に帰って戻っていない研究生や研究員も多い。
温室で薬草の手入れをしているシュラルの艶やかな髪を、チャド教授の指が弄んでいた。彼女は気付かぬふりをして、丁寧に手入れを続ける。
温室のすぐ近くに侍女のラウハが控えているが、そのラウハの精霊の気配を、この男は察していないのだろうか。察していてこうしているのか、元々察せるだけの能力がないのか、はたまた彼女の存在に鈍ってしまっているのかは判断がつかなかった。もっとも、シュラル自身、他人の精霊の気配などほとんど分からないのだが。
今日は人が少ない。だから、シュラルにとって絶好のチャンスだった。
「君は、日没の矢に興味があるんだったね」
その言葉に、シュラルの心は躍った。彼女から仕掛けなくとも、向こうから来てくれたのだ。こんなに嬉しいことはない。
今まで、不自然にならないように布石を打ってきた成果だった。
「なぜ興味があるんだい?」
シュラルは目に涙を浮かべた。潤んだ青い瞳でチャド教授を見上げる。
「師匠であるミーシャさんが亡くなって……それで。一つ年下の、彼が同じようになるのは悲しいんです。彼の、力になれたらと思って」
もちろん、そんなことは露ほども考えていなかった。そもそも名前もろくに覚えていない。フィーナがよく一緒にいることは知っていたが、わざわざ呪われた人間を相手にするなど、趣味が悪いと思ったくらいだ。
だが、そんな内心をチャド教授に知られるような愚かな真似はしなかった。
彼は、彼女の言葉を素直に受け止めたようだ。慈しむような表情をしつつも、その目は僅かな嫉妬でチリチリと火種が燃えるようだった。シュラルの口から、他の男の話題が出たからだ。
彼のそばにいて、彼がどのような行動に出る人物か、シュラルにはもう分かっていた。きっと、誰よりも頼りになる男は自分なのだと誇示するために、持っている情報を全てさらけ出してくれるだろう。
そして、チャド教授は彼女の予想どおりに動いてくれた。「良い物を見せてあげよう」と、温室の外へと彼女を連れ出した。
チャド教授とシュラルが移動を始めたのを察して、隠れて様子を見守っているラウハもついてきた。
チャド教授は、珍しく黙って歩き続けた。いつもならシュラルの肩を抱くなどし、他愛ない話を絶え間なく喋り続けるというのに。普段と違う様子に、期待に胸が膨らむ。
研究棟を出て庭を横切り、辿り着いたのは資料館だった。資料館には、まだ二級魔導士であるシュラルでは閲覧できないものがたくさんある。そういうものが入っている書架は魔法で近付けないようになっているため、盗み見ることもできない。
チャド教授は真っ直ぐに、二級魔導士以上にしか閲覧が許されていない書架へ行き、さらにその奥、一級魔導士のみに許された書架に進んだ。シュラル一人なら魔法で弾かれるところだが、教授のおかげで何も起こらない。こっそり後をつけているラウハはどうだろう。もしかして弾かれたかと、シュラルは少し不安になった。
チャド教授が足を止めたのは、書架の先にある壁だった。殺風景な煉瓦の壁だ。二級魔導士の書架からも、見るだけならできる。
シュラルが不思議そうに小首を傾げると、チャド教授はにっこりと笑ってみせた。壁に手を当てる。しばらくすると、ずるずると壁の一部が吸い込まれていき、通路が現れた。中は真っ暗で、数歩先の様子も分からない。
「さあ」
促されて、シュラルは一歩踏み出した。
隠されていた通路の先に何があるのか。恐らく彼女の期待を裏切らないものだろう。
表面上はただ不思議に思っているという風を装って、シュラルはもう二歩、三歩と先へ進んだ。暗くて足元がよく見えない。
不意に、彼女の腰にするすると手が回された。這うようなその感触に、ぞわぞわと悪寒が走る。反射的に払いのけそうになるのを、ぐっと堪えた。
「教授?」
まだ気付かぬふりをして、シュラルは声をかけた。内心は、無礼なこの男への怒りでいっぱいだったが。
もう片方の腕が前に回され、シュラルは背後から抱き締められる形になった。耳元にかかる息が気持ち悪い。
(妻子持ちだというのにこの性急さ。男という生き物には欠片ほどの理性もないの?)
苛立ちを募らせながらも、シュラルはどうすべきか分からなかった。こう抱き締められては、彼女の力で抜け出すこともできない。かといって、このままの状態でいることは耐え難かった。たとえ与えられた任務のためだとしても。
ラウハはどうしているだろうか。シュラルの身が危険な今、助けにこないということは、やはり入れないのだろうか。
「あの少女は入ってこられないよ。可哀想に、いつも付け回されて、窮屈だろう」
チャド教授はシュラルの黒髪に鼻をうずめると、大きく息を吸った。
「教授。チャド教授、あの――」
「ここは研究員の中でも、限られた人間にだけ許可された場所だ。ここに入ったことは秘密にしてあげよう。だが、代償が必要だ。分かるね?」
(入ってからそれを要求するなんて……それも、この私に。何様のつもりなの?)
苛立ちと恐怖で、鼓動が速くなる。こう密着していてはそれを知られてしまうのではと、彼女にとってはそれも耐え難かった。
相手は下賤の民。それも、魔法という劣った技術に頼る蛮族だ。それが、高貴な身分である自分をいいようにしようというのだ。触れている部分から穢れが染み込んでくるようで怖気が走る。
自分の身を削ってまで任務を遂行する気など、シュラルには毛頭ない。彼女は精一杯の力で彼の腕から逃げようとしたが、びくともしなかった。
「優しいシュラル。美しい君が、あんな呪われた男を気にかける必要はない。もっと良い男がいくらでもいるだろう」
(あの男にも興味はないけれど、お前などもっと興味がないわ)
「教授、落ち着いてください。奥さんもお子さんもいらっしゃるのに――」
「君が黙っていれば、何も問題はない」
突然、拘束していた腕の力が弱まり、シュラルはそれに対応しきれずに前に倒れ、床に手を付いた。暗闇の中、覆いかぶさってくる教授の息を感じる。
「教授!」
たまらず叫ぶと、チャド教授はぴたりと動きを止め、息を殺した。だが、それはシュラルが声を上げたからではなかった。
足音が聞こえる。
ただでさえ人の少ない日で、まだ朝も早い。資料館は特に人のいない時間帯だ。
足音は、誰でも閲覧できる場所――へは向かわず、二級魔導士の書架へと入ってきた。この隠し通路が見える位置だ。
そして、やってきた人物の姿をシュラルは見た。
(あの男)
たった今話題に出していた男だった。並んでいる本から何かを探している。
早く立ち去れ、とシュラルは願った。ここは本来出入りを禁じられている場所だ。シュラルがこのような場所にいるのを見られたなら、その立場を疑う人間も出てくるだろう。もし、ガーデザルグ王国の人間だと知られれば――考えたくもなかった。
幸い、シュラルとチャド教授がいる場所は闇に沈んでいる。用事のない一級魔導士の書架の先に隠し通路が開いていたとしても、二人がじっとしていれば見つからない――はずだった。
彼は闇の魔導士だった。シュラルには分かりようもないが、闇の中にひそむ気配を、闇の精霊は律義に彼に伝えたのかもしれない。
彼は本から目を離すと、その紫色の目で、正確に二人の姿を捕らえた。驚きに、その目が見開かれる。
すると、シュラルが何をするより先に、チャド教授が勢いよく立ち上がった。
隠し通路を飛び出し、怒りの声を上げながら彼へと走り寄っていく。
しかしチャド教授は、無様にも彼に辿り着くより前に、一級魔導士の書架に勢いよくぶつかった。突然明るいところに出て、目がくらんだのだろう。
書架が派手な音を立てて倒れる。近くにいたらしきラウハの悲鳴が聞こえた。
シュラルは慌てて隠し通路から出て、ラウハに駆け寄った。人が集まってきた時、あそこにいてはまずい。
音を聞きつけて人がやってくる中、シュラルはどう言い繕おうかと必死に頭を悩ませていた。




