38 闇の中
「ルイは、同じ夢を何度も見ることってある?」
「ない。もしかして、この間ザロ達が言ってたことを気にしてるのか?」
図書館の自習室で、ルイは本から目を上げた。自習室は幸い二人だけだった。司書がこちらに注目していないことを確認してから、ルイは小さな声で続けた。
「どんな夢だよ。キャトロイと関係あるのか?」
王都キャトロイへ行った次の日の朝、起き抜けにザロに尋ねられたのだ。何か夢を見たか、と。
レツは確かに夢を見た。浜辺で穏やかな時を過ごしている二人の男性の夢だ。それをザロに伝えると、彼は見るからにがっかりした様子だった。
一体なぜそんなことをザロが訊いたのかというと、王都キャトロイに行った後、エリク王や七日夜の夢を見たという生徒がとても多いのだそうだ。
「キャトロイとは関係ない。浜辺で、男の人がずっと海を眺めているだけなんだけど」
ザロに夢のことを尋ねられてから、レツは何となく自分が見る夢を意識するようになった。今朝久しぶりに灰色の海の夢を見て、自分はこの夢をもう何度も見ているとようやく自覚したのだ。
ルイは本を閉じて腕を組んだ。
「ただ何度も見てるだけなら、ただの偶然としか言えない気がするけど」
「そうだよね……」
彼の言うとおりだとレツは思った。
時の魔法の一つに、過去を覗くものがある。自在に魔法を操ることができる上級者はともかく、未熟な者は夢で偶然過去を見ることがあると言われていた。ザロがレツに尋ねたのも、レツが時の属性を持っているからだ。だが、夢自体は当然誰でも見ることができる上、妄想か時の魔法か判断することも難しいため、信用できる類のものではなかった。
「せめてその男が誰なのか分かればな」
そう言ったルイの本の上に、橙色の鳥が舞い降りた。ルイとレツを交互に見つめる。
『長引きそう。食堂へは二人で行って』
「分かった」
ルイの返事に、クィノが作り出した魔法の鳥はすぐに掻き消えた。
「下手すると食堂が開いてる内に帰ってこられないんじゃないか? クィノに任せて良かったな」
「良かった……のかな」
ザロは今日、補習授業を受けていた。彼は実技に関しては学年でも五本の指に入るのだが、筆記に関しては下から数えた方が早い。二級魔導士の試験まであと一年と少しという時期になって、これではいけないと特に成績の悪い者達が集められることになったらしい。
今年限りのパートナーであるレツか、今後もパートナーを続けるクィノかどちらが付き合うかという話が出た時、クィノは間髪をいれずに自分が付き合うと申し出た。「来年以降も続く長期戦になるだろうから」と。
「遅くなりそうなら、食堂で何か貰っておいた方が良さそうだね」
とはいえ、まだ日が暮れるまで時間があった。二人は夕食までの時間を部屋で過ごそうと、本を借りて図書館を後にした。
(そういえば、結局何があったんだろう)
建国祭の日、図書館から帰ってきたルイは機嫌が良くなかった。隠しているようではあったが、それでも苛立ちは漏れていた。
帰ってくるまで時間がかかっていたし、何かあったのだろうと思う。思うが、率直に尋ねても「何でもない」としか言ってくれなかった。
寮の入口で管理人に呼び止められ、二人は足を止めた。管理人室の奥で、管理人が手紙の束の中から目的のものを探している間、二人はその場でじっと待っていた。ちょうど出入りが多い時間帯なのだろう。たくさんの生徒が二人のそばを行き来し、すぐ近くの談話室からは大勢の生徒の声がしていた。管理人に用事があるのか、彼らの後ろで順番を待っている生徒もいる。
「そんなに何通も、よく書くことがあるな」
差出人がフィーナであるのを前提に、ルイは呆れているのか感心しているのか分からない顔をした。
毎回、封筒がぎりぎり閉じられる程の分厚さで手紙が届き、レツから出す手紙も同じようなものになる。こうして手紙のやりとりをするようになって、去年は会って話していたことがたくさんあったのだとレツは実感した。
フィーナと話をするのがレツは好きだ。なぜかと問われると答えられないが、彼女が笑顔で楽しそうにしている姿を見るのが好きなのだ。本当は手紙よりも会ってその顔が見たかった。
「お待たせ」
ようやく見つけた、とレツの手紙を管理人が差し出す。それを受け取ろうとレツは手を伸ばしたが、その手が手紙に届く前に、誰かにそれを掠め取られた。
「あ、こら!」
管理人の咎める声を、レツは聞いていなかった。手紙を奪い人ごみの中をかいくぐっていく背中を慌てて追う。
「それは僕の手紙だ、返してくれ!」
盗んだ主――アルは、レツの声を無視した。
心臓の音が煩い。じわじわと嫌な気分が胸の内を支配していく。
「僕の手紙だ! 返せ!」
腹の底から出した大きな声に、周囲にいた人達は足を止め、アルも足を止めた。
談話室にいた生徒達が何事かと顔を覗かせているが、レツはそれを気にも留めず、ただアルを睨み付けていた。
「僕の手紙を返せ」
三度言った時、追いついてきたルイが隣に立ったのが分かったが、心はまだ落ち着かなかった。
アルはようやく振り返った。アルの隣にいる彼のパートナーもこちらを見る。パートナーの少年はこれから起こることを予感してか口元がにやついていたが、アルはとぼけた顔をしていた。
「これは俺宛の手紙だ」
アルの言ったことに、レツはぽかんと口を開けた。何を言っているのか、全く理解できない。
「だってほら……女子からだ。呪われた奴に手紙を書く女子なんて、いるわけない」
「いいから今すぐ返せ。それはこいつのだ」
ルイのことは無視して、アルはじろじろと封筒を眺めた。
「それともこの――フィーナって奴は、呪われてるお前しか相手にしないくらいの醜女なのか?」
書かれた差出人の名前を見下ろすその顔を見ていると、ふつふつと、体の奥で何かが煮えたぎるのを感じた。喉元まで出かかった何かが引っ掛かり、どんどん膨張していくようだった。
「いいからそれを返せ! こいつの名前がちゃんと書いてあるだろ!」
「そんなもの見当たらないぞ? 中にでも書いてあるのか?」
にやりと笑ったアルの指が封蝋に触れる。
(嫌だ)
ルイが駆け出そうとする。
「やめろ!」
レツがそう叫ぶと同時に、突然、辺りが真っ暗になった。誰かの悲鳴が上がる。
レツの中で色んな思いが渦を巻き、彼は暗闇の中に入ったことにも気付かなかった。
手紙の中を見られたくない。
そもそも触れてほしくない。
彼女を貶めるような言葉は聞きたくない。
鼓動が速くなっていく中で、遠くで何かが倒れる音が聞こえた。また悲鳴と、ざわざわと騒ぐ声がする。
水の中に潜ったように、全てが壁の向こう――遠いところで起こっていることのように感じる。
自分の鼻先すら見えない闇の中で、誰かがレツの肩の辺りに触れた。じんわりと穏やかに温もりが広がってくる。
「落ち着け」
その声が聞こえた瞬間、急に視界が光に満ちた。すぐ目の前にある琥珀色の目を見て、レツは自分の高ぶった心が落ち着いていくのが分かった。
「ルイ」
レツがその名前を声に出すと、ルイは長く息を吐いた。
がやがやと喧騒が耳に届いてくる。手紙は――とアルの方を見ると、彼と彼のパートナーの辺りだけ、まだ闇が残っていた。闇の塊の中から、罵声だけが聞こえてくる。
ルイは二回ほどレツの肩を叩くと、アル達の方へ行き、闇の塊のすぐそばの床に投げ出されていた手紙を拾い上げた。それを合図に、まだ残っていた闇が溶けるように散っていく。
やっと闇から解放されたアルはレツを探して周囲を見回したが、レツより先に違う人物を見つけ、ぎくりと体を強張らせた。管理人に連れられたリュド先生が、じっとその場で四人を見つめていた。
◇◇◇◇
寮の自室へと一人でとぼとぼ歩きながら、ルイはぼんやりと先程のことを思い出していた。
(そういえば、あいつが怒るところを初めて見た気がする)
だからなのか、いまいち頭が回らない。
あの後、リュド先生と二人きりで話をした。
先生は怒っているでも悲しんでいるでもなく、ただ淡々とルイが説明する事の顛末を聞いていただけだった。話が終わると「一人で帰りなさい」と部屋を出され、ルイはレツを置いてきて今に至る。
今回のことでレツがお咎めを受けることはないだろう。他の生徒もたくさん見ていたから、レツが悪いわけではないのはすぐ証明できる。
それなのに気持ちが落ち着かない。きっと、あの時見た紫色の目が、全く事態を把握していない様子だったからだ。
どうせ部屋には誰もいないと思い、ルイはノックもせずに自室の扉を開けた。
すると突然両肩を掴まれたので、彼は驚いて跳び上がりそうになった。
「おかえり!」
ルイを部屋の中に引っ張り込むと、クィノはすぐに扉を閉めた。部屋の中にはザロもいて、興奮気味のクィノとは対照的に、いつもどおりの様子でベッドの上に座っていた。
「も、もう補習授業は終わったのか? もっとかかると思ってたのに」
「そんなの中断に決まってるじゃないか!」
興奮しているクィノに若干引き気味になっていると、ザロが「やるよ」と飴玉を投げてよこした。有り難くいただく。口の中で転がすと甘い味が広がって、疲れていた頭が少しいつもの調子に戻った。
「急に真っ暗になるからさ。先生も大慌てだったぞ。解放された俺はラッキーだけど」
「ザロ達がいた所まで影響があったのか?」
「門の方は大丈夫だったみたいだけど、他はほとんど真っ暗になったみたいだね。聞いた話だけど」
誰に聞いたんだとルイは思ったが、そこまで大事になっていたならたくさんの生徒が噂話をしているのだろう。
「まさか七日夜の魔法を体験するとは思ってなかったよ。一体いつから使えるの?」
「俺は……今日、初めて知った。一緒に練習してる時に試してる様子はなかったし」
恐らく、意識してあの魔法を使おうとしたわけではないのだろう。闇が消えた時のレツの目は、それをはっきり物語っていた。彼はきっと、手紙を読まれたくなかっただけなのだ。
夜より深い闇の中だったとルイは思う。日没の矢から逃れられるほどなのだから、きっと灯りも灯せないのだろう。
「でも経験してみて分かったぞ。七日夜で救ってくれたのに闇の魔導士が嫌がられるのは、どうしようもないってことは。視界を奪われるのは恐い」
「分からないでもないけど、魔導士になる人間が口に出すのはよくないよ。特に騎士になろうとしてるなら」
扉を叩く音に、ザロもクィノも口をつぐんだ。こちらが何か言うより先に扉が開く。
「おかえり」
ルイに返ってきた「ただいま」の言葉は、あまり元気がなかった。
レツは少し汚れてしまった手紙を机の上に置くと、小さく溜息をついた。
「どうだった? 別に怒られたわけじゃないんだろ?」
ザロが飴玉をよこそうとするのを手を振って断りながら、レツは言った。
「怒られたよ。ちゃんと制御しなきゃ駄目だって……もし怪我人が出たら、最初に悪いのはどっちかとか関係なくなるかもしれないからって」
「アル達は?」
レツは首を振った。
「知らない。怒られた後は、僕は他の先生達の前で何回かあの魔法を練習させられてたから。おかげで大分上手くなったと思う。すごく疲れたけど」
広範囲に魔法を使っておいて、すごく疲れたで済むのかとルイは驚いた。慣れない魔法を使ったのだし、もっとくたくたになっていてもおかしくない。
眠っている間に姿が消える魔法もそうだが、レツの魔法はルイが扱うものとはかなり異なる。底が知れないと考えていると、レツは改まってルイに向き直った。
「ありがとう。君がいてくれて良かったよ」
ルイは黙って首を振った。
結局、自分は大したことをしていない。だからどんな言葉を返せばいいのか、ルイには分からなかった。




