26 ミーシャ
朝起きて、空気の冷たさにミーシャは体を震わせた。無理矢理にベッドから体を起こす。二度寝して、仕事に遅れるわけにはいかない。
窓を開けると冷たい風が頬を撫でた。もう秋も終わりだ。庭の木も、葉を落としきってしまったものが何本もある。
(今日は……三日前の実験の結果が出る頃ね。それから、夕方にはフィーナを見てあげなくちゃ)
フィーナは可愛い弟子だった。勉強への意欲もあるし、紫色の目を持つミーシャのことを慕ってくれる。折角同じ研究所にいるのだから、忙しくて中々来られないマリーの分まで面倒を見ようとミーシャは考えていた。
(シュラルに声をかけたら、シュラルはやっぱり嫌がるかな。でも、声をかけないわけにはいかないわよね)
もう一人の弟子であるシュラルはフィーナと正反対で、才能も意欲もない少女だった。紫色の目を嫌がっていることも察せられる。それでも、もう少し魔法が使えるようになれば面白く感じてくれるのではと練習に誘ってみるのだが、迷惑がっている様子は嫌というほど伝わってきていた。
二人はちぐはぐで、とても星舞なんてできそうにない。だが、それができなければ二級魔導士にはなれない。お互いにもっと相性の良い相手がいればいいのに――ミーシャはそう考えていたが、研究生の数自体が少ないここでは、中々そう簡単に相手を変えることもできなかった。
ミーシャは机に向かい、昨晩途中まで読んでいた資料を手に取った。間に挟んでいたしおりの部分を開く。しおりを目にして、ミーシャは自然と笑みを浮かべていた。
建国祭の日に、フィーナから貰った留鳥草だった。綿毛は抜け落ちてしまったが、残った部分を押し花ならぬ押し草にしてみたのだ。定番の贈り物だが、それでも贈った相手の無事を祈る留鳥草をフィーナが選んでくれたことは、ミーシャには素直に嬉しいことだった。
冬が近い。もうすぐ十八回目の誕生日だった。
資料を少し読み進めたところで、彼女は必要な本が手元にないことに気が付いた。昨日、資料館から借りてきたまま鞄に入れっぱなしにしていたのだ。それに気付いて、彼女は椅子から立ち上がろうとした。
その途端、左胸が強く痛んでミーシャは机に手をついた。もう一方の手で痛む左胸を掴む。胸の奥にある痛みはどんどん増していき、体中に熱い炎が巡っていくようだった。膝の関節が震える。
体の奥から来る痛みに耐えきれず、彼女は大きく咳き込んだ。机の上に広げていた資料と、留鳥草が真っ赤に染まる。
まさか、と考える余裕は既に彼女にはなかった。立っていられなくなって崩れ落ち、机と椅子に体が強くぶつかったが、その程度の痛みはもう感じなかった。
自分が叫んでいることさえ、彼女は気付いていなかった。燃えるような熱と胸の奥をえぐり取られるような痛みにのたうち回りながら、全身を強打し、爪がはがれるのも構わずかきむしる。駆けつけてくれた人がいることも分からず、その目は現実にはないものを見つめていた。
灰色の海を背景に、男がこちらを向いて立っている。ぎりぎりと弓を引き絞っている。矢の先端は、間違いなく彼女を狙っていた。
『もしもその時が来たら……その時にそばに誰もいなければ、ノートに記すから。読んでね』
レツにそう語った彼女は、結局、自分が最後に見たものが何なのか、考えることすらできなかった。
◇◇◇◇
レツにとっては、母に次いで二度目の葬儀だった。
研究所の庭に棺が置かれ、その周囲に人々は集まっていたが、どうしていいのか分からずにレツは少し離れたところから棺を見つめていた。
通常なら蓋を開けて最後に顔を合わせるのに、ミーシャの棺の蓋は閉じられたままだった。その棺にすがりついているマリーは、もう長いことそうしていた。そのマリーの肩を抱いているリースも、ずっと俯いて顔を押さえている。
レツは参列している人達を見回して、フィーナがいないことに気が付いた。
来ていないはずはない。そう思って探すと、葬儀の集まりからは離れた、資料館のそばにある木の根元に、膝を抱えて座り込んでいる姿を見つけた。立てた膝に額を押し付け、その顔を見ることはできない。
少し迷った後、レツは彼女に近付いていった。そろそろ花を捧げなければならない。
近付くと、すすり泣く声が彼の耳にもはっきり届いてきた。
「フィーナ」
声をかけても、彼女は顔を上げる素振りを見せなかった。
「そろそろ鏡百合を捧げる時間だよ。お別れをしなきゃ」
「……嫌よ」
ひどい涙声だった。
「練習を見てくれるって言ってたもの。約束したもの」
そう言うと、彼女のすすり泣きはいっそう激しくなってしまった。
ただ良くしてもらっただけの彼でも悲しいのに、師匠と慕っていたフィーナはどれだけ悲しいだろうとレツは思った。慰める言葉も思いつかないのが情けない。
彼は自分が師匠達にしてもらうように、フィーナの頭を撫でた。それしか彼には思いつかなかったのだ。しかし、フィーナはレツのその手をぱっと払いのけた。
「優しくしないで! あなただって師匠のようになってしまうのに!」
その言葉は、思いのほかレツにはショックだった。仲良くなればなるほど、それが将来彼女を苦しめるのだと知ってしまったからだ。
謝らなければと思うのに、喉につっかえて声が出てこなかった。
フィーナははたと顔を上げると、涙を袖で拭った。次々溢れてくるようで、あまり意味はないようだった。
「ご、ごめんなさい。私、今ひどいことを言ったわ」
「……いいよ。別に、間違ったことじゃないし」
親しくない人なら、死んだとしても別に悲しくないのだ。誰も悲しまないようにと考えるなら、彼は母の望むとおり、あの家の隅で小さくなっているのが最善だったのだろう。でもそれは、今となってはひどく退屈で苦痛なことだった。将来の目標も、学ぶ楽しさも、友人と過ごす日々も捨てて引きこもることは、もうレツにはできなかった。
レツは考えた。そして、彼女をこれ以上傷つけないように、慎重に言葉を選んだ。
「僕、もう母は死んでていないんだ」
棺の中にいた母の姿が記憶の中から甦る。それを見た時、レツは自分がほっとしたことを思い出した。
「元々体が弱かったらしくて、物心がついた頃にはほとんど寝たきりだったんだ。いつ死んでもおかしくない状態で、何年も過ごして……そんなだったから、亡くなった時もそれほど悲しくなかったよ。そう長くないって分かっていて、心の準備ができてたからだと思う。僕はまだ十二歳だから、多分もう少し長く生きられると思うんだ。だから、きっと心の準備をする時間が十分あるんじゃないかと思うんだけど、その……だから、フィーナと今までどおり仲良くしちゃ駄目かな?」
フィーナは困惑したように瞬きした。涙が零れ落ちる。
「……良く分からないわ」
自分の説明は下手すぎると、レツは唸った。これ以上、どう伝えればいいのか分からない。
「分からないけど、私は、あなたと仲良くしたいわ。ひどいことを言ってごめんなさい」
「気にしないで」
レツは手を差し出した。フィーナはその手を取り、立ち上がる。泣いていた彼女の手は冷えていた。
彼はそのまま、重い足取りのフィーナを引っ張るようにして棺に近付いていった。参列している人々が鏡百合の花を手に取り、棺の上へと置いていく。
レツも、たくさん置かれている中から一本の花を手に取った。フィーナもそれに続く。
灰色をしていた鏡百合は、握って故人への想いを込めると、適性のある魔法の種類に基づいて違った色に色付いた。レツは紫色に染まった花を、フィーナは淡い緑色に染まった花を棺の上に捧げる。棺の上は、既に色とりどりの花でいっぱいだった。
その場にいた全員が花を捧げ終わった頃、棺は宙に浮き、炎に包まれた。
――風に乗り、神獣スタシエルの加護の元、安らかな眠りを。
言葉にせずにそう祈る人々が見守る中、棺はあっという間にその姿を消していった。
葬儀が終わった。
一人が歩き出したのを合図に、参列していた人々が散り散りになっていく。フィーナはマリーへと駆け寄っていった。まだ涙が止まらないマリーが、フィーナを強く抱き締めていた。
「面倒なことだ。君はよそで頼むよ」
驚くほど冷たいその声に、レツはぎくりとして振り返った。ベン教授は、驚いて目を見開いているレツを見ることなく、さっさとその場を去っていった。
まるで冷水を浴びせられたように固まってしまったレツは、努めてベン教授から目を逸らした。逸らした先で、彼を見つめる目を見つける。
ルイは、困惑しているのか、悲しんでいるのか、怒っているのか――よく分からない顔で、静かにレツを見つめ続けていた。




