21 熱(2)
『あれは危険だ。道中の多くの憎悪や欲望を吸い上げて、どんどん肥大化している』
そう嘆く声の主のくちばしを撫でた。精獣ステュルよりさらに大きな、小山のように巨大な鳥だった。琥珀色の目がじっとこちらを見つめている。
「分かっている。だが彼にはどうにもできまい。私が行くしか道はない」
覚悟を決めたらしきその声は、レツの内側から響いていた。まだ若い男性の声だ。
『行った先に何があるか、分かった上で言っているのだね』
男性はうなずいた。
「この国を頼むよ。それから新しい命のことも――」
「あなたが悪いんだ!」
突然目の前が真っ暗になり、そこに違う男性の声が響いた。
「あなたが私を騙していたから!」
怒っているのか泣いているのか、声が震えている。
体中が燃えるように熱かった。特に左胸は、熱した金属の塊が埋め込まれてしまったように痛む。熱と痛みはどんどん激しさを増し、男性の声の意味も分からない。
苦しみの中で、ほんの少し、闇の中に浮かぶ景色が見えた。
灰色の海。浜辺で、男性がうずくまって肩を震わせていた。泣いているのだと、熱で朦朧とする頭の片隅で悟った。
その姿がたまらなく孤独で辛そうに見えた。
「……セヴェリ」
夢の中と現実と、両方のレツの口が言葉を吐き出し、レツは自分の声で目を覚ました。
「起きたか」
枕の上で頭を動かすと、ルイの椅子に腰掛けているロウの姿が視界に入った。目を通していたらしい書類をルイの机に放り出す。彼が文書を読むなど珍しい姿なので、まだ夢の中だろうかとレツは考えた。
「師匠」
状況が完全には理解できず、そもそもロウがなぜここにいるのか見当がつかないままで上体を起こした。全身が汗でべたべたしている。
ロウはレツの額に手を当てた。
「熱はもう下がったみたいだな。腹減っただろ? 何か持ってきてやるから、その間に汗流してこい」
「はい」
レツはようやく、自分が熱を出していたのだと分かった。一体どれくらい眠っていたのだろう。窓の外を見ると、木々についた水滴が陽光で光っていた。
レツが着替えを手にして部屋を出ようとすると、ロウに名前を呼ばれた。振り返る。ロウは、いつもどおりの顔をしていた。
「お前、どんな夢を見てた?」
「夢……ですか?」
そう言われると、見ていたような気がする。しかし、何を見たのかさっぱり覚えていなかった。
「分かりません」
「自分が何を口走ってたのかも覚えてないのか?」
「はい」
「そうか」
寝言で何を言っていたんだろう。よほどおかしなことを言っていたのだろうか。気になりつつも、レツは風呂場へと向かった。
廊下を歩いていると、窓から、庭で授業を受けている研究生達の姿が見えた。それを見て初めて、彼は授業を欠席してしまったのだと気付いた。時間の感覚がまるでなく、まだ朝の遅い時間だと勘違いしていた。
(休んだ分、どうしよう……二つ目のは出られるかな)
去年は一度も休んだことがなかったので、休んだ場合どうなるのか知らなかった。
気落ちしながらも湯で汗を流し、乾いた清潔な服を着込むと、少しだけ気分が上がった。
部屋に戻ると、ロウはパン粥を持ってきてくれていた。甘い物は苦手だったが、熱で疲れたからか、この時ばかりはその甘さが美味しかった。空腹の胃に優しく染みていくようだ。
「晩飯も何か消化に良いもん作ってくれるらしいから、少量でもちゃんと食えよ。それから、今日はもうあちこち動き回らずに大人しくしてろ」
「授業も休まなきゃいけませんか?」
「当たり前だろ。それに、どのみちもう今日の分の授業は全部終わりだ。そろそろ鐘が鳴る」
その言葉に肩を落としてしまう。今日は一日眠るだけで終わってしまったらしい。
残りのパン粥を食べている内に、ロウの言うように終了の鐘が鳴った。僅かに開かれた窓の向こうから、授業から解放された研究生達の明るい声が届いてくる。
「来たな」
ロウは椅子から立ち上がると、ぐいと体を伸ばした。控えめに扉を叩く音がすると思ったら、すぐにルイが部屋の中に入ってきた。本を何冊も抱えている。
「お待たせしました」
「お疲れさん。ちゃんと勉強してきたか?」
ルイはうなずくと、レツに本を差し出した。
「セイから。明日の授業の予習に読めって。余裕があればこっちも」
レツが受け取った本の上に、彼はもう一冊本を重ねた。
「分かった、ありがとう」
「今日提出する予定だった課題は勝手に出しといたから」
「ありがとう」
そう言いながらルイを見上げて、レツは、彼がなんだか元気がないと思った。
「あとこの本も。えーと……名前忘れた。女の子から」
「フィーナ?」
「ああ、そんな名前の子」
受け取った本の表題を読むと、以前話してくれた小説だった。
フィーナは一つ年下なので授業で一緒になることはなかったが、たまに資料館などで会うと話をするくらいには仲良くなっていた。
彼女もセイと同じで、本を読むのが好きな少女だった。
彼女が薦めてくる本は、セイの伝記物や冒険物とはまた違い、少女が主人公の物語が多かった。同じ冒険物でも全然違う雰囲気がして、レツはフィーナが薦めてくれる本もとても好きだった。勉強がなければすぐに読めるのに、ひとまず明日の授業の予習を先にしなければならないのがもどかしい。
「お前そんなん読むのか?」
「師匠、これ読んだことあるんですか?」
「俺が読むわけないだろ。題名見りゃ大体どんな内容か分かるから訊いただけだ」
もう一度表題を眺める。そこには「フルール王女と魔法の口付け」と書かれていた。確かにロウが読む類の本には見えない。そもそも本を読む印象がないが。
自分が読むにはおかしな本なのだろうか。不思議に思ったが、レツは尋ねないことにした。おかしいと言われたとして、読むのをやめる気にはなれなかったからだ。折角面白そうな本なのだし、フィーナと本について語り合うのは楽しかった。
「お前が好きで読んでるならいいけどな。じゃあ、俺は帰るから。ちゃんと大人しくしてろよ」
「ありがとうございました」
ロウは空になったパン粥の器を回収して、さっさと部屋を出ていってしまった。
普段なら皿くらい自分で片せと言われそうなのに、とレツは思った。うろうろするなということだろう。
閉まった扉から目を離して、レツはもう一度ルイを見た。顔色も悪くないし、疲れている風でもないのだが。
「ルイ」
「何だよ」
ルイは腕の中に残っていた自分の本を机に置くと、椅子に腰掛けた。
「ごめん、今日練習できなくなって。君は大丈夫?」
「俺はいつもどおりだよ」
それを聞いて、レツはこれ以上尋ねるのはやめた。彼が喋ってくれるかどうかは、その態度を見れば大体分かるようになっていた。風邪をうつしてしまっていないかだけが心配だったが。
「あのさ……お前、どんな夢見た?」
「夢?」
ロウと同じ質問だ。ルイの前でも寝言を言っていたのだろうか。
こちらを探るように見つめてくる琥珀色の目を見ている内に、レツはふと、夢の中でもこの色を見たことを思い出した。
ステュルより大きな、琥珀色の目を持つ鳥。夢を見ている最中は何も考えていなかったが、現実に戻ってきてそれが何を意味するのかようやく理解できた。
「スタシエルがいた」
「神獣の?」
「うん。すごく大きかった」
撫でていたあのくちばしの中に、レツとルイくらいなら楽に入ってしまいそうだった。神獣や精獣は人を食べたりしないが。
「他には?」
「他は……苦しかったことしか覚えてない」
誰かの声を聞いた気がしたが、思い出そうとしてみても何も分からなかった。夢の中でさえ、苦しくて精一杯だったのだ。
「……そうか」
ルイはくるりと背を向けて、本を開いた。それを見て、夢の中で見た、誰かのうずくまった背中を思い出した。
あの知らない誰かは、以前見た夢でも灰色の海を前に一人ぼっちだった。




