18 新しい年
暦の上では春になったが、セタンはまだ肌寒かった。普段は部屋の隅の火鉢の中で音を立てている炎燈岩が沈黙しているため、室内の朝の空気もひんやりしている。
片膝をつき、手を胸に当ててレツとルイは言葉のない祈りを捧げていた。
新しい年になってしばらく経った頃、この国は精霊感謝祭を迎える。この日ばかりは魔法や魔法道具を極力使わずに過ごす決まりになっていた。授業は年の暮れから休みに入っており、寮の中は静かだ。
午後からはセタンの中央広場で催し物もあるようだったが、二人は一日研究所で過ごす予定だった。そのために資料館からたくさん本も借りてきている。
祈りを捧げた後、二人はそれぞれの机に向かった。
レツは闇の魔法に関する書物を開いた。攻撃が不得意だと指摘を受けてから、レツは攻撃以外の魔法を増やそうと書物を漁っていた。闇の魔法に関する書物はこの研究所の資料館であってもあまり数がないが、それでも参考になることはたくさんある。騎士になると決めたからには、やらなければならないことは山ほどあった。
精霊感謝祭の数日前、レツは十二歳になっていた。二十歳までの折り返しを過ぎていたが、まだ実感は湧いていなかった。
◇◇◇◇
「忘れ物があったら送るから。落ち着いたら手紙をちょうだいね」
「本もいいけど、ちゃんと勉強するんだよ。友達とは仲良くね。見た目や第一印象で判断せずに、ちゃんとフィーナから歩み寄るんだよ」
入所が決まった頃から繰り返される言葉にうなずきながら、少女は手を振った。
「大丈夫だから。早く行かなきゃ、お祭り始まっちゃうわよ」
「何言ってるの。寮まで荷物を運ばなきゃ」
「いいから!」
過保護なんだから、とフィーナは両親を押し返し、早く行くよう促した。今年の誕生日で十一歳になるのだから、荷物くらい自分で運べる。故郷の友達の中には、知り合いが誰もいないところに下働きに出た子だっているのに。
祭りの会場へと駆けていく妹と、それを追いかけながらもフィーナの方を振り返る両親に手を振り、彼女は門の方へと向き直った。彼女の緑色の目に、赤煉瓦に挟まれた門が映る。その前には、フィーナ達のやりとりを微笑ましそうに見守っている門番がいた。
「もうすぐ師匠が来るよ。それにしても早いね。他の子はもう二日か三日ほど経ってから来る子が多いんじゃないかな」
「家族がお祭りに来るついでに送ってもらったんです。それに、待ちきれなくて」
フィーナは肩の下まで伸ばした栗色の髪を手櫛で梳かした。寮は二人で一部屋を使うと聞いているが、どんな子だろうか。期待半分不安半分だった。自分と同じように小説を読むのが好きな子だといいのに、と思った。それに、魔導士の師匠が二人もできるというのもわくわくした。師匠というからには、やはり厳しい人だろうか。
「お、来た来た。じゃあ、これから頑張ってね」
門番の声に、フィーナは門の向こう側を見た。大人の女性が一人、近付いてくる。女性は内側から門を開け、フィーナを招き入れた。
「フィーナね、はじめまして」
「は、はじめまして!」
少し声が裏返った。女性の目から視線を逸らせない。女性の目は紫色をしていた。呪いの噂と、先程の父の「歩み寄るんだよ」という言葉が頭の中でぐるぐると渦を巻く。
フィーナの心中を察したのか、女性は少し笑った。
「ミーシャよ。恐い?」
「いえ! 大丈夫です!」
「うつることはないから安心して。でも、嫌なら他の人にいつでも代えてもらえるから」
「だ、大丈夫です! 本当に!」
全く恐くないというわけではなかった。しかし、優しい声音に良い人なのだという直感が働いたのだ。何となく、この人に教わりたいと彼女は思った。
必死な様子が可笑しかったのか、ミーシャは先程より朗らかに笑うと「こっちよ」と歩き出した。
もう一人の師匠であるマリーという人は、今日は残念ながら仕事なのだそうだ。フィーナはミーシャと一緒に、これから暮らす寮へと向かった。
「寮は他の子と同室になるから、仲良く使ってね」
「少しだけ聞いたことがあります。二人一組で、勉強も一緒にするって」
「授業は皆で受けるから、私とマリーが教える実技だけね。あなたは風に適性があるから、地に適性のある子が相手なんだけど……残念ながら同い年じゃないの。今年三年目の子だから、授業は別になってしまうわ。元々のパートナーの子が辞めてしまって」
「じゃあ、先輩なんですね」
案内され、部屋の前に到着する。フィーナが深呼吸している間にミーシャは扉をノックした。中から「どうぞ」という、鈴の音のような綺麗な声が聞こえた。
ミーシャが扉を開ける。
こぢんまりとした部屋の中にいたのは、その部屋にそぐわないほど可憐な少女だった。
艶やかで真っ直ぐな長い黒髪に、きらきらと輝く青い目をしている。真っ白な肌に頬がほんのり赤く、唇は紅を塗ったように艶やかだった。間違いなく、彼女が今まで会った中で一番綺麗な人だった。
椅子から立ち上がるその動作すら美しく、フィーナは思わず見惚れてしまう。
「今年から研究所に入る子よ。色々教えてあげてね」
「は、はじめまして、フィーナです」
少女はふわりと微笑んだ。まるで大輪の花が咲いたようだ。
「シュラルです。これからよろしくね」
「シュラルさん」
「シュラルでいいわ。だってパートナーですもの」
本に出てくる妖精や女神のようだとフィーナは思った。ただその唇が動くだけで目を奪われてしまう。
ついぼんやりと見惚れてしまうが、フィーナは急に思い出してポケットの中に手を突っ込んだ。
「あの、これ」
取り出したのは小さな袋だった。手のひらの上に乗ってしまうほどの大きさで、袋は丸く膨れている。袋の口を縛る紐は長く、手首に通せるくらいだった。
「故郷のお守りなんです。悪いものから守ってくれるって……あの、良かったら」
お守りを差し出す。美しい彼女にはあまりにも不釣り合いで、フィーナはかなりの勇気を要した。しかし、パートナーとなる人に渡すと決めていたのだ。
「わあ、嬉しい! ありがとう、大切にするわ」
シュラルは眩しいほどに白い手でそのお守りを受け取ると、満面の笑みを見せた。受け取ってもらえたことに、フィーナは少しほっとする。
綺麗なだけでなく、彼女はとても優しい人のようだ。この時、フィーナはそう思った。