大陸歴1624年 秋 フィーナ(2)
二人は研究所の門を出た。大通りの賑やかな声が、奥まったここまで届いていた。
「ところで、今日はどこへ行きたいとかあるの?」
レツの問いに、フィーナは少し考えた。以前は露店を回ってから話をしようとしたが、今回はとにかく早く話したかった。気持ちが落ち着かないのだ。
「あの、前に行った留鳥草の場所に――」
ちょうど、道が大通りと交差するところだった。大通りから曲がってきた人とぶつかりそうになり、慌てて避ける。だが相手がかなり体格が良かったため、完全には避けられなかった。
「申し訳ない」
「こちらこそ、すみません」
あまり歳が変わらないように見える男性は、人の良い笑顔を浮かべて頭を下げた。髪を整えるのに油を塗っているらしく、金髪がぴかぴかと光っている。上品な服装をして、とても裕福な人なのだというのが一目で分かった。
どこかで会ったことがある気がする。フィーナがその疑問を口にする前に、レツが口を開いた。
「もしかして、テスさんですか?」
「そういう君は……申し訳ない、どなただったか。亡くなった友に似ている気はするが」
「自警団でお会いしました。レツです」
フィーナもようやく思い出した。レツが自警団に所属している頃に偶然会ったのだ。彼は大人になって、以前よりは少し身軽な体型になっていた。だが、それでもレツの二倍は横幅がありそうだった。二人とも背丈は同じくらいなのに、テスの方が随分大きく見える。
テスはしばらくじっとレツの顔を見つめていたが、やがて神妙な顔で首を振った。
「悪い冗談はやめてくれ。彼は不幸な身の上だったのだ。もう自警団に彼の姿はない」
「騎士になったので辞めただけです……」
テスにはレツの声が聞こえていないようだった。秋空を見上げ、どこか遠い昔を見ているような目をした。
「テスさんこそ、急に自警団に来なくなったじゃないですか。どうしてだったんですか?」
「ちょうどこのくらいの季節だったな。彼があの派手な少年と魔法で遊んでいるのをこっそり見てしまったのだ。それが何だか面白くなくてな。家業の修行にもっと身を入れようと思ったのだ」
「なんでこっそり見てるんですか。それに、遊んでたんじゃないです」
フィーナは笑いが込み上げるのを何とか堪えた。派手な少年というのはきっとルイのことだろう。彼は、きっと友達を取られてしまったようで面白くなかったのだ。まだ子供だったとはいえ可愛らしい。
「それにしても、君はよく彼のことを知っているな」
「だから、本人です」
「馬鹿なことを言うな。彼は大人にはなれなかったんだ。紫色の目を――」
その時、ようやくテスは目の前の人物の目が、まさに紫色であることに気付いたようだった。目を見開いてレツを凝視する。それから、フィーナが跳び上がりそうなほど大きな声を上げた。
悲鳴を上げて走り出そうとしたテスの腕を、レツは素早く掴んだ。捕まえられたことにテスはさらに混乱して暴れたが、さすがに騎士をしているだけあって単純な力ではレツの方が上のようだ。
「また騎士団に駆け込むのはやめてくださいよ、お願いですから」
「幽霊! 幽霊が!」
「ちゃんと生きてます」
テスはしばらく暴れていたが、すぐ近くにいたフィーナに気付いた。彼女が冷静であるのを見て、やっと落ち着いてくれる。
「……本当に君なのか?」
「そうです」
さっきからそう言ってるのに、とレツの顔には書いてあった。
「それはめでたいが、なぜ」
「色々とありまして」
「色々で済まされては気になる! どこかで詳しく話を――」
「すみません、先約があるので。それに夕方から仕事だし」
「酒! 祝い酒を贈ろう! 再会の記念だ! それに今、妻が僕の子を産んでくれてるんだ!」
「いえ、お酒は――え、子供?」
テスは、今度はレツが止める間もなく大通りの方へと走り去ってしまった。
「子供って……こんなところにいていいのかなぁ」
何となく、彼は騒ぎ過ぎて奥さんのそばから追い出されたのではないかとフィーナは思った。
こんなところを一人でふらふらしていたのも、きっと行く当てがなかったからだろう。
「……どうするの? あの人が戻ってくるまで、ここで待ってる?」
フィーナが尋ねると、レツはとんでもないというように首を振った。
「待たないよ。本当に帰ってくるか分からないし、先約があるってちゃんと伝えたんだから」
テスには少し悪い気もしたが、フィーナは少しほっとした。
一昨年と同じように、セタンの西門の外へと向かう。
去年、ガダによって破壊されてしまったため、西門にはあちこちに修復の跡があった。
以前であれば、門の外へ出れば時々ガダを見かけることがあった。だが今は、国内のどこでも見かけないのだという。彼らも狂わされた被害者なのだが、それでも、その姿を見ると人々が必要以上に恐れるからだ。フィーナが怪我で動けないでいる内に、彼らはガーデザルグ王国の王子や兵隊と共に帰っていった。
「そういえば、さっきお酒を断ろうとしてたけど……飲めないの?」
「僕は飲めるんだけど……ルイが駄目だから、何となく」
「ああ、そういえばニーナ達にも言ってたわね。ルイがお酒が駄目って、少し意外かも。平気な顔して飲んでいそうなイメージだったから」
「平気な顔して飲んでたんだけどね……あんまりいつもどおりだから、酔ってるってすぐには気付かなかったよ」
一度だけ、同期の友人達と酒場へ行ったらしい。初めての酒だったので量も控えていたし、レツ自身は酒には強いようで全く酔わなかったから、まさかルイが酔うとは思ってもみなかったのだそうだ。
ルイの場合、顔色が変わるわけでもなければ、体調が悪くなるわけでもない。ただ、とてもよく喋るらしい。普段のルイなら喋らないようなことまで喋るので、何が起こったのかと皆驚いた。ルイは無口ではないが、余計なことはあまり言わないタイプだ。そのルイがお喋りになる姿は、フィーナにはあまり想像できなかった。
結局その場は、レツが半ば無理矢理ルイを連れて帰った。本人が隠しておきたいことを、相手が友人達とはいえ、さらけ出してしまっては本人が辛いだろうとレツは思ったのだ。
ただ、寮へ連れ帰ったもののレツはルイに捕まってしまったらしく、結局空が白んでくるまで付き合わされたのだという。
「少し見てみたいかも」
「大変だったんだよ。うとうとしてたら起こされるし、すごく前のことまでさかのぼって、朝までずっと怒られたんだから」
酔いが回っていた時の記憶は一応あるそうで、本人もかなり後悔しているらしい。「もう絶対酒なんか飲まない」と主張しているそうだ。
(でも、ずっと怒ってたなんて……言いたいことを随分溜めてたのね)
本人達は大変だったようだが、聞いている分には微笑ましくもあった。
そう遠くない距離なので、会話をしている内に二人は目的地に辿り着いていた。一昨年のあの日と同じように、留鳥草が風に揺られている。
(どうしよう)
その時が来てしまった。
ずっと前から頭の中で練習していたはずなのに、いざその時になると、フィーナの頭の中は真っ白になってしまった。顔が赤いのだけは、自覚がある。
「フィーナ?」
レツが、どうかしたのかと不思議そうに見つめてくる。
幸いこの場には他に人がいないし、言うなら今しかない。言おうと決めたじゃないか。そう言い聞かせて自分を奮い立たせる。
(一昨年のことがあったんだもの。きっと察してるわ)
だから、今日の誘いに乗ってくれたのは、少しでも希望があるからだ。
頑張れ、頑張れと心の中で何度も自分を励ます。
それから、勢いに任せて彼女は叫ぶように言った。
「す、好きなの!」
一度言葉が出てからは、雪崩のように止まらなかった。一気に言い切ってしまおうとどんどん口から出てくる。
「あなたのこと、ずっと前から。友人としてじゃないわ。一昨年も本当は言おうと思ってたんだけど、言えなくて、それで……あの、お付き合いしてくれたら、嬉しいんだけど」
レツは目を丸くしていた。
固まってしまったように見えたので動いてくれるか不安だったが、しばらくすると顎に手を当てて何やら考え込み始めた。
「へ、返事して」
黙っていられるのが一番居た堪れない。
レツはその言葉にはっとして、ようやく口を開いた。
「あ、ごめん。あの、そんなこと言われると思ってなかったから、驚いちゃって」
「……一昨年の建国祭の時に覚られたと思ってたわ」
あの時、レツは明らかに狼狽えいていた。それはフィーナの気持ちに気付いたからだと彼女自身は考えていたのだが、どうやらそうではなかったようだ。
彼は勢いよく首を振った。
「僕、自分のことで頭がいっぱいだったから」
「あ……そうよね。あの時は呪いのこととか」
「それもあったけど、そうじゃなくて……あの日初めて、フィーナのことが好きだと思ったんだ。それまでそういうこと考えたことがなかったし、何となく、お互い子供のままのような感覚でいたから……だから、その、それに気付いて混乱しちゃって、普通に振る舞うので精一杯だったんだよ。普通を装えてた自信もないけど」
彼の言葉を理解して、フィーナは自分の心臓が大きく跳ねたように感じた。
だが次の言葉に、一度は感じた幸福が急速に萎んでいった。
「でも、ごめん。お付き合いはちょっと」
気分が上がった直後に落とされて、反動で涙が出そうだった。零れないように願いながら、それでも何とか平静を装った声を絞り出す。
「ど、どうして?」
「あの、余計なお世話かもしれないけど、フィーナも今年十九歳でしょ? だから、ちゃんと結婚を考えてくれる男性とお付き合いした方がいいと思って……僕、誰かと結婚する気はないから」
困ったような顔をして言う彼に、なぜかフィーナの中に闘争心が芽生えた。ここで引いたら終わりだと、本能が告げている。
「どうして結婚する気がないの?」
少し声が硬かったからかもしれない。レツは少々狼狽えたように「色々事情があって」と小声で答えた。
「事情って何」
「え、えっと」
「エリク王のこと?」
「何で知ってるの?」
「ロウさん達に聞いたわ」
口を滑らせてくれたロウに感謝しなくては、とフィーナは考えた。リースは、レツ本人が話すまでは……と言っていたが、この様子では、レツは話すつもりは毛頭なかったようだ。
「エリク王の血を引いているから、結婚する気がないの? むしろ、結婚して次の世代に血を繋いでいくべきなんじゃないの?」
「血を引いている人は、多分、分かっていないだけで僕以外にもいると思う。だから僕が血を繋ぐべきだとは考えてないよ。でも、僕は子孫だって周りに知られてしまったし、日没の矢が僕に執着した原因もそれみたいだから、似たようなことが起きる可能性が十分あるし……次は家族とか、僕の大切な人が狙われるかもしれない」
「何もないかもしれないわ」
「それは……でも……」
彼が心配する理由もよく分かる。他人の身を案じているからこその考えであることも。だがフィーナはここで引く気はなかった。引きたくなかったのだ。
今までだって、彼は色んなことを我慢してきたはずだ。やっと呪いから解放されたのに、これからも我慢し続けるだなんてあんまりだ。
それに、フィーナだってそんなことでこの気持ちを我慢するのは嫌だった。
「今、あなたの気持ちを教えてくれたじゃない。知ってしまったのによその人のところへ行けだなんて、私には辛すぎるわ」
「ご、ごめん、言ってしまって」
「言ってくれたことはいいの! だけど結婚を前提にお付き合いして」
「ええ……フィーナのことは好きだけど、でも――」
後ずさりそうになる彼の手を思いきって掴んだ。あの日と同じ、自分よりも温かくて大きな手だ。
彼は狼狽えたが、幸い手を振り払うことはしなかった。
「ルイとはこれからもずっとペアを組むんでしょ? ルイだけずるいわ」
「だ、だってそれは」
「魔導士のパートナーがいていいなら、人生のパートナーがいてもいいでしょ!」
我ながら、とても我儘で強引だとフィーナは思った。
随分後になってから、この時のことをレツと話したのだが、彼は懐かしみながらこう言った。
誰とも一緒にならないと決めたにもかかわらず、祭りへ行こうというフィーナの誘いの乗ったのは、結局、覚悟が足りていなかったのだと。肝心なところで、いつも自分は覚悟が足りない、と。
だが、そのおかげで生き延びることができたし、好きな人と一緒になれた、とも。
後ろ向きに覚悟を決めても、自分の場合は上手くいかない。そう言って朗らかに笑っていた。
「手を、放してほしいんだけど」
「どうして?」
「……僕だって、結構我慢してるんだ」
よく見ると、耳が少し赤い。初めて見る姿だった。
「だって、あなたのこと好きなんだもの」
「僕も好きだよ。すごく好きだ」
はにかんだその顔は、フィーナの好きなものだった。だが、もっとたくさん笑ってほしいとも思う。
レツが、繋いでいた手を優しく解いた。フィーナが気付いて追いかけるよりも速く抱き締められる。
予想していなかった行動に、フィーナは固まってしまった。自分から強引に言い寄っていたにもかかわらず、忙しなく動いているのは心臓くらいのものだ。
自分を包んでくれる腕は優しかった。簡単に振り解けそうなほど控えめで、穏やかだ。
「守るよ、精一杯。この選択を後悔する日が来ないように」
頭上から好きな人の声が降ってくる。それがくすぐったくて、たまらなく嬉しかった。
顔を上げる。
秋空を背景に、優しく微笑む紫色の目はより一層映えていた。




