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黄昏色の魔導士  作者: 雨森 千佳
第三章 日没の矢
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39 異形の化け物

 体にかかる重みが突然消えたことに、レツは困惑して目をしばたいた。余分な涙が零れて視界がはっきりする。

 目の前にいたはずのセヴェリが姿を消していた。

 何が起こったのか把握できないまま体を起こそうとすると、体のあちこちが痛んで思わず呻いた。


 ゆっくり起き上がったところに横から衝撃があり、レツは再び地面に逆戻りした。


「レツ! お前生きてるよな!? 幽霊じゃないだろ!? 幽霊でもこの際連れて帰るけどさ!」


 体当たりしてきたザロに体を揺すられて、レツは頭がガンガンと痛むのを感じた。


「幽霊じゃ、触れないじゃないか」

「それもそうか」


 やっとザロが落ち着いてくれたところで、彼らのそばに一羽のステュルが降り立った。その背から翼導士のセタも降りてくる。


『まずは一つ目だ。よくやったね』


 ステュルのトトは、さて次は、というようにそのくちばしを彼らの右手に向けた。


「あれは……」


 今や多くの騎士とステュルに囲まれているそれは、セヴェリが手にしていた矢の矢尻だった。

 長い歳月のせいか角が丸くなり、矢羽も矢柄も消え失せている。セヴェリがいなくなったことで剥き出しになった日没の矢は、耳に痛い悲鳴を上げながら空中をのたうち回っていた。

 そんな日没の矢を挟み込むようにして、一組の魔導士が武器を構えた。

 目に見えない衝撃を全身に感じる。日没の矢を中心に、青と赤の星が舞った。


「当たった!」


 水の精霊と炎の精霊が激しくぶつかったその星舞は、確かに日没の矢に命中していた。その証拠に、日没の矢は濁った悲鳴を上げた。

 だが、日没の矢は壊れなかった。

 レツは慌てて、セヴェリによって投げ捨てられた自分の杖を探して駆け寄り、拾い上げた。


「様子がおかしいぞ! 下がれ!」


 部隊長が声を張り上げたその直後、日没の矢はぶすぶすと黒い煙のようなものを吐き出し始めた。

 重みのある煙のようなそれは、空へ昇ることなく砂浜へ落ちる。止めどなく溢れると同時に、耐えがたい匂いも放っていた。

 レツは、思わず袖で鼻を塞いだ。何かが腐ったような、目の奥が痛くなるような鋭い匂いだった。

 もう一度星舞が放たれたが、今度は日没の矢まで届かなかった。矢を覆う煙のようなものに阻まれ、今度は声すら上げない。

 黒い煙はどんどん形を変えていく。むくむくと大きくなり、レツの背丈の三倍ほどの高さになった。四方八方から手や足のようなものが生え始め、歪な鳥の翼や太い龍の尻尾も複数生えた。

 次に、横にぱっくりと切れ目が入り、それがぱかっと開いた。まるで口だ。数本の歯と、血のように真っ赤な舌が切れ目から覗いている。

 そして、その上に、今度は縦に二つの切れ目が入った。丸い穴になったそれが、勢いよく空気を吸い込む。それから、満足げに吸った空気を吐き出した。

 何かを嗅ぎ取ったらしいその異形の化け物は、目はないが真っ直ぐレツの方を向いた。


(まずい)


 そう思った時には、日没の矢は無数の手足を使って彼に突進してきていた。


「レツ!」


 声がする方を見ると、セタとザロを乗せたトトが低く飛んでくるのが見えた。迷わず、両手で持った杖を掲げる。トトはその杖を掴むと、はるか上空へと舞い上がった。

 空中まで追いかけてきた手は、幸いトトの飛ぶ高さまでは届かなかった。他のステュルも騎士達を乗せて次々と空へ逃れている。

 トトの背中へと引っ張り上げてもらって、レツはようやく人心地がついた。

 セタが首から下げている魔法道具から、部隊長とフェル団長のやりとりが聞こえてきた。幸い死者は出なかったが、日没の矢の黒い煙に当たった者が負傷したらしい。少し掠めた程度だったが、武器が握れないほどの状態だ、と。


「なんだあの化け物!?」


 ザロの言う化け物は、空に向かって口を開けながら、地を這うように追いかけてきている。その透けた体の中心で、日没の矢が光っているのが見えた。


「なぁ、射手との契りは解いたんだよな?」

「多分」


 セヴェリが消えたということは、きっとそうなのだと思う。

 だが、それと今の日没の矢の状態が上手く結び付かなかった。

 魔術品は人の心と繋がっているからこそ、人のように考え、エネルギーを補給し、高度な魔術を使うのだと聞いている。しかし今の日没の矢はまるで生き物で、意思を持って動いているように見えた。


「星舞も効かないし……一体何がどうなってるんだ」

『推測することはできるが、何にせよ、今の我々にできることは限られている』


 日没の矢は、真っ直ぐこちらを追いかけてくる。進んだ後の大地は草木が枯れ、その黒い煙を塗りたくったようにどす黒く変色していた。

 日没の矢はその手を再びトトに向かって伸ばしたが、またもや届かなかった。苛立ったように口を開閉する。歯と歯が擦れ合う嫌な音が、上空にまで届いてきた。


「あれは、命を奪ってるのか?」

『そのようだ。射手との繋がりが消えてしまった今、ああして直接奪う以外に方法がないのだろう』

「あれだけ暴れりゃ腹が……あ、そうだ。お前、腹減ってない?」


 ザロが唐突に言ったので、セタが「緊張感を削ぐなぁ」と小さく笑った。

 レツは、ザロが差し出してくれたものを素直に受け取って食べた。小さくて歯ごたえのあるそれが何なのか、今は考える余裕もなく、味もよく分からなかった。だが、レツの心以上に体が喜んだので、どうやらお腹は空いていたようだ。


「お前が消えてる間に、皆はもう食ったからさ。お前、長いこと出てこないから」

「長いことって……そんなに?」


 体感では、まだ昼を過ぎていないと思っていた。だが空を見上げると、太陽はとうに真上を過ぎ、西に向かって沈む準備を始めている。

 複数のステュルが、鋭い声を上げた。日没の矢が狙いを変えたからだ。


『いけない。人の里を狙っている』


 力を蓄えるために、もっと大勢の命が欲しいのだ。

 魔導士がそれを妨害するようにそれぞれに魔法を放った。レツとザロもそれに倣った。だが、大した効果はなかった。少しも効いている気配がない。

 その時、日没の矢を囲むように数本の光の矢が降ってきた。大地に刺さった矢はさらに眩しく輝き、光の壁を作り出す。結界を張ったのだ。日没の矢は体当たりを繰り返したが、結界は何とか持ちこたえていた。


『日没の矢破壊部隊、全員聞いているな?』


 魔法道具から聞こえてくるフェル団長の声に、耳を傾けた。ステュル達は、結界に閉じ込められた日没の矢を中心に旋回している。


『日没の矢がこれ以上この国の命を食らわないように誘導する。トセウィス近辺の国境へ向かえ。ただし、現在、ガーデザルグ兵団と我が騎士団は睨み合いを続けている。奴らは日没の矢を再び従えることを狙っているが、それを許すわけにはいかない。ガーデザルグ兵を退けつつ日没の矢を破壊する。それが我々の任務だ』

「なんで、わざわざ敵の近くに」


 小声で呟いたザロに、レツも小声で返した。


「人や動植物の少ない土地で、ここから一番近いからだろう。他のところへは遠すぎる」


 それに、敵もいるが、あそこには味方も大勢いるはずだった。


『日没の矢が道中被害を出さないよう、ヴァフ隊長が光の矢で援護する。レツ』

「はい」


 急に名前を呼ばれて、レツは慌てて返事をした。


『日没の矢が君から余所見をしそうになったら、気を引いて誘導してくれ。それから、星舞に備えて体力を温存しておくように』

「しかし、星舞では――」


 先程失敗に終わってしまった。レツがそう続ける前に、別の声が会話に加わった。セタンにいるヴァフ隊長の声だった。


『星舞が効かぬわけではない。致命傷にはなりえなくとも、あの無駄に肥大した体を削ぐことはできる』


 まるでその目で見ているような口ぶりだった。先程の光の矢が隊長のものだというのなら、本当に見えているのだろうか。


『そして核である矢尻を破壊するのに最も威力のあるものを持って、君のパートナーが今、トセウィスへ向かっている』

「ルイが?」


 神獣ガーデザルグに会って、何をしてきたのだろう。だがそれよりも、彼がひとまず無事であることにレツは胸を撫で下ろした。


『だが、並の星舞では矢尻をさらけ出すことすらできない。君達はこの日のために技を磨いてきたのだろう。ならばその成果を見せてみろ』


 大地が揺れるような大きな音に、レツは眼下を見た。日没の矢を押さえている結界に限界が来たのだ。


「ザロ、何か刃物持ってる?」

「小さめのナイフとでかい剣があるけど」

「ナイフ貸してくれる? 少し汚してしまうけど」


 ザロが取り出したナイフを受け取る。皮の鞘から抜いて現れた刃先に、レツは一瞬身構えた。

 何度も克服しようと思ったが、やはり刃物は苦手だ。

 どこにしようか迷った末、レツは袖を捲って腕にナイフを滑らせた。少しの痛みの後に、ゆっくりと血が滲み出してくる。


「あげるよ、これ」

「ありがとうございます」


 セタが差し出してくれたハンカチを有難く受け取る。ナイフで切れ目を入れ、ハンカチを割いた。


「トトさん、初めて会った時に、僕にあまり血を流さないように言ってくれましたよね。こういうことだったんですか?」

『そうだよ。よく覚えていたね』


 できたばかりの傷口にハンカチの切れ端を押し付ける。白い布に赤が滲んでいった。

 それを宙に放り投げ、風に流されないように魔法で誘導する。

 結界を押し破った日没の矢は、先程狙っていた人里のことはすっかり忘れたように、宙を舞うハンカチの切れ端に飛びかかった。

 トトが旋回をやめ真っ直ぐ飛び始めた。出遅れたハンカチの切れ端が、日没の矢が伸ばした手に握り込まれ、口の中に突っ込まれる。

 日没の矢は空気を激しく震わせる雄叫びを上げ、ハンカチの落とし主を目指して走り出した。


「気持ち悪すぎだろ! あいつめちゃくちゃ喜んでるぞ!」


 口から真っ赤な舌をだらりと垂らし、涎をまき散らして化け物が追ってくる。その様を見て、レツもザロと同じ感想だった。


「団長も言ってたけど、レツ君はなるべく体力を使わないように。魔法はザロ君がやった方がいい」

「なんなら、俺、血流すのもやりますけど」

『君の血は欲しくないとさ』

「好き嫌いすんのか、あいつ……」


 セタの提案どおり、落としたハンカチを誘導するのはザロに任せることにした。

 トトは目的地へ向かって、町を迂回しながら飛んでいく。日没の矢が気を逸らす度にレツはハンカチを捨てた。彼らの行く道を作り出すように、時折ヴァフ隊長の光の矢が降り注ぐ。そんなことを繰り返していると、やがてトセウィスの町が見えてきた。

 町に被害がないように避けて日没の矢を誘導しながら、レツは町の向こう側に目を凝らした。

 国境に沿うようにして、魔導士隊が結界を張り巡らせているのが遠目にも分かった。それぞれの精霊の色をした色鮮やかな半透明の結界。その先に、恐らくガーデザルグ兵がいるのだろう。

 そしてレツは、さらにその先にもう一つの気配を感じていた。


(ルイが戻ってきた)


 彼が選んでくれた杖をぐっと握りしめる。その杖の頭に埋まっている異物の気配が、これを初めて手にした時のことを思い出させた。お互いにおかしな武器を探し出したあの日のことを。

 レツの気持ちに呼応するように、いつの間にか戻ってきていた闇の精霊がざわめいた。

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