37 セヴェリ(1)
セヴェリという名の少年は、大貴族に代々仕えている家に生まれた。その大貴族こそ、次の皇帝と名高いエンゼント皇子の母君の御実家だ。セヴェリは、まだ字も書けぬ頃から昼も夜も聞かされた。お前は後に皇帝となるエンゼント様に心身共に仕えるのだ、と。
セヴェリは素直に自身の能力を磨いた。特に武術には力を入れた。お傍にいる時にその身をお守りしたいからだ。その中でも、弓術は彼の最も得意なものになった。
エンゼント皇子は幼い頃から魔術師としての才に溢れた聡明な人物として知られていた。そんな人に仕えることができるのだと楽しみにしていた彼に、ある日父はこう言った。「お前はエリク皇子の付き人として仕え、あの皇子とその近辺を探ってこい」と。
彼にとっては天から地に叩き落とされたようなものだった。
エンゼント皇子の母君とエリク皇子の母君の仲は最悪と言ってよいもので、その実家同士も長年諍いが絶えない。セヴェリの耳には、エリク皇子とその周辺の話といえば、悪いものしか届いていなかった。
エリク皇子はエンゼント皇子に比べると頭が悪く、乱暴者だと。
そして皇帝である父親に似ているエンゼント皇子とは違い、エリク皇子は母親似で、父親に欠片も似ていない。本当は皇帝と血の繋がりがないのではないか――と、そんな噂もあった。
間者が必要だというのは分かるが、そんな中に放り込まれるなんて。十歳のセヴェリには、間者としての任を与えられたという喜びよりも、嫌な集団の中で独りぼっちになるという恐怖の方が大きかった。だが、彼に拒否する自由はなかった。
エリク皇子と初めて対面した時、最も印象に残ったのはその紫色の目だった。その目を「黄昏時の空の一片のようだ」と評する者がいたが、セヴェリも同じ感想を持った。この任に対してとても落ち込んでいたにもかかわらず。
「お前が今日から私の付き人か。よろしく頼むぞ。ところで、付き人とは具体的に何をするのだ?」
「どうぞ、殿下のお好きなようにお命じください。誠心誠意尽くしてまいります」
「なら、その堅苦しい口調はなしだ。安らげないではないか」
エリク皇子は、がさつで勉強嫌いの少年だった。
長い時間書物に向かい合うことができず、隙を見ては机の前から逃げ出した。セヴェリの仕事は、主に逃げ出した皇子を捕まえることだった。そしてセヴェリは皇子より年上であるにもかかわらず、いつも出し抜かれ、苦労させられた。
近衛騎士の訓練に混ざったり、市場で民衆に相手をしてもらったり、時には近付くのも恐ろしい巨大な神獣の背に乗って空を飛ぶ。エンゼント皇子に仕えていれば発生しないだろう事柄で、セヴェリは毎日くたくたになった。
だが、その環境に居心地の良さを覚えるのに、それほど時間はかからなかった。
エリク皇子に日々振り回されているセヴェリに対し、周囲は皆優しかった。そしてエリク皇子も、振り回していることに少しは罪悪感があるのか、時には大人しくしてくれた。
「今からでも魔術の勉強をして遅いということはありません。魔法など、所詮魔術の足元にも及びませんよ」
ある日、魔術の勉強に身が入っていないエリク皇子を見て、セヴェリはそう言った。
エリク皇子は魔術が使えない。その上、神獣にそそのかされて魔法に手を染めている。それは周知の事実だった。だがセヴェリは、エリク皇子が単なる馬鹿ではないことも知っていた。馬鹿ではないのだから、子供騙しとされる魔法より、魔術を学んでほしいとセヴェリは考えた。
「知識として蓄えよというなら分かるが、いくら勉強しても私は魔術を使えないぞ。あれは生まれた時には既に決定されているものだからな。私ももう十分調べられたし、残念ながらその素質は全くない。そして魔術と魔法はそう簡単に比べられるものではない。魔術は人の力、魔法は精霊の力なのだからな。お前、スタシエルの前で同じことが言えるのか? あれが使うのも魔法だが、我々人間は手も足も出せないぞ」
思わぬ反論に、セヴェリは口をつぐんだ。
そんなセヴェリを見て、エリク皇子は笑った。
「兄上が魔術を極めておられるのだ。私のなけなしの知識など何の役に立つ? それよりは、兄上の持たない魔法を極めた方が、役に立てるというものだろう」
「ですが……魔法は下賤の者が使うものだと、皆から揶揄されます」
「心配してくれているのか?」
そう言われて、セヴェリは口ごもった。そのとおりだったのだ。
エリク皇子はエンゼント皇子のような聡明さはなかったが、噂で聞いていたほど悪い人物ではなかった。腹違いの兄を慕っていたし、行動的で意外に知恵もある。臣下にも気さくに接するため、威厳こそないが、慕っている者も多かった。
そしてセヴェリも例外ではなかった。セヴェリは、付き人としてはともかく、間者としては失格だった。
だが、幸いにもセヴェリは実家を裏切る必要はなかった。付き人として仕えていても、エリク皇子の近辺からは報告すべきことが出てこなかったからだ。エンゼント皇子が魔術師としてその地位を確立し、次期皇帝の座が覆る要素がないことも大きかった。
二人の皇子は大人になった。そして二人とも、周囲に操られるだけの傀儡ではない、芯のある人間に成長していた。
エリク皇子が望むような未来がすぐそこにあると、セヴェリは信じて疑わなかった。
そんな時に起こったのが、エンチュリ帝国東部の大災害だった。
大した雨量ではないはずが大規模な土砂災害が起こり、五つの村が飲み込まれた。その上、土砂が崩れた先に三つの村が取り残されたのだ。
その救出を巡り、初めてエンゼント皇子とエリク皇子、そしてその派閥が表立って対立した。
今回の災害は明らかに人災であり、帝国に住む複数の神獣がそれを認めた。魔術を使い過ぎたのだと。被災地は特に魔術師が多く、それゆえに精霊が土地を離れてしまっていた。以前から幾度となく指摘されてきたことだが、国が今までその対応を後回しにしてきた結果だった。
エリク皇子は、神獣や精獣に助力を乞い、人々の救出に向かうべきだとした。救出に魔術を使うことによって、さらなる災害が発生するかもしれない、と。
だがエンゼント皇子は、取り残された人々は、魔術によって救い出す方がよいと主張した。神獣や精獣に理解のない人間は多い。特に魔術師はその傾向が強く、神獣や精獣を見て大混乱に陥る可能性が高い、と。
皇子達の主張の裏で、相手の派閥に手柄を横取りされたくないという大人の思惑もあった。エンゼント皇子の派閥は特に、大災害の原因が魔術師であると露見するのを恐れていた。
皇帝はこの件の対応をエンゼント皇子に一任した。この時、皇帝の下した決断が違っていたなら、どんな未来が待っていたのだろうと思う。
エンゼント皇子はその主張どおり魔術によって人々を救済した。
そして、幸いにもその救出によって更に被害が広がることはなかった。
「なぜ、そう沈んでおられるのですか?」
帝国全土が描かれた地図を前に、エリク皇子はずっと沈んだ様子で黙り込んでいた。
今までに見たことのないその姿は、セヴェリには何かが起こる予兆に思えた。そしてそれは当たっていたのだと、後になって知る。
「……お前は、今回のことをどう考えている?」
会った時から変わらない紫色の目が、真っ直ぐにセヴェリを見つめた。
お互い、気が付けばすっかり大人になってしまっていた。
セヴェリは素直に思ったままを答えた。彼がそれを望んでいるのを知っていたからだ。
「殿下の主張も、エンゼント様の主張も、どちらも正しいものであったと私は思います。どちらの案も懸念していた点は実行しなければ分からないことでしたし……実行した結果、ひとまず何事もなくて良かったと思っています」
ただ、エリク皇子の派閥にとっては面白くない結果だ。それは間違いなかった。エンゼント皇子の派閥は勢いを増し、表立ってエリク皇子の派閥を揶揄している。セヴェリも、実家に帰ればその光景を嫌というほど見せつけられた。
「私とて、兄上の主張はよく分かっているのだ。そして、取り残されていた人々が皆無事であって良かったと思っている。だが……私は、もうこの国を出ようと思う」
最後に何と言ったのか分からず、セヴェリは目をしばたいた。
「今までも、兄上は魔術の過剰使用に対して規制を設けようと尽力されていた。だが、それを待っていては死人が増えるだけだ。今回のことで、規制の流れは完全に途切れてしまった。今後はさらに悪化するだろう」
「お、お待ちください。お二人が力を合わせることができれば――」
「周囲がそれを阻むだろう。お前も、私がどう言われているか知っているのだろう? お前自身が以前私に忠告してくれたではないか。下賤の者とされる、と」
セヴェリは口をつぐんだ。エリク皇子を嘲笑する声は、以前に増して強くなっていた。特に魔術師から。
「し、しかし、殿下をお慕いしている者達も大勢います」
「だから、そういった者達を連れて国を出るのだ。魔術師は自分の身は自分で守れるだろう。自分の身を守れぬ者は、神獣を、精獣を、精霊を頼り、時に助け、共に生きていける場所を新たに作ればよい」
そんな無茶な、とセヴェリは思った。そして、上手くいくわけがないと。
人は、長く住んだ土地からは離れたくないものだ。もし実行に移しても、エリク皇子についていく者はそう多くはないだろう、と。
だがセヴェリの予想に反して、多くの人々がエンチュリ帝国を去る決心をした。
元々、魔術師は力を持っているがゆえに傲慢である者が多く、皆不満を内に溜めていたのだ。それが一度に爆発したようだった。今回の大災害の原因が魔術師であることは、伏せていたにもかかわらず広く知れ渡っていた。
エリク皇子に従わない別の勢力も複数現れ、皆好き勝手に国を捨てた。後の世の人々が呼ぶ、エンチュリ帝国の崩壊と、民族大移動だ。
そんな混乱の最中、セヴェリは実家に呼び出された。
異様な雰囲気だった。まるで廃屋のように人の気配がなく、いるはずの者達は一様にその息を殺していた。
「お前に、間者としての最後の仕事がある」
父にそう言われるまで、セヴェリは己が間者であることをすっかり忘れていた。
血の気の引いた顔をしている彼の前には、父の他に数人の魔術師がいた。セヴェリであっても知っているほどの、名のある魔術師達だった。
そして彼らが円を描くように並んでいるその中心に、一本の矢があった。
「この矢には、この国で最高峰の魔術が用いられている。この矢で射られた者は、たとえ足を掠めただけでも確実に死に絶える。そして、目的の者を殺すまでは絶対に折れることはない――誰のことか、分かるな?」
肩を抱かれ、ぎゅっと力を込められては、セヴェリはうなずくしかなかった。
「特別な魔術だ。お前が射手となる。射手であるお前は、この魔術品と契りを交わさなくてはならない。簡単だ。一つ、言葉を言えばいい。他の者には分からないものにしろ。知られたら魔術が暴走し、お前の身と周囲に危険が及ぶ」
強く肩を二度叩くと、父はその部屋を出ていった。魔術師達もそれに続く。最後に扉をくぐろうとした魔術師が、振り返り、一言付け加えた。
「契りの言葉が誰にも聞かれぬよう、結界を張ります。契りを交わしたなら結界が破れますので、どうぞごゆっくり」
セヴェリに質問する隙を与えないように、扉はすぐに閉まった。
つまり、この魔術品とやらと契りを交わさねば、出られないのだ。それが分かってセヴェリは愕然とした。自分に選択肢など端からなかったのだ――いや、この家に生まれたのだから、たとえ結界がなくても選択肢などないに等しい。
(私が、エリク殿下を……?)
できるわけがない。
そう思ったが、太陽が一周するほどの時間悩み抜き、結果、彼は契りの言葉を呟いた。




