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黄昏色の魔導士  作者: 雨森 千佳
第三章 日没の矢
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36 日没の矢

(落ち着け、落ち着け)


 速くなる鼓動に言い聞かせながら、レツは道の先を見た。もう終わりに近い道の先は砂浜だ。

 引き寄せられるように歩いた。

 砂浜の先の、灰色の海が視界に入ってくる。その海を見つめている男の背中も。

 夢と全く同じ光景だった。

 やがて、靴の底に砂の感触を感じた。視界が開ける。夢でいつも立っている場所に、今レツは立っていた。


 セヴェリは海を見つめていたが、夢とは違い、レツに気付いて振り向いた。

 その顔を見て、レツは息を飲んだ。

 セヴェリの顔は、エリク王を射た時とは大きく違っていた。落ち窪んだ目に生気はなく、肌は土気色をしている。輪郭がぼんやりしていて、とてもそこに実体のあるものには見えなかった。かといって、幻のように儚く消えてしまいそうにも見えない。


(本来の肉体はとっくに消えているはず……あれは、魔術品が作り出した仮の器だろうか)


 そしてそのセヴェリは、弓と矢を持っていた。弓は夢で見た時と同じ、特徴のないありふれたものに見える。だが矢の方は、おぞましい気配を放っていた。


(あれが、日没の矢)


 その矢尻に目を向けると、視線を感じた矢がぶるぶると不気味に震えた。絶えず黒いもやのようなものを吐き出し、耳に痛い金属音のようなものが僅かに聞こえてくる。

 レツは、腰に下げていた杖を握った。だが、今はもう魔法が使えない。今まで一緒にいてくれていた精霊達は霧散してしまったし、この結界の中にはそもそも精霊はいなかったようだ。だから、こんなにも色のない寂しい世界なのだ。

 頼れるのは杖術だけだ。それで、いつ終わるのか分からない、結界の崩壊まで持ちこたえなくてはならない。


(それか、セヴェリが契りから解放されれば、あるいは……)


 戦って勝てるとは思えない。魔術品を破壊できるのは、星舞か地天技法で作られた武器だけだ。自分にはそのどちらもなかった。

 なるべく刺激しないようにと、レツは精一杯落ち着いた声を出した。


「……セヴェリ」


 ぴくりと頬が動いた。声は聞こえるらしい。


「エリク王が亡くなって、六百年は経ちます。スタシエル王国にもう王はいない。だから、あなたもその役目を終えていいはずだ。あなたに命令を下した者達だって、とっくに亡くなっている。そんな状態でずっとこの世にいるのは、あなただって辛いんじゃないですか?」


 セヴェリはぐりぐりと目玉を動かした。レツを見て、どこか遠くを見て、またレツを見る。


「魔術品を手にした時に、あなたは何か言葉を言ったはずだ。魔術師にそう命じられたはず……それをもう一度口に出せば、あなたは解放されます」


 セヴェリはあんぐりと口を開けた。

 通ってきた洞窟のような、中に何があるのかないのか分からない闇が口の奥に居座っている。


「……盛大な祭りになるでしょう。好き嫌いはいけません。あなたが裏切ったから」


 洞穴のような口から出たその言葉に、レツは言葉を失った。


「殿下、お待ちください。私にそのような大役は……陛下こそ、どなたか良い方はいらっしゃらないのですか?」


 彼の心は、恐らくとうの昔に壊れていたのだ。六百年という歳月は、あまりに長すぎた。正気を保っていられるはずもない。

 それなのに、彼の心は解放されないままこの世に縛り付けられている。魔術品を動かすためだけに。命じた者は既に死に、今となっては誰が望んでいるのかも分からない目的のために。


「裏切った。友だと。あの言葉は。騙したんだ。弄んだ。陛下」


 遠い過去に向けられていた目が、レツを捉えた。正気を失った者の、おぞましい視線だった。身がすくみそうになるのを何とか堪える。


(……こんなの、一体どうすれば)


 契りの言葉を言わせるなど、とてもできるようには思えなかった。本人がそれを覚えているかどうかも怪しいし、先程レツが言ったことはまるで聞こえていないだろう。


(それでも――それでも、何とか。たくさん喋らせれば、その中に契りの言葉が出てくるかも)


 セヴェリの虚ろな目に、怒りが灯ったのをレツは見た。明らかに自分を見つめている。弓矢を持つ手を動かしたのを見て、レツは急いで杖を腰から取り外した。

 場所は砂浜で、小さな入り江だ。逃げ隠れできるものではない。

 ならば、自分が武器を奪うのが一番確実だとレツは考えた。

 レツとセヴェリの間には、二十歩程度の距離がある。矢が放たれる前に懐に飛び込もうと砂地を蹴る。

 だがその瞬間、セヴェリは鼻同士が触れそうなほど近くにいた。


(速い!)


 生きた人ではありえない速さで間合いを詰めてきたセヴェリは、弓を大きく振った。杖で受け止めるが、体ごと吹き飛ばされる。レツの体は砂浜に叩き付けられ、そのままずるずると滑った。

 またすぐそばに気配を感じて、レツはすぐさま飛び起きた。起き上がりながら杖を振るったが、セヴェリは音もなく下がってそれを避ける。そして、矢を叩き落とそうと手首を狙ったレツの杖を受け止め、杖ごとレツを投げ飛ばした。

 砂地に強く背中を打って、レツの喉から呻き声が漏れた。跳ねて宙に浮いた胸倉を掴まれ、再び地面に強く押し付けられる。杖で殴りかかれば、その杖を力尽くで奪われ、遠くに放り投げられた。


 敵わない。

 その考えが、レツの頭に浮かんだ。


 髪を掴まれ、何度も打ち付けられた。

 目の前に星が飛び、堪えるのに呻きが漏れると、それを聞いてセヴェリが笑い声を上げる。


 もう駄目だという思いが、まだ諦めたくないという気持ちより大きくなった。


 体を起こしたセヴェリに、腹を踏み付けられる。息が詰まって咳き込んだ。頭を何度も打って朦朧とする中で足を押し退けようと試みるものの、足はまるで重い石のように微動だにしない。

 限界まで目を見開いたセヴェリは、ゆっくりと弓に矢をつがえた。

 きりきりと弓を引き絞る。

 緩める。

 そして、また引き絞る。

 暗い笑みを浮かべ、いつでも殺せるのだと見せつけているようだった。

 何とか逃れようとする一方で、レツの心身は死ぬための準備を始めていた。

 少しでも多く脈を打とうとするように心臓は早鐘を打ち、速くなりすぎた鼓動が頭まで響いてくる。

 自身の動きを封じている足を叩くが、手に力が入らない。

 死ぬことは分かっていたはずじゃないかと、無駄な努力はやめろと心が呼びかけてきた。

 ザロに言ったじゃないか。物心がついた頃から分かっていた。とうの昔に死ぬ覚悟はできていたのだ。魔法もなしに生き残れるほど自分が強くないことも自覚していた。だからもう、そんなに頑張らなくてもいいじゃないか、と。


『死ぬ時ってどんな感じだと思う?』


 まだ彼が幼かった頃、ミーシャが言ったことを思い出した。

 日没の矢の魔術で殺された彼女は、どうだったのだろう。そして自分は、これからどう感じるのだろうかと思う。

 

『死ぬ瞬間に、生まれた時からの人生をやり直すとか言うじゃない? それとか、最後に思い出す人は誰か、とかさ』


 その話をした時、レツは、思い出したい人などきっといないと思っていた。

 サイベンにいた十一年間、ひたすら体を小さくして死を待っていた。場所が変わったところで、自分の人生に大きな違いはないと考えたのだ。

 だが予想に反して、彼には思い出したい人がたくさんできた。

 師匠達。

 友人。

 自警団の人達。

 騎士団の仲間。

 初恋の人。

 そして、パートナーと呼べる人も。

 セタンに来る前は、想像もできなかった。思い出すだけで温かい気持ちにしてくれる人達が自分にもできるだなんて、思ってもみなかったのだ。


(ごめん。約束したのに)


 その謝罪すら伝えられないのだと思うと、なおさらルイに申し訳なかった。せめて、ザロに伝言でもお願いしておけば良かったと後悔する。

 だが、仕方がないのだ。自分で自分を慰めるように、レツはそう思った。

 エリク王と同じ紫色の目を持って生まれてしまったのだから。

 普通の人と同じ人生など望めない。分不相応だったのだ。母親の言いつけどおりにしていれば、ルイの時間を無駄にすることもなかったのに。




――お前だってただの人間だろ!




 ルイの叫ぶような声が耳に甦り、レツは紫色の目を見開いた。

 それは、レツが二十年近い間、目を背けていたものをさらけ出すものだった。


 目が紫色だから何だというのだろう。

 大昔の王様と同じ色だというだけで、どうして殺されなければならないのか。虐げられ、遠巻きにされるに値する理由だというのか。


 理不尽じゃないか。


 今まで、レツは自身に対してそう考えたことはなかった。

 考えてしまったら最後、恨みと恐れと悲しみでどうにかなってしまいそうだったからだ。

 弱い心を守るために、ずっと彼は自分自身に言い聞かせていた。そう生まれてしまったのだから仕方ない、その運命を受け入れるしかない、と。


(僕だって……僕だって本当は)


 大人になったらどんな仕事をしよう。

 どこに住んで、どんな風に暮らそう。

 好きな人と結婚できるか。

 友達とはいつまでも仲良しか。

 誰もが夢を見たり妥協したり諦めたりするそんな将来のことを、誰もレツに尋ねはしなかった。


 騎士になろうと誘ってくれたルイ以外は。


(死にたくない)


 ほとんど初めてそう願うと同時に、ほとんど初めて、目頭が熱くなった。

 視界が歪む。

 目尻から零れた涙が、砂の上にぱたぱたと落ちる音を聞いた。

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