31 弓を引き絞る音
黄昏時の空は燃えるような色をしていた。秋口の風が心地良い。
「セヴェリ」
声をかけると、エリク王に背を向けていたセヴェリは驚いて振り返った。その時、手の中にあるものをその背に隠す。だが、隠すには長すぎたようで、肩のところから矢羽が覗いている。つくづく、この若者は間者には向いていないと思う。
「へ、陛下……なぜ、このようなところに」
「何もおかしなことはないだろう。ここは皆が築いてくれた、我々の国の、我々の城だ」
これから死ぬのだと分かっているのに、不思議と心は凪いでいた。自分が笑みを浮かべているのを、エリク王は自覚していた。
「……セヴェリ、お前と初めて会って、もう十年以上になるな。あの時のことを今でも覚えているよ」
お互い、まだ小さな子供だった。共に大人になり、こうして遠い地に来るなどと、あの頃は全く予想していなかった。
「お前は明らかに挙動不審だったな。こんな者を間者として送り込んでくるなんて、兄上の母君は何を考えているのかと、子供ながらに呆れたものだ」
そして今のセヴェリも、その顔から動揺を隠せていない。本当に素直な奴だとエリク王は思った。
「……ずっと、ご存じだったのですか……?」
「ああ」
セヴェリの表情は、驚愕から、ゆっくりと別のものに変わっていった。
「ずっと、知らぬふりを……」
嘆き悲しんでいるようでいて、怒り恨んでいるような彼の表情を見て、エリク王は少し胸が痛んだ。
間者として割り切れていたならば、騙し騙されたところで、セヴェリはこのように辛い思いをしなかっただろうに。間者のはずなのに、本当に自分を慕ってくれていたのだ。
だからこそ、終わりにしなければならない。
セヴェリの持つ魔術品は、エリク王が今まで見てきた中でも最も強力なものだ。悔しいが、破壊する術がない。目的を果たさねば止まらず、その間も周囲の命を吸い上げ、契りを交わしているセヴェリをも蝕むだろう。魔術の知識が全くないと言っていいセヴェリが持ち続けるには、あまりに危険な代物だった。
自分を殺し、もうすぐ訪れる夜の闇に紛れて逃げてくれればいい。エリク王はそう考えた。
セヴェリが突然駆け出したので、エリク王は慌てて後を追った。セヴェリは庭を抜け、城の中へと入っていく。
続いて城の中へ入ると、中は夕日の赤い光が差し込んでいるものの薄暗かった。長く伸びた影が床に落ちている中で、セヴェリの姿を探す。
「セヴェリ!」
呼びかけた声が、城の奥まで反響する。だが探している姿は現れなかった。
もっと奥へ行ってしまったかと歩を進めようとした時、きりきりと弓を引き絞る音を背後に聞いた。
振り返り、怒りの形相で涙を流しているセヴェリと目が合う。
それが、彼が目にした最後の光景になった。
◇◇◇◇
ザロは、はっと目を見開いて現実に戻ってきた。
間一髪で受け止めたレツの体を、ゆっくりと地面に横たえる。
(なんだ、今の)
速くなった心臓を落ち着けようと、ザロは大きく深呼吸した。
突然目の前でレツが倒れ、彼はそれを受け止めた。レツの体に触れた途端に、不思議な夢を見たのだ。妙にリアルな夢だった。
あれは、殺される直前のエリク王の記憶だ。ザロでさえ、それは容易に想像できた。
レツが呻き声を上げたので、ザロはその顔を覗き込んだ。
「おい、大丈夫か?」
まさか、日没の矢に殺される時が来たのでは――と、心臓がどきどきする。
レツはうっすら目を開け、微かな声で「大丈夫」と言葉を返した。
「頼むから驚かさないでくれよ。今お前が死んだら、俺、絶対ルイに恨まれるぞ」
緊張に耐え切れずに軽口を叩くと、レツは少しだけ口角を上げた。
起き上がろうとするのに手を貸す。体に力が入らないようなので、ザロはそばにあった壁にもたれられるように手伝った。
「また面倒なタイミングで来たな、予想はしてたが」
駆け寄ってきた人の姿を見て、ザロはレツの正面を空けた。現在クィノと組んでいるはずのウィルだった。
ウィルはレツの顔を覗き込み、その肩に手を置いた。それから藍色の魔法の鳥を飛ばす。滅多に見ない、時の魔導士の鳥だ。
「ザロ、さっきこいつに触った時、何か見ただろう」
ちらりと一瞥されて、ザロはなぜだかぎくりとした。何となく、なぜ自分があのようなものを見たのか分かっていたからだ。
「君も、二つ目の属性は時だろ? こうして触ると、彼が見ている記憶を一緒に見ることができるんだ。まぁ、俺くらいになると、触る必要もないんだが」
ウィルがそう言っている間も、まだ時の精霊がレツを中心に勢いよく渦巻いていた。
やはり人のものを勝手に覗いてしまったのだと、ザロは居心地の悪さを感じた。
「レツ、聞こえるか?」
レツは小さくうなずいた。まだ夢現のように見える。
「君を、これからノーザスクの北東部へ連れていく。その意味が分かるな?」
「日没の矢……」
「そう。国内がこれだけ騒がしいんだ。あれももうじっとしていられない。そもそも、何百年も経って魔術品としての限界も近いんだ。このまま放っておけば、また暴走するだろう。君はそれを止めに行くんだ」
レツは聞いているのか聞いていないのか分からなかったが、ウィルは続けた。まるで簡単なお遣いを頼むような口調だった。
「君は魔導士としてよく成長してくれたよ。これだけの精霊が君についていてくれれば大丈夫だ。ノーザスクの先で、君はたった一人、日没の矢の結界の中に引きずり込まれるだろう。中に入れば、精霊達は君を捨てて内側から結界を破ってくれる。結界が破れたらこっちのものだ。破れるまで時間がかかるが……生きたければ、何とか戦ってくれ」
レツは何も言わなかったが、ザロは思わず口を挟んでいた。
「精霊に捨てられた魔導士が、どうやって……?」
ウィルはザロを見て苦笑した。
「まぁ、詭弁だね。正直言うとただの生贄だよ、悪いけど」
「……ルイは、こんな話してませんでした」
「そりゃそうだ。彼に教えたらどうなるか分かるだろ? 騙したようで申し訳ないけど、こっちもたくさんの人命がかかってるからさ」
ウィルは再びレツに目を向けた。
「だが、ルイがいくら抗ったところで、同じ結果になっただろう。君はそもそもそういう生まれなんだから。考えてみたことがあるか? ろくに修練を積んでいないのに、頻繁にエリク王の夢を見るのはなぜなのか。その道の熟練者でなければ、夢で過去を見る時は自分の――もう聞こえていないな」
レツは目を閉じていた。先程よりもいっそう時の精霊が騒がしい。
「ほら、触ってみろ」
ウィルに促されるままに、ザロはレツの肩に触れた。彼の見ているものが流れ込んでくる。エリク王は、泣いている女性を抱きしめていた。
「何か重要な夢を見ないか、日没の矢のところへ行くまでの間、こうして覗いてやらなきゃならない」
「俺が行きます」
勇んで言うと、ウィルは小さく笑った。
自分ならば、一時的でもペアを組んだ経験があるし、星舞の必要があればウィルとレツよりは、自分の方が上手くできるだろう――ルイのようにはいかないが。
それに何より、二人の友人として、自分が行くべきだと強く思った。
「そう言ってくれると思ったよ。すぐに準備を整えるから、それまでここでこうして彼を見ていてくれ」
ウィルが立ち上がり、人ごみの中へ消えていく。それを見送ってから、ザロはレツに視線を落とした。短い夢から戻ってきたレツは、虚ろな目でどこかを見つめていた。




