29 シュラルの乳母
ルイ達三人が会話もなく扉の前で待っていると、やがて、家の中からばたばたと人の走るような音が聞こえてきた。その音が近付いてきて、扉が開く。中から出てきたやや年老いた女性は、シュラルを勢いよく抱きしめた。
「姫様、ルーラシュテ様! よくご無事で!」
「久しいわね。突然だから驚いたでしょう? 中で休ませてもらえる? ああ、この者達は私の護衛よ」
「もちろんですよ。さぁ、護衛の方々も一緒に中へどうぞ。お食事もきっとまだなのでしょう? すぐにご用意いたします」
乳母はシュラルの訪問が相当嬉しいようで、甲斐甲斐しく世話を焼いてくれた。
三人を客間に通すとシュラルをふかふかのソファに座らせ、温かい料理と飲み物を出した。
勝手に護衛ということにされてしまったルイとロウは、シュラルより少し下がった場所で、出された食事を食べた。
「姫様がスタシエル王国へ行くと決まった時には、この世の終わりのように思いましたわ。グラネア帝国ならまだしも、蛮族共の国に美しい姫様を放り込むだなんて……いくら神獣様のお言葉とはいえ」
その蛮族を家に上げていると分かれば気絶してしまうんじゃないか、とルイは思った。
「姫様がご無事で何よりですわ。ですが、姫様がお戻りになられたということは……やはり、噂は本当なのですか?」
「市井の者の間の噂は、私の耳には届かないわ」
「まぁ、それもそうでございますね。実は、エドヴァルド様が近衛兵団と魔術師団を招集しているそうで、スタシエル王国と戦争になるのではとの噂があるのです。それで、戦争が始まる前に姫様が連れ戻されたのでは、と」
乳母の話では、スタシエル王国との国境に近い山のいくつかが土砂崩れを起こしたのだという。近隣には小さいが村があり、死傷者も出た。ここしばらくは雨もなく大地が揺れることもなかったため、自然災害ではなくスタシエル王国からの攻撃ではないかと推測している者が多いのだそうだ。
実際には、ガダが国を出てスタシエル王国に攻め入ったのが原因だ。精獣についてくれている精霊が離れたことによって均衡が崩れたのだ。
(せめて、魔術を捨てていればそんなことにはならなかっただろうに。結局、エンチュリ帝国崩壊の時と同じだな)
当時はまだ帝国の皇子だったエリクが国を出た理由は、いくつかの説がある。その中で最も有力な説が、エンゼント皇子と仲違いしたというものだった。
エンチュリ帝国時代は現代よりも魔術師の比率が高く、魔術品も多用していた。そのために精霊が留まってくれずに国のあちこちで災害が発生していたという。だが、大陸のほぼ全土を手中に収めていた当時、少々捨てなければならない土地が出ても、誰も気にしなかった。
帝国崩壊の少し前にも大規模な土砂災害が起こり、多くの人命が失われたと記録が残っている。それが二人の皇子の仲違いの原因だろう、とも。
ガーデザルグ王国は、まだあの頃から学んでいない。もしかしたら原因を理解しているのかもしれないが、国民感情を考えてスタシエル王国に罪をなすりつけるつもりかもしれないとルイは思った。常日頃蛮族だと嘲っている国のせいにしてしまった方が、王家や貴族達は安心だろう。
「実は、夜も眠らずにここへ来たの。日が暮れるまで休ませてちょうだい」
それは大変と、乳母は慌ててベッドを三人分用意した。ルイとロウは申し訳ないが同室だと言われたが、二人にとってはその方が都合が良かった。
食事を終えた後に部屋へ案内され、二人きりになるとロウは大きく伸びをした。
「夜になるまで休憩だな。お前、先に寝ていいぞ」
二人同時に、という選択肢はなかった。別室にいるシュラルが不穏な動きをしないか見張る必要があるし、状況を常に把握しておきたいからだ。
「年上に譲りますよ。お先にどうぞ」
「人を年寄り扱いしやがって。まだ二十七だぞ、俺は」
ぶつくさ言いながらも、ロウはルイの提案に乗った。すぐ手の届くところに剣を置いてベッドに潜り込むと、すぐに寝息を立て始めた。
魔法を用い、別室にいるシュラルの気配を探る。乳母とひそひそと話をしているようだが、どうやら両親の話のようで、怪しい気配はなかった。
外の様子にも気を配りながら、ルイはガダに乗ったせいでまだ強張っている体をほぐしつつ、部屋の中を見回した。
使用人用の部屋だろうか。部屋の中はベッドが二つとクローゼットが一つ。それから壁に鏡が掛かっているだけだった。
鏡を覗き込み、目にかけた魔法の様子を確かめる。ロウが言ったとおり、上手くできていた。魔法を使用している範囲が極端に狭いこともあり、これなら光の魔導士と出くわしたとしても中々気付かれないだろう。そもそも、この国にいるのかどうかは定かではないが。
よく見かける色をと思い褐色を選んだが、当然他の色にすることも可能だった。
(もし紫色にしたら、日没の矢に狙われるんだろうか)
逆に、レツの目の色を変えてしまえば呪いから逃れられるのだろうか。
試してみる価値はあるが、自分自身の目を紫色に変えるのはリスクが高い。ルイもレツと同い年だ。日没の矢に狙われたなら、すぐに殺されてもおかしくない。
だが、レツの目に魔法をかけるのも難しい気がした。生きて動いているものにかけるとなると、自分自身にかけるより難易度が上がる。
(もし実験するとしたら、紫色の目をした光の魔導士が自分で自分にかけるのが一番リスクが低いか)
そんな都合の良い人物がいるだろうかと考えて、ルイの脳裏にヴァフ隊長の顔が甦った。
それから、以前ロウに言われたことを思い出した。ヴァフ隊長がなぜ生きているのか、冷静になれば理由が分かるはずだと。レツがヴァフ隊長と同じ道で生き残れないことも。
偽った己の目を見つめていて、ルイはその言葉の意味にようやく思い至った。
(そうか……! あの人も、魔法で目の色を変えているんだ)
今ルイが考えたように、自分の体を使って実験したのだ。魔法で日没の矢を誤魔化せるかどうかを。
本当は、彼の目は紫色ではない。魔法で色を偽っても、日没の矢は誤魔化せない――だから、隊長はまだ生きていて、レツは同じ方法では助からないのだ。レツの目の色を変えても、日没の矢は間違えずに彼を呪い殺すだろう。
試した結果失敗に終わったからいいものの、成功していたらヴァフ隊長は死んでいたことになる。あまりにも危険な賭けだった。
(あの人は、どうしてそんな……)
何を考えているのか分からないあの目を思い出しながら、ルイは鏡に映る自分の目を見つめていた。




