11 雨の日(2)
「ルイ」
寮に入ったところで名前を呼ばれ、ルイは声のした方を見た。
入口に程近いところにある談話室から、同じ一年生の少年が手を振っているのが見える。
ルイは自室へ向かおうとしていた足を談話室へと向けた。
談話室には、雨のせいで時間を持て余している研究生がたむろしていた。一年生以外の姿も見える。
「どこ行ってたんだ?」
「資料館の方にちょっと」
「えー、雨降ってるのに偉い!」
「どうせ返却しなきゃいけない本があったから」
誰かが持ってきたらしいお菓子を差し出され、ルイは受け取って口に入れた。口の中に甘ったるい飴の味が広がる。
座るよう促され、上手く断る理由も見つからなかったので、彼は椅子の一つに腰を下ろした。すぐそばの暖炉の中で、炎燈岩がチリチリと音を出している。雨のせいで外は少し肌寒かったが、ここは暖かかった。
ルイの故郷であるノーザスクはこの国でも特に辺鄙な場所で、子供の数は大して多くなかった。それに比べると、研究所は同年代の子供も多ければ大人も多い。だが、何日か経って気付いたのは、結局コミュニティの大きさで言えば大差ないということだった。
他の学年の子供と接する機会はほとんどないし、大人は教授や師匠くらいしか接触してこない。人の流動も少ないので、入所前に想像していたより息苦しい場所だった。
「たまには外に出たいよね、ずっと研究所の中だし」
「馬鹿、そんな暇どこにあるんだよ」
「私は二級までで充分だし。秋の建国祭はきっと出してもらえるよね? ね、出してもらえたらルイも一緒に行こうよ」
話を振られて、ルイは「先のことすぎて分からないな」と笑ってはぐらかした。正直、行きたくはない。
この子達のことは特別嫌いではないし、この先何年も一緒に過ごしていくのだから上手く付き合っていきたいと考えている。そして今のところは表面上上手くいっていると思うが、親しくなりすぎると良くない予感がしていた。
故郷のことを思い出す。できれば友人達には二度と会いたくなかった。彼らはそう思っていないかもしれないが、ルイは嫌だった。
折角新しい環境に身を置くことができたのだから、同じ失敗を繰り返したくはない。だから、ルイは心の中で親しくなりすぎないようにすると決めていた。
「そういえば、ベン教授から成績表預かってるんだった」
男の子の一人が、鞄から紙の束を二つ取り出した。折りたたんで重ねたものを紐で縛ってある。
他人のを盗み見ようと思えばいくらでもできる形だ。ルイは少しもやもやした。あの教授は好きではない。
成績は本来、年に一回、冬の終わりに発表される。しかし、一年目はそもそも自分の実力が分かっていないということで、授業に慣れてきたこのタイミングで特別に配られるらしい。
「こっち、女子寮で配っといてよ」
赤い紐で括られている方を女の子に渡すと、男の子は残った方の紐を解いた。
「俺のどれ?」
「あ、こら待てよ」
テーブルの上に散らばった成績表を、各々が好き勝手に取るのでもうめちゃくちゃだった。そもそも、折りたたんだ内側にしか名前が書かれていないのが悪いのだ。開かないと誰のか分からない。
「これルイの、あったぞ」
誰かがルイの分を寄越してくれた時、もちろん紙は開かれていた。見られて困る成績ではないが、いい気はしない。やはりあの教授は嫌いだとルイは思った。こうなるのが分かってやったんじゃないか、あの男は。
受け取った成績表をたたんでいると、誰かの「これ酷い」と笑う声が聞こえた。
なんだなんだと集まって覗き込んでいる成績表を取り上げる。なるべく中身を見ないように名前を確認し、ルイはそれを折りたたんで自分の分と一緒に本に挟んだ。
「俺が渡しておくよ」
そのまま席を立つ。じゃあまた、と笑顔で手を振り合いながら、ルイは談話室を後にした。
男子寮に続く階段を上りながら、大きく深呼吸する。廊下の少し冷たい空気を吸い込んで、体が冷えていくようだった。
(俺がイライラしたって解決しないんだから。落ち着け)
そう自分に言い聞かせる。
廊下の窓から、雨が降っている庭が見えた。まだ昼間なのに薄暗く、青々としているはずの木々がくすんで見える。
その庭を見下ろしながら、庭に出たいとルイは思った。雨のせいで余計に閉塞感が増している。嫌な感情ばかりが胸の内に溜まっていくようで堪らなかった。
最初の授業で、一年生の間でのレツの立ち位置が決まってしまった。女の子達に場所を譲った時点で、無下に扱ってよい対象になってしまったのだ。「呪いが恐い」という大義名分もある。
師匠達が動いてくれたのか、ベン教授は、証拠が残る形でレツを酷く扱うことはなくなったが、何かある度に評判を下げるようなことを言うようになった。形に残らない分、レツもルイも師匠達を頼りにくいし、一言一言はそれほどでもないのが厄介だった。そして教授が――しかも、教授の中でも一番権力のある人物が――そんな風だから、子供同士で配慮なんて望むべくもない。
ロウは動かなくていいと言ったが、見ていて不快なのはどうしようもなかった。
しかし嫌だと思いながらも、結局何もできないまま、今日まで来ている。悪口に乗ることはしないし、講義の時は隣に座るようにはしているが、それだけだ。
自分の部屋の前まで来て、ルイは本に挟んで持ってきた成績表を取り出した。師匠達が教授に口出しするより以前からの評価が含まれているので、レツの評価が酷いことは見なくても分かっていたが、渡さないわけにもいかなかった。
ルイはレツの分を避け、自分の成績表を開いた。数字で示された評価値と、コメントが記されている。
コメントの最後に書かれた「希望があればパートナーを他の者に変えても良い」の文字に、治まりかけていたイライラが甦ってきて、ルイは乱暴に紙をたたんだ。
(大体、あいつもあいつだ。もっと強く出ていれば違ったかもしれないのに)
こんなに苛立つのも、きっと雨のせいだとルイは思った。最近は新しい生活に慣れるのに精一杯で、故郷で日課だった剣術の鍛錬はほとんど時間が取れていない。その上、魔法の実技も中止になったから体力が余っているのだ。
ルイは苛立ちを抑えきれないまま、自室の扉を開けて中に入った。
丁寧とは言えない動作で本を机に置こうとして、ルイは手を止めた。部屋の中の雰囲気がおかしい。
部屋の中には、間を開けて置かれている机が二つと、二段ベッド、それとタンスが一つあるだけだ。一見すると誰もいない。
だが、行儀悪く引いたままになっている椅子に、見えない誰かが座っていることにルイは気付いた。音を立てないように本を置き、レツの分の成績表だけを持って、そっと近付いていく。
触れられる距離まで近付くと、ようやく目で見ることができた。それでも少し、まるで幽霊のようにその姿はおぼろげだ。
居眠りをしているのかと、ルイは静かに嘆息した。
魔法で姿を隠しているレツは、机に頭を預けて眠ってしまっていた。こちらを向いている寝顔は、当然目を閉じている。そうしていると他の子と何も違わない。
レツは眠っている間に姿を消す。闇の魔法の一種のようだ。初めて会った時もそうだったが、何日か同じ部屋で過ごしてみて、彼の場合は意図的に魔法を使っているわけではないことに気付いた。恐らく、本人は知りもしないのだろう。
魔法の練習をしている様子を見ても、特別得意なようには見えないのに、これに関してはどうしてこう器用なのかと不思議に思う。いつからこれができるのだろう。
もしかして、触ることもできないのだろうか。本当に幽霊のように実体がないんじゃないか。そんな疑問が浮かんで、ルイはつい手を伸ばした。
伸ばした手の指先に、髪の毛の感触があった。
その時、レツの瞼が少し震え、口が開いた。
「……セヴェリ」
「え?」
聞き慣れない単語に思わず声が出た。その声でなのか、レツの目が開く。ルイは慌てて手を引っ込めた。
紫色の目が不思議そうに自分を見ていたので、ルイは何となく気まずく感じた。何と言おうかと悩んだ末、何も思いつかず、彼は黙って成績表を差し出した。
「……ありがとう」
レツがそれを受け取ると、ルイはさっさと離れ、自分の椅子に座った。
イライラと荒れていた心は、いつのまにか落ち着いてしまっていた。