18 神殿の元王女
この国の名となった神獣ガーデザルグは、大地の龍だ。
建国当時から、その龍は岩山にある洞穴に籠っている。その近くにこの神殿は建てられた。
殺風景な場所だ。岩山の中腹にしがみつくように建っている神殿の周囲には、見るべき景色もない。王城とそれほど離れていないはずなのに、山に遮られてまともに見ることもできず、王都が祭りで盛り上がっていてもその音一つ届かなかった。
(相変わらず、退屈な場所)
シュラルは溜息をつくと、傍らに置かれていた本を手に取った。大神官である祖父が、彼女が退屈しないようにと置いていったものだ。年頃の娘だからと安易に恋愛小説を選ぶところが、祖父らしい。
(そんな風に物事が見えていないから、長女の夫を次女が奪い取るようなことになるんだわ)
きっと祖父にとっては、どちらが王妃でもかまわなかったのだろう。自分が王妃の父親であることに変わりはないのだから。
シュラルは本の中ほどのページを引っ張った。紙の破れる感触が指先から伝わってくる。それをゆっくり味わいながら、シュラルは艶やかな唇で笑みを形作った。
恋愛など馬鹿のすることだ。シュラルはそう考えていた。もちろん、夫を取られたと恨みつらみを書き綴って死んだ母のことも、馬鹿だと思っている。もっと打算的に王妃の座に居座っていればよかったものを。
その母の妹の色仕掛けに惑わされ、婚姻まで結んでしまった父はさらに馬鹿だ。馬鹿な両親、馬鹿な王家。つくづく、自分を取り巻く環境が嫌になる。
だが、スタシエル王国で男達を手玉に取るのは面白かった。彼らは、シュラルの思うがままに踊ってくれたのだ。己の立場も責任もかなぐり捨てて心身を捧げてくる様は愉快だった。シュラルが彼らに与えたものなど、作り笑いくらいなのに。
昨年の秋、この神殿に約九年ぶりに帰ってきたシュラルを見て、神官達は色めき立った。神官は神獣に仕える身なので、裏はともかく、表立って異性と交際できない。そんな彼らにとって、彼女の存在は毒のようなものなのだろう。ここには巫女等の女性もいるにはいるが、彼女達とシュラルでは比較にならない。
だが、彼らで遊ぶのももう飽きた。二人ほど、彼女に手を出そうとしたとしてここを追放されたが、これ以上繰り返すほど面白い遊びでもない。
(あの王子が私を放置しなければ、神官が減ることもなかったでしょうに)
エドヴァルド王子は、シュラルが帰ってきても会いに来るどころか手紙の一つも寄越さなかった。
約束を守る気がないのだろう。
シュラルとて、「王族へ戻ることができる」と心の底から信じていたわけではない。所詮はあの女の息子だ。
次に会った時にはどうしてくれようかと考える。
惑わしてみようか。神殿の巫女、それも腹違いの姉に懸想したとなれば、王家の評判に関わるだろう。それであの国王や王妃に傷を負わせることができれば、どんなに楽しいだろうか。
女性から男性に会いに行くなど、この国では眉をひそめられる行為だが、いっそ自らエドヴァルド王子を訪ねてみようか。そう考えていると、部屋の扉を叩く小さな音がした。
「ルーラシュテ様、急ぎお伝えしたいことがございます」
扉の向こうからの侍女の声に、シュラルは入るよう声をかけた。侍女が慌てた様子で部屋に入ってくる。床に膝をついて頭を下げた侍女は、少し息が切れているようだった。
「それで?」
「エドヴァルド殿下がルーラシュテ様にお会いしたいと、今こちらに向かっているとのことです」
シュラルは形の良い眉をひそめた。突然すぎる。女性に仕度の時間すら与えないなどと、無礼極まりない。
だが拒める立場でもないし、その気もなかった。退屈しのぎには丁度良い。
今日はもう暇を持て余すだけとあって薄着の寛いだ格好をしていたが、シュラルは着替えもせずに応接の間へと向かった。
エドヴァルド王子はまだ到着していないようだったが、神殿の中では神官達が忙しなく立ち働いていた。王城からここまで、大した距離ではない。すぐにも到着するだろう王族に見られたくないものを隠しているのだろう。魔術師の前でどこまで隠し事ができるのかは知らないが、慌てふためいている様は見ていて面白かった。
やがて、王族の来訪を告げる鐘の音が神殿に鳴り響いた。途端に神官達が各々の部屋に駆け込んでいく。シュラルは、ひと気のなくなった廊下を侍女と共にゆったりと歩き続けた。
応接の間の前に来ると、何人かの神官が部屋の中の様子をちらちらと窺っていた。王子が連れてきた近衛兵達に気圧されながらも、気になって仕方がないという様子だ。彼らはシュラルの姿を見つけると、舐めるように彼女の全身を見つめた。気難しそうな顔をして直立不動の姿勢を貫いている近衛兵達も同じだった。
男など単純なものだ。
彼らの視線に気付かぬふりをしながらシュラルはその脇を通り抜け、侍女が導くままに応接の間に入っていった。
「お待たせいたしました。このような格好で御前に馳せ参じたこと、どうかお許しいただきたく存じます」
膝を折って礼をする。
「姉上、どうぞ面を上げてください。こちらこそ、事前の連絡もなく申し訳ない」
以前聞いたよりも幾分低い声だった。彼も今年でもう十七歳だ。大人になったということだろう。
顔を上げると、部屋にいたのは二人だった。エドヴァルド王子と、恐らくその付き人と思われる青年。付き人は、シュラルの無防備な服装とその美貌に動揺したのか、耳を真っ赤にしていた。
エドヴァルド王子は相変わらず顔の上半分を仮面で隠していた。仮面の奥に見える青い目には焦りが見て取れる。
促されてエドヴァルド王子の向かい側のソファに腰掛け、シュラルは恥じらうように頬を染めた。
「本当は、このような格好で殿方の前に出るのは落ち着かないのですが……」
「そんなことより」
遮られて、シュラルは内心苛立った。
「この国にお戻りになった理由を伺いたい」
何を馬鹿な、と内心で小馬鹿にしながらも、清楚で奥ゆかしい表情を崩さぬままでシュラルは答えた。
「殿下がお命じになられたので、それに従ったまでですわ」
「私が命じたとは、一体どのように?」
「もちろん、他のご命令と同じく手紙でございます」
エドヴァルド王子の顔から血の気が引いていくのが、仮面越しでもよく分かった。
「……私はいつも、同じ便箋と封筒を使っていたが」
「同じものでしたわ。最初のものとは違いましたが」
それは皮肉のつもりだった。最初の頃のままに、礼儀を尽くさなかっただろう、という。
あの敬意の欠片も感じさせない便箋と封筒は、何度も受け取っている。指示どおり、読んだ後はすぐに燃やしていたが。
「……一体いつから……それで、貴女は何を命じられ、何をなさったのです?」
半ば攻めるようなその声音に、シュラルは眉根を寄せた。
「……話が読めないのですが」
「私は、貴女に帰国するように命じてなどいないのです」
その言葉を理解するには、彼女には時間が必要だった。じわじわと、彼女の豊かな胸の内側に冷水が染みるように嫌な気配が忍び込んでくる。
つまり、自分は誰かに利用されたのだ。エドヴァルド王子を騙る何者かに。
「一体、どのようなことをなさったのですか?」
語ろうとする赤い唇が震えたが、それは僅かな間だけだった。
そもそも、自分は侍女のラウハが持ってくる手紙のとおりに行動していただけだ。問題があったとすれば、王子の側に警戒が足りなかったのだ。自分は何も悪くない。
「魔術品に加工された春彩石を、スタシエル王国内に流通させる手助けをしました」
シュラルは、スタシエルの商人に、ある男を紹介するだけでいいと言われた。グラネア帝国からの移民という体で潜り込んでいたガスパルだ。彼は上手くやったようで、大量の春彩石をスタシエル王国に運び込むことに成功した。
「魔術品の、その効果は?」
「身に付けている者や、その周囲にいる者を操ることができる、と」
エドヴァルド王子は口元に手をやり、何か考え込んでいるようだった。
エドヴァルド王子でない誰かが、何の目的であの魔術品をばら撒いたのか。それを考えているだろう。
だが、シュラルには誰が命じたにしても大差ないことだった。
「良いではありませんか。蛮族どもがどうなろうと、殿下が気になさる必要はございませんわ」
エドヴァルド王子は、シュラルのその言葉には何も返さなかった。そのことが、再びシュラルを苛立たせた。
一体何だというのだ。面白くない。そんなシュラルの内心を知ってか知らずか、エドヴァルド王子は質問を重ねた。目の前にいるシュラルのことなど、まるで眼中になかった。
偽者からの手紙を持ってきた時の侍女ラウハの様子、そしてラウハが今どうしているか。ガスパルという男や、スタシエルの商人の身体的特徴。
問われるままに答え続けたが、エドヴァルド王子は自身の中で完結してしまい、シュラルの側には何の情報も寄越さない。
いい加減、清純さを装うのも疲れてきた頃、ようやく王子は質問を止めた。
「分かりました。最後に、お約束の件ですが……申し訳ないが、事態が収束するまでは待っていただきたい。そう長くは……恐らく、一年もかからないでしょう」
「事態の収束とは?」
小首を傾げて可愛らしく尋ねたシュラルに、エドヴァルド王子は口角を上げた。シュラルではない誰かに向けた、挑戦的な目が仮面の奥から覗いている。
「その時が来たら、分かります」