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第6章 難儀+可哀想=

1.


 琴音は隼人を塾に送り届けると、沙耶に電話をかけた。詳細な調査結果が出る前に一報だけ入れておこうと判断したのだ。

 いやそれ以前に、報告の催促がまさに矢のように飛んできていたのもある。

『それで?』

「あの、沙耶様、落ち着いてください」

 焦りで前のめりになっているのが電話越しにもよく分かる。琴音は半ば呆れながら運転手に出発の指示を出して、話し始めた。

「わたしの目で確認したところでは、やはり鋭利なもので切り込みを入れられています。何回か使用すると切れる程度に調整されていたようです」

『誰?』

「分かりません。警察に隼人さんから被害届を出してもらいましたけれど、駐輪場には防犯カメラがなかったそうですし」

 説明に、沙耶は鼻を鳴らした。その背後の音から、特急列車のデッキにいるのだろうと推測する。

『ずさんね』

「住宅展示場がですか? それは……」

『違うわ。犯人がよ』

 確かに、事故車両を検分すれば、細工の跡など簡単に見つかってしまうだろう。ブレーキワイヤーが自然に切れたように見せかけることすらしていないのだから。

 沙耶は考えながらぽつぽつとしゃべりだした。

『護衛を付ける……? でも……あんまり束縛するのは……送迎なんて嫌がられるだろうし……』

 そんなつぶやきにふと思いついて、沙耶に意地悪を言ってみたくなった。

「沙耶様?」

『なぁに?』

「お忙しいですか?」

『え? ええ』

 声を立てずほくそ笑むと、しれっとした声色でいってやった。

「お忙しいなら、わたしが隼人さんに付いて回ります」

『……わたしと戦うってことね?』

 あ、怒り出した。

「じゃあ、沙耶様がずーっと一緒にいればいいじゃありませんか」

『そ、そんな、こと……』

 急変して一気にじっとりしてしまった沙耶の気配を探りながら会話を楽しもうと思ったのに、会社に着いてしまったではないか。残念。

 別れのあいさつとともに電話を切ろうとして、沙耶がつぶやいた一言を耳はしっかりとキャッチしていた。

『なんとかしなきゃ……わたしが……』

 平然と社長室に入って秘書を呼ぶ。扉が開く前に、柄にも無く――本当に柄にも無く――手近な物に八つ当たりしまった琴音であった。


2.


 るいが久しぶりに西東京支部に来て見ると、見知らぬ顔がちらほらいた。あいさつもそこそこに、なぜか持ち上げられる。

「去年、伯爵とかいう敵と戦ったんですよね。すごいっすね!」

「フランク人マジ怖ぇすね。よその国に攻めてくるなんて」

「妖魔より強いんですか? そいつら」

 誰が話したのかしらないが、なんとなく情報が歪んで伝わってる気がする。るいはひとしきり笑うと、

「伯爵は来なかったよ。病気で。代わりに陰険そうな弟が来てさぁ――」

「陰険なことは否定しないが、親族の悪口は止めてもらおうか」

 控室の戸が突然開いて、アンヌが入ってきたのだ。

「そうそう、姪っ子がまたキョーボーでさぁ。るいの太ももに剣をぶっ刺してくるんだよ? ひどくない?」

「……お前、恨まないとか言ってなかったか?」

 このやりとりで新入りたちは気付いたらしい。『キョーボーな姪っ子』とは、目の前で憤っている外国人であることに。

 迅速に椅子とコーヒーが提供され、現伯爵の姉はゆったりと座った。

「あれ? そういえば、帰国したって聞いてましたけど」

「帰国しようとした。でも――」

 アンヌの美麗な顔が曇った。

「伯爵閣下からの命令が来てな。しばらく滞在して鷹取家と親交を深めろと」

「ああ、厄介払いされちゃったんすね?」

 これは万梨亜。菓子をポリポリかじっていたのを止めて、いきなり核心を突いたのだ。

 が、アンヌは平然としたものだった。むしろ顔には安堵の色すら見える。

「そういうことだ。ま、厄介なお荷物だからな。私は」

「有能でも厄介な駒、の間違いでしょ?」

 と訂正してみる。実際、かの伯爵家でアンヌを不要としているほど手が足りているとは聞いていないからだ。アンヌの忠臣・ソフィからの情報なので偏りがあるかもしれないが。

 アンヌは軽く肩をすくめて、

「実はほかにも用事があるのだ。どちらが閣下の本心かは分からんがな。ところで――」

「はい?」

 アンヌは薄く笑った。

「ルイ、お前からお世辞が聞けるとはな。ニッポンの大学生は就職活動の時期になると口が達者になるらしい」

「あはははは、まあそうですね。でもそちらの大学生みたいに、SNSで中傷合戦するよりは健全だと思いません?」

「まあな……就職といえば、ユウナはどうやら就職できそうだな」

 その声色に残念そうな響きが聞こえるのは、るいの偏見だろうか。このお嬢様が密かに優菜にご執心であることは、ソフィすら――重々しく頭を振りながら――認める公然の秘密なのだ。

 でも残念ながら、優菜は隼人に思いを寄せている――いや、それも過去のことになってしまった。沙耶の登場で。

 べつに、どーでもいい。それがるいの結論だった。黒岩圭にたしなめられるまでは。

『いい? 隼人がもし沙耶さんと結婚までいったら、ボクたちのボスになるんだよ? どーでもよくないじゃん?』

 正確には沙耶か琴音がボスになるのだろうが、確かに無関心を決め込むのはよくないと反省した。

 面白い。

 ……ここで、アンヌや万梨亜の不審そうな視線に気付いて、なぜかごまかしてしまった。別の話題に逃げることにする。

「そーいや、こないだ凌ちゃんとやりあったんでしょ? どうでした?」

「相性が悪い」

 それがアンヌの結論だった。すぐに慌てて付け加えられたが。

「いや、人としてではなく、戦士としてのだぞ?」

「ふーん」

「なんだその気にいらなそうなコメントは」

「あんだけビュンビュン剣を振り回しても、当たらないってことですか?」

 アンヌは剣士としての矜持を傷つけられたのか、少し顔をしかめながら話し出した。

 


 長剣の間合いまであと2歩というところで、エンデュミオール・イツヒメの姿が消えた。残像と投擲物を置き土産に。

 細長い投擲物――棒手裏剣と呼ぶことを後で知った――は2本。顔と左足を狙って、ほぼ同時に放たれたものだ。顔を守れば、左足に刺さる。その逆もしかり。ならばと体をかわし、2本とも無力化――

「! ぐうっ!」

 右の太ももに痛撃をくらったのだ! たたらを踏みながら必死に翼を羽ばたかせて宙へ逃げる。止まらないように羽ばたきを継続しながら確認したら、やはり投擲物が刺さっていた。

「動きを読んで……」

 足を送った先に3本目を投げたというのか。その分析に割り込む形で、戦士の直感が危急を告げる。

 翼を折りたたんで自由落下したアンヌは、視界の端にイツヒメを捉えた。壁走りで上空のアンヌに不意打ちをかけようとしていたのだ。

 翼を操作して滑空でのマニューバーを続ける。ギャラリーと化しているボランティアスタッフたちの鼻っ面をかすめる形になって悲鳴が上がったが構わず、イツヒメの姿を捜し求める。

 彼女は地上にいた。なにやら胸の前で己の指を絡め合わせている。その姿は、子供の頃映画で見たニンジャを髣髴とさせた。

「術を使うのか! させん!」

 間に合え、間に合え、間に合え! アンヌは大きくひと羽ばたきして高度を得ると、それを運動エネルギーに換えた。引力のままに任せる急降下を敢行したのだ。

 翼をすぼめて剣を真っ直ぐ突き出し、剣身に鈍色の光をまとわせる。グングングングン近づいて、やっと気づいたイツヒメの驚愕の瞳にぶつかる!

 激突音の後、アンヌは顔面を強打した。刺突の衝撃が想定以上で、柄から手が離れて前につんのめってしまったのだ。それは予想だにしない硬さだった。とても人体とは思えない冷たさの……なんだと?!

「じ、自販機?!」

 そう、アンヌが突撃して剣を突き立てたのは、日本なら街路のあちこちに立っている飲料水の自販機だったのだ。

 ソフィの悲鳴に近い警告が聞こえて横に跳ぶ。座っていた後に投擲物が突き立ち、間髪入れずに跳躍先にも襲い掛かってきた。

 とっさに短剣を抜いて恐るべき鉄の襲撃者を払い、続いて顔と太ももの痛みをこらえて再度の跳躍から羽ばたきに移った。

 少しだけ回り道をしつつ長剣を取り戻す。なにやら濡れているのは、飲料水の缶を貫いてしまったからだろう。何度か振り回して滴を払う。オレンジジュースの安っぽい匂いが情けない。

 降り立った先10歩ほどには、イツヒメがいた。両手にナイフを持ち、にこりと笑う。

『第1ラウンドは、わたしの勝ちですね』

『……うむ』

『では――』

 とイツヒメは器用にナイフを回転させて逆手に持ち替え、構えた。

『第2ラウンドは近接戦闘で』

 応えて長短の剣を構え直しながら、アンヌは思考する。

(やつはノーダメージ……こちらは右脚……血が止まっていない……長くはできんな)

 では、速攻だ!

 裂帛の気合いとともに間合いを詰め、長剣を振るう。重い長剣を片手で扱う不利は、武器強化系のスキル“攻撃力強化”が補ってくれるのだ。

 予想どおり斬撃を受けず避けるイツヒメを、長剣と翼を組み合わせたコンビネーションでビルの壁に追い詰めていく。仕留めきれないのは、イツヒメの回避が勝っているからか、あるいは怪我による詰めの甘さか。

 甘さと読んだのだろう。イツヒメが反撃に出てきた。長剣を振り下ろしたあとのわずかな隙を突いて、小手を斬りにきたのだ。短剣で遮り、もう1本が襲ってくる前に弾き飛ばす。

 返しの切り下げでイツヒメの胴を薙いだが、短剣ゆえ浅い。逆に切り上げた長剣は焦りから体が泳ぎ、間一髪でかわされてしまった。

 お互いに距離を取ってにらみ合う。イツヒメの顔は激痛に歪んでいるのが見える。自分は、痛みよりも勝るものが現れ始めた。目がかすむのだ。

(思ったより出血がひどい……次で決めねば……)

 その時、イツヒメが動いた。アンヌに向かって駆け出すのと同時に、右手に残っていたナイフをアンダースローで投げたのだ。狙いは人においてもっとも皮膚や脂肪、筋肉、そして骨が薄い部分の一つ、すなわち喉の下!

 見極めて短剣で弾いたアンヌは目を疑った。既に長剣の間合いに入りかけているイツヒメが両腕を振ったとたん、シュッとナイフが現われたのだ! この勢いのままでは、刺される!

 重い長剣を捨てて、アンヌは半身に構えて短剣を突き出した。その胸をナイフが下からかすめていき、短剣の鋭い切っ先は、イツヒメの胸を真っ直ぐ捉えていた。振り上げられたナイフが力なく降りてきて、アンヌの頬を伝う。

 エンデュミオールの白水晶が輝くと同時に、イツヒメの身体は淡く発光した。致命傷を追ったことによる回復に伴う変身強制解除。アンヌは勝利の感慨よりも安堵に浸りながら、倒れこんできた凌の体を抱いたのだった。



「――まあ、妖しげな術を使わずに真っ向勝負を挑んだ勇気は評価する。カゲヌイも使わなかったしな。だが、ちと無謀だな」

「腕試ししてみたかったんですよきっと。あ、コーヒーおかわりします?」

 万梨亜が席を立つのと同時に、噂の当人がやって来た。

「あ、先日はありがとうございました」

「うむ。こちらこそ、得難い経験だった。本当に去年、君が敵にいなくてよかった。ところで君――」

 アンヌは近づいてきた凌に合わせて立ち上がり、肩に手を置いた。

「フランク旅行をする気はないか?」

「え?! まさかアンヌさん、優菜先輩が無理だからって……!」

 このハーフっ子は本当に遠慮が無い。というか、無いのはデリカシー?

 案の定、お嬢様はむきになって反論しだした。爆笑するるいたちをにらみながら。

「ち、違う! 何を言っているのだ! 私ではない、一族の者がこの子に用があるのだ!」

 なんでも、先日の対戦動画――『あおぞら』スタッフが撮影してくれていた――を祖国に送ったら、『自分もニンジャと戦ってみたい。いや、実物のニンジャが見たい』と盛り上がっているのだそうだ。

 凌は伯爵閣下のご招待と聞いて、夏休みの予定を調べ始めた。

「ああ、用事ってそれっすか」

「つか、外国の人って忍者好きだよね。なんでだろ?」

「まあでもほら、実物が現われたら、会ってみたいのは当然じゃね?」

「俺たち、すっかり慣れちゃったんだな……」



「んで、なんでお前がついてくんだよ?」

 優菜が呆れると、るいは爽やかに笑った。

「だって、治癒担当が必要じゃん? バルディオールだけじゃ不安だし」

「ナツいわね、バルディオールって」

 理佐がなんとなく遠い目をした。彼女たちの侵攻を防いで1年も経たないのに。

「ソツギョーリョコーだよソツギョーリョコー。ゼミのは国内だからさ」

「オトコとは?」

「ハワイ」

「行くんじゃねぇかカイガイ」

 るいの広いおでこにツッコミを入れると、優菜はチューハイを空けた。

 居酒屋『粋酔』は、平日にしては賑わっていた。この3人だけで呑むのは久しぶりである。

 理佐がチーズを飲み込むと、口を開いた。

「そういえば最近、るいの出勤率が上がってるって聞いたけど」

 るい曰く、就職に向けての準備運動らしい。

「庭師のお仕事も説明を受けた感じ、結構ハードワークっぽいからさ」

 そう言いながらお猪口を傾ける彼女を見ていると、

「なんかお前、変わったな」

「確かに。準備運動なんて、るいっぽくない」

「そうそう。おかしいよね」

「自分で言うなよ」

 きゅっと飲み干して、るいは笑った。

「やっぱ去年、あの人に負けたのが大きいのかもね」

 大久保という女性庭師にスパーリングで負けた。圭と2人で挑んで有効打を与えられなかったのだから、判定負けだと言う。

「このあいだ圭ちゃんと呑んだ時にその話が出てさ、二人でしょんぼりしちゃったんだよね」

 おまけに瞳魅ちゃんにも負けたし。ありゃ、本当にしょんぼりし始めちゃった。と思いきや急に立ち直って通りかかった店員にお酒を注文する。

(相変わらず読めないな、こいつは)

 これまたご無沙汰の感想。最近はゼミで会うくらいしかなかったのだ。

 そんなるいは、理佐のほうを向いた。

「理佐は就職どーなったの?」

「このままだと民間企業ね。教職も受けてみるけど」

「あのお店は辞めちゃうの?」

「んー、引き止められてはいるんだけど、ね……」

 言葉を濁した意味が、優菜には分かる。

 (理佐的には)隼人を取り込み始めた――いや、もっと事態が進むかもしれない鷹取家の関係者が営む店には勤めにくいのだろう。なんといっても沙耶の友人である仙道たずながオーナーなのだから。

 そういえば、と優菜は口を開いた。

「まだ先の話だけどさ、ボランティア、続ける?」

「るいは続けるよ、たぶん」

「わたしは続けるわ。優菜は迷ってるの?」

 理佐に問われて、ゆっくりとうなずいた。

「仕事がどうなるか分かんないし。つか、学生とは疲れ方も違うだろうし」

 こうやって集まれるかどうかすら分からない。そういえば、美紀と真紀も同じようなことを言ってたな。

「えー一緒にやろうよぉ」

 と絡んでくるるいをあしらって、チューハイのおかわりをしながら、ふと思った。

 隼人はどうするんだろう。

 あいつは確か、塾講師か『あおぞら』就職かの2択のはず。後者なら当然フロントスタッフは続けるのだろうが、前者だった場合は、バイトの時とは就業時間も増えてままならなくなるに違いない。

 それに、沙耶との仲が進展したら。

 ふいにさっきのるいの台詞を思い出した。圭があんなことを言い出したということは……もう既に……

 優菜は同席の会話を聞き流して思案し、決断した。

 今度隼人に会って二人きりになったら、訊いてみよう。


3.


 隼人が下宿にたどり着いた時には、もう夜10時を回っていた。トントントントンと小気味良く上がる階段の音に、手に持つ弁当がガサガサと不協和音を奏でている。

 2階に着いてその音が已んだと思ったら、今度は心臓が大きく跳ねる音を聞く破目になった。安アパートゆえ照明もろくに点かない薄暗い廊下に、誰かが立っているのだ。

(オンナだよな……)

 気を落ち着けてよく見て、隼人の結論は早かった。

「沙耶ちゃん、どうしたのそんなとこで?」

 びくっと身を震わせて、問いかけは正解だった。

「こ、こんばんわ。わたしだってよく分かったわね」

「ああうん、靴が前に見たのと一緒だったから」

 足元は街灯の明かりで比較的明るかったのだ。

 玄関の鍵を開けて、彼女を中に招き入れると、すんなりと入ってきた。

「お邪魔します……暑い」

「おおこれはお嬢様、申し訳ございませんです」

 正直な感想に笑いながら窓を開けると、梅雨明けの夜気が流れ込んでくる。扇風機をつけて、とりあえず空気を回すことにした。

「エアコンがないのね……」

「ああうん、電気代がかかるから」

 そこで気がついたのだろう、沙耶は慌てた様子で、

「あ、ご飯まだだったの?」

「ううん、夜食。ちょっと待っててね、コーヒー淹れるから」

「あ、わたしがやるわ。食べてて」

 それからしばらく、隼人は夜食をほおばり、沙耶はコーヒーを飲んだ。二人とも押し黙って。沙耶はチラチラこちらを見てくるが、なにも切り出さないのは、重大な話でもあるのだろうか。その表情は硬い。

 10分ほどで食べ終わって、仕方が無い、もう一度訊いてみよう。

「んで、どうしたの? 急に」

 問いかけに、沙耶はじっとりし始めた。初デートの時もその次も、こうなる時は自分のことか隼人絡みの話題だ。

 案の定、

「……また、どこかに行ったの?」

「え? どこかって?」

「その、このあいだは、優菜ちゃんの家に呑みに言ったでしょ?」

「ああ、昨日は祐希ちゃんの家だったよ。祐希ちゃんが誕生日で」

「た、誕生日?!」

 なんでそんなに仰天するんだろう。

「もしかして、誕生パーティを二人っきりでやったとか想像してる?」

「……違うの?」

 斬新な発想だ。そんな祐希は存在しないだろう。どんな平行世界にだって。

 隼人は笑って、『初めてお酒を呑むから、もし気分が悪くなったらすぐ寝られる自宅がいい』との祐希の希望を叶えたのだと説明した。もちろん、総勢8人で呑んだことも。

「……は、隼人君以外女の子でしょ?」

「そうだね」

 じっとり度が増してきた。と、沙耶は隼人の意表を突く行動に出た。ぽろぽろと涙をこぼし始めたのだ。

「あの……どうしたの?」

「だって、だって……」

 涙ながらに語られたのは、複雑な乙女心だった。

 隼人君がほかの女の子だらけのところに行くなんて――もちろん二人きりなんてゼッタイ――許せない。

 でも、束縛もしたくない。わたしがあなたを全てコントロールなんてできるわけない。

 でも、でも……

「隼人君、モテるし……気がつくと女の子とおしゃべりしたりふざけたりしてるし……でも……」

 身を揉んで萎れ始めた沙耶を、そっと抱きしめる。少しだけ身を硬くした彼女は、潤んだ目で見上げてきた。

「大丈夫。俺が好きなのは、沙耶ちゃんだけだから」

 答えは、増量した涙だった。嗚咽まで漏らして、うつむく彼女。隼人も初めて目の当たりにする反応にとまどい、彼女の柔らかい身を抱いたまま静観するしかない。

 どれくらいそうし続けただろうか。彼女は涙を一生懸命拭うと、やっと顔を上げてくれた。

「ごめんなさい。わたし……初めて、なの」

「? なにが?」

「……男の人に、沙耶ちゃんだけって言われたのが」

 ……あれ?

「前にお付き合いしてた人は?」

 悲しげに首を振って、沙耶は話してくれた。彼女と親友たちとの、4年前の騒動のことを。決着がついた後、自分が犯した過ちのことを。

「そっか……それで……」

 腑に落ちた。

 以前支部長室で聞かされた凶行未遂の話と、数々の記憶の断片がやっとつながったのだ。

 このあいだのミキマキの内緒話。弓子の持って回ったような態度。そして、沙耶を取り巻く人々の、彼女に対して時折なされる腫れ物に触るような取り扱い。それは、彼女が男にフラれた末にやらかしたことに起因しているのだと。

「ご、ごめんなさい! 黙ってて。でも……正直に話して……いや……あなたに嫌われたら……わたし……」

 また涙を流し始めた彼女の顔を優しく上げさせて、そっと口づけをした。

 難儀な人。可哀想な子。だから、かわいいひと。その女の子を、しっかりと抱き寄せる。

「もう一度言うよ。俺が好きなのは、沙耶ちゃんだけだから」

 目を見張ってしばらく、涙の止まった彼女の顔が、ようやくほころんだ。その唇に、今度はゆっくりと唇を重ねて、彼女の時と抵抗を止めた。



 沙耶は、自分で言うのもなんだが物覚えがいいほうである。当然、自分が使っている目覚ましのベルの音も歴代全てを記憶している。

 だが、今頭の上で鳴っているのは、かつて聞いたことのない音だった。有体に言えば、安っぽいサウンドである。

 安っぽいといえば、と寝ぼけたまま布団をまさぐる。せんべい布団をくるんでいる布地はごわごわで、まるで何ヶ月も洗っていないかのようだ。

 も一つおまけに、この安っぽい匂いは何だろう。すんすんと鼻をうごめかすと、答えはすぐに出た。彼の使っているボディソープの匂いだ――

「!!」

 がばっと跳ね起きた彼女に少し遅れて、隼人が起き上がった。

「あ、おはよう沙耶ちゃん」

「あ、ああああおおおおおおおはよう」

 じっと彼に見つめられて、自分が下着姿であることに気がつく。慌ててタオルケットを掻き合せて抱くと、隼人は柔らかく笑って、

「走りに行ってくる」

 そう言い残すと、ハーフパンツを履いて出て行こうとした。その背中に声をかける。

「あ、あのっ!」

「ん?」

「朝ごはん、用意しておくから」

 隼人は笑ってうなずくと、玄関を出て行った。

 扉が閉まると同時に、昨夜からのアレやコレやがフラッシュバックしてくる。赤面する暇もなく、彼女は頭を抱えた。

「なに口走ってるのよ、わたし……」

 彼女は、自分でもありえないと思える言葉を発したのだ。これじゃあまるで、まるで……と赤面しつつにやけ、そんな自分にまた赤面する。

 しばらくそれを繰り返した後身支度をして台所に行き、再び頭を抱えた。

「な、な、な……」

 冷蔵庫の中はわずかばかりの酒とチーズ、豆腐のみ。戸棚を全て探したが、米すら一粒も無いではないか。

「食材が豆腐しかない……」

 沙耶は迷わず寝室にとって返すと、執事に電話をかけた。



 ジョギングから帰ると、小汚い我が部屋に朝食の匂いが充満していた。台所からはトントントンと、包丁がまな板を叩く音もしている。

「ただいまー」

「あ! お帰り!」

 沙耶はすっかり見違えていた。どこから持ってきたのか、白いエプロンを装着しているのだ。

 どこからといえば、この朝ごはん、どこから出てきたのだろう?

「もうすぐご飯が炊けるから、先にシャワーを浴びてきて」

「あ、うん」

 刻んだ具――なんとなく大きい気がするが――を鍋に流し込んでいる沙耶に言われるままにシャワーを浴びて着替えたら、

「お待たせ。食べよ」

 食卓に久しぶりに豪華な朝食が並んでいた。さっそく、いただきます!

「うん、おいしい」

 卵焼きも焼き鮭も、上品な味付け。味噌汁を一口すすって、

「……やっぱり」

「な、なに?」

「いや、具が大きくない? ちょっと」

「え? 一口大ってこのくらいでしょ?」

 里芋も大根も、通常より二回りくらいでかいんだ。これの半分くらいでいいよと言ったら、

「そっか……」

 と少ししょげた様子。でも、いつものじっとりが始まらない。

 気を取り直した様子で、沙耶が話しかけてきた。

「ねえ、朝ごはん、普段はどうしてるの?」

「ん? 豆腐とか、コンビニで買い食いしたりとか」

 そう、と一言言ったきり、箸を動かすのに専念し始めた沙耶を見つめる。

「? なに?」

「ん、かわいいなと」

「嘘つき。変なこと思い出してるでしょ」

「口に出して言っていいの?」

 バカ、と赤くなってそっぽを向いて、彼女を箸を置いた。

「そういえば、妹さんがご飯を作りに来なくなったって聞いたけど……」

「ああうん、もう来ないな」

 相づちを打つと、沙耶は少し身を乗り出して言った。

「じゃあ、わたしが作りに来てあげるわ。朝ごはんをちゃんと食べてほしいから」

 少しだけ虚を突かれて、でも、ありがたさを実感して、丁寧に頭を下げる。

「よろしくお願いします」

 ごちそうさまも勢いよく頭を下げると、くすくす笑われた。なんか、笑顔が増えたな。

 大学へ行く準備をして、沙耶に声をかける。

「沙耶ちゃんも一緒に出る?」

「ううん、わたしはお掃除してから行くわ」

 というので合鍵を渡して、

「じゃっ」

 右手を挙げて挨拶をすると……どうしてむくれだすの?

「んもぅ、アッサリし過ぎ」

「え、そう?」

 じゃあやり直し。

 腰に手を回して、軽くキスをして、

「行ってきます」

「うん! いってらっしゃい!」

 満面の笑みで見送られて、隼人の生活は激変することとなる。さまざまな意味で。

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