第4章 終わりの始まり
1.
優菜が遅れてやって来た午後3時のパティスリー『ヴィオレット』には、正面に本日貸切の貼り紙がしてあった。でも、手書きのそれは、いかにも急ごしらえの印象を受ける。
メールをもう一度確認して入店すると、客は『あおぞら』の面々しかいなかった。あまり寝ていないのか、目をしきりにしばたたいている支部長までいる。
(あれ? 隼人がいないな)
店員に渡されたメニュー表を片手にキョロキョロしていると、一番奥に座る3人が彼女を見とめて立ち上がり、一礼した。沙良と琴音、鈴香だ。
「ごめんね、無理を言って」
「いえ、いいんですけど……なんですか? 説明会って」
そう、『説明会のお知らせ』と銘打ったメールが一斉送信されたのだ。会長である沙良の名前で。一切は現地でと釘を刺された文面に不審を感じながら、スケジュール調整をしてここにいるという次第である。
優菜が最後だったのだろう、席に座ると、店員が注文を取りに来た。それが終わるまで鷹取家の3人は立ったまま、辛抱強く待っている。やがて店員が去ると、沙良が話し始めた。
「みんな、今日はいろいろ忙しいところを集まってくれてありがとう」
そこで、沙良の言葉は止まってしまった。ゆっくりと聴衆を見渡して、少しだけ唇を噛むと、また口を開く。
「説明会というのは、沙耶ちゃんのことなの。沙耶ちゃんが3年前にしでかしたことの顛末を、説明するために集まってもらったのよ」
店員たちが飲み物とケーキを配るカチャカチャという音に混じって、祐希のつぶやきが聞こえた。
「やっぱりそれか……」
その声が聞こえたのかどうかは分からないが、座って話すと断って、沙良は話し始めた。
とてつもなく、嫌な予感がする。優菜は思わず身震いした。
「くそっ! 完全に出し抜かれた!」
仲間の一人が吐き捨てるさまを、袴田は冷然と眺めていた。いや、暗然と言い換えたほうがふさわしいだろう。
琴音でも鈴香でもなく、まして総領でもなく、沙耶の友人たちが独自に動いて沙耶とあの大学生の仲を取り持ってしまったのだから。
そもそも、仲を取り持つという発想が当方には無かったのだから、出し抜かれたというのはおかしな表現のような気がする。
そして出てくる安直な発想。
「潰そう」
「どうやって?」
思わず鼻を木でくくったような口調になってしまう。相手は無論鼻白んで、オクターブも高く言い返してきた。
「そ、そこを調べるのが参謀部の役目だろう。そいつも男なら、スネに傷の一つや二つあるはずだ」
「キミじゃあるまいし」
と野次が飛んで一触即発になる場を放置して、袴田は沈思した。そもそも情報収集は参謀部の役目ではないことを訂正するのも忘れて。
男は、たかが大学生である。芸能人でもあるまいし、恋愛関係に致命傷を与えられるような女がらみのスキャンダルがあるとは思えない。
あるとすれば、金銭あるいは暴力がらみか。または、実家が反社会的勢力に属しているとか……
「探偵でも使って調べてみるか」
袴田は溜息を一つつくと、ケンカの仲裁から始めた。
「――というわけで昨年、わたしが鷹取家に救援要請をする直前に、沙耶ちゃんの謹慎が解けたというわけよ」
水を打ったように静かな出席者の中から、手が一つ挙がった。るいだ。
「先日の急病も、その流れですね?」
「察しがいいわね」
と舌を巻く。本当に思考が跳躍するのだ、この子は。
「大変だねーフラれたくらいで世界を滅ぼしちゃえって」
「万梨亜さん、昔フラれたとき愚痴ってませんでした? そんなふうに」
「いや、したけど。つか、あたしは滅んじゃえって言っただけだし。実際にできっこないじゃん?」
先輩後輩の会話が終わるか終わらないかのうちに、理佐が吐き捨てた。
「迷惑千万だわ」
「そうですね」
そう受けたのは、琴音だった。深く息を吸い込むと、立ち上がる。
「さっき、るいさんが『急病』の話をされましたけれど、ある方のおかげで沙耶様は立ち直ることができました。そこで――」
横の席からちらと見上げた琴音の眼には、多感なお年頃の女の子――彼女が言及した『ある方』に対してほのかな恋心を抱いていたことくらい、沙良にだって分かっている――ではなく、総領の補佐役をもって任じる家の当主予定者としての意志が宿っていた。
「皆さんに、お願いがあるんです。応援してくださいとは言いません。見守るだけでいいんです。どうか、よろしくお願いします。沙耶様の友人としての、心からのお願いです」
オブラートに包み過ぎてさっぱり分からないのだろう、狐につままれたような顔の一同。その中から、今度は双子が先んじた。
「「あー、ヒモにーやんやね……」」
「いいえ」とにっこり笑う琴音。
「ヒモだなんてとんでもない。働かざる者食うべからず。我が家の家訓ですから」
2.
映画館を出てからずっと、沙耶はしゃべりっぱなしだった。それは少し歩いてたどり着いたカフェでも変わらず、趣味のことを他人と話すのが本当に楽しそうだ。
先ほど観てきた仮面ライバーの劇場版は、ワイヤーアクションを多用する監督が起用されていたこともあって、ライバーも怪人も跳ね回る戦闘シーンが派手な作品に仕上がっていた。
「そう、独特なのよね。あの跳び上がり方」
「ああ、吹き飛び方もふつーあんなふうじゃないっすよね」
そう言うと、クスクス笑われた。
「さすが、フランク人の時に吹き飛ばされまくった人は違うわね」
「俺じゃなくてほかの子ですけどね」
「……助けてたの?」
「そりゃもう」
そこはじっとりするところなんだろうか? だが、カフェオレを一口すすって仕切り直し、すぐにまた映画の話題に戻った。
「1号もいい加減引っ張り出すのを控えてほしいわ。クライマックスにババーンと出てきたって、とどめは現行ライバーがもってっちゃうじゃない」
おっしゃるとおりと隼人は笑い、
「千早も圭も同じ意見でしたよ。あいつら平成ライバーは認めないなんて言ってるくせに、ちゃんと全部見てるから、タチが悪いっすよ」
共感の声を上げてすぐ、沙耶はまたじっとりし始めた。
(ほかの女子の話題になると、すぐこうなるんだけど……)
理佐みたいに、誰彼構わずキリキリするよりはまだましか。それとも、付き合うと悪化するんだろうか。
続く沙耶の言葉は、隼人の予想をやや裏切った。
「千早ちゃんと圭ちゃんは、呼び捨てなのね」
そっちに反応したんだ。隼人はちょっとくすりとして、こちらもアイスコーヒーを飲む。
「ああ、そうっすね。幼稚園の頃からそのまま」
「理佐ちゃんは――」
「島崎さんは、理佐ちゃん呼びですね。そういう約束なんで」
首を傾げる沙耶に、経緯を説明する。
「厳しいのね」
「ええ、まあ。沙耶さんは、どうだったんですか?」
「え?! わ、わたし?!」
ものすごく動揺してる。そんなに意表を突いたんだろうか、掴んでるコーヒーカップがカタカタ言ってるし。
「そうっすよ。モトカレからどうやって呼ばれてたんすか?」
「……どうして、お付き合いしてたって知ってるの?」
「沙耶さんみたいなかわいい人なら、彼氏の一人や二人いるだろうな、と」
別の推測もしている。その彼氏との間に何かがあったのだろうと。それが恐らく『沙耶が過去に犯した過ち』なのだろうと。まさか殺してしまったとかではないだろうが、沙耶の彼氏歴に関して話題が及ぶと、鷹取関係者の口が閉まるのだ。
それはもう、貝のごとく。
沙耶はと見ると、話を逸らすことを選択したようだ。目つきが怖い。
「本当にさらっと言うのね」
「事実ですから」
そう付け加えると、赤くなるかと思いきや、沈んでしまった。
「……わたしは、かわいくなんかないわよ。いつもじっとりして、おどおどして、会話だって弾まないし、話題の口火も切らないし」
さっきはすごく話が弾んでいたことを指摘しようとして、代わりの言葉を投げかける。
「たとえそうだとしても、かわいいですよ。沙耶さんは」
「……ありがと」
やっとぎこちないながらも笑みが見れた。その目が、隼人の腰の辺りに据えられる。
「さっきからずっと振動してるけど、大丈夫?」
「ええ、たぶん島崎さんですよ」
これほど高速の連続メール送信は、きっと彼女だ。そもそもこうやって人と会っている時にメールチェックはしない。そう説明したが、薦められて仕方なく携帯を取り出す。
「ほら、ごらんのとおりです」
一言唸ったきり、沙耶は画面を見つめて黙り込んでしまった。明らかに怯えているのが目の色に出ている。
でも、スクロールしたらまったく別の相手先のが見つかった。就職試験を受けた会社からだ。少し慌てて、また着信で振動を続ける携帯を操作する。
「えっと……ああ、だめか……」
不採用の通知だった。
気落ちして飲むアイスコーヒーは、ガムシロップの甘みすら慰めにもならない。
まだ振動を続ける携帯を見つめる沙耶が小刻みに震え始めた。まるで振動が伝染したかのように。衝撃を受けた様子に謝って、そそくさとポケットにしまうと、沙耶がポツリとつぶやいた。
「うまく、いかないわね……」
「島崎さんですか? 就職ですか?」
うまいことを言ったつもりはなかったのに、吹き出されてしまった。反撃だ!
「やっぱり笑ってるほうがかわいいですよ、沙耶さん」
「!! もぅ……」
3.
優菜とるいは、苦い顔でお互いを見合わせた。
みんなにうまく逃げられたというのが1つ目の理由だ。なんであたしらがというのが2つ目。そして、にもかかわらず親友を放っておけない因果な身であることが3つ目である。溜息も出るというものではないか。
その親友は、実に器用な立ち振る舞いを見せていた。正確には『狂態』だが。
映画を観に行っているという情報から、市内と近隣の映画館に片っ端から公衆電話で照会をかけつつ、隼人へのメールを打ちまくる。それらしき二人連れを見かけたという映画館に急行し、人物特定をして、周辺を捜索する。もちろんメール連発は忘れない。
「すごいね」
るいの半笑いは、優菜にもうつった。
「よくバッテリーが持つねあれ」
「そっちかよ」
眼を血走らせ、つぶやきすらせずに画面をタップし続ける女子大生。その周辺には優菜たちしかいない。明らかに不穏な空気をまとう爆弾を触りに来る勇者はいないということだろう。
いや、存在した。一人だけ。
「ああ、いましたね」
そうかけられた声は、さっき『ヴィオレット』で聞いたばかりのものだった。
スマホから顔も上げず、理佐が唸る。
「どいてそこ」
「見守ってほしい。そうお願いしたはずです」
琴音は秀麗な眉を悲しげに寄せている。だがそれは、彼女たちの理屈だろう。優菜は思わず声を荒げてしまった。
「承ったとは言ってないし」
でも、琴音は動かない。優菜の機嫌が悪くなることは想定済みなのだろう。表情は変わらず、琴音の顔はるいに向いた。
「るいさんも、同じ意見ですか?」
「べつに~」
そう軽く答えて、雪女の冷視線を浴びても怯まない。こいつはそういう女だ。
「隼人君が選ぶことだし。むしろ、この現世が消滅しなくなるんでしょ? 結構 ケッコウ コケッコー、だね」
「隼人君はわたしを選んだのよ!」
理佐の金切り声は、周囲の人の流れを加速させた。優菜の焦りも。こんな人通りの多い場所で、なに叫んでんだこいつは。
「理佐、帰ろうぜ」
「どいて! 敵なの? わたしと隼人君の敵なの?」
もはや優菜の声どころか存在すら知覚しない様子が、やるせなさを倍にする。
その殺意の波動を一身に浴びている琴音はと見れば、これまたキョドっていた。さすがの冷静沈着な彼女でも、往来で突然大声を出されて平気でいられるわけがない。
一方、天邪鬼は活動を開始した。
「エエゾエエゾー、ヤレヤレー」
「……お前、酔ってんのか?」
とるいを茶化すほうに逃避せざるをえない優菜であった。
その時、理佐が動いた。無理やり押し通ろうとして琴音と正面からぶつかったのだ。いくら理佐でも、相手は海原の巫女。地力が違う。跳ね返されて尻餅をついてしまった。
「あなた……!」
「やりますか?」
琴音は手首の内側をわざとらしく見て時刻を確認すると、にっこり微笑んだ。だがそれは愛想笑いではない。戦闘開始前の余裕の笑顔だ。いや、鬼の笑顔というべきか。
「日没まで、まだ2時間近くありますけれど?」
聞いた理佐は、またしても予想外の行動に出た。うなだれて、すすり泣きを始めたのだ。それを3人でかついで――琴音が主に持ち上げたのだが――人気の無い公園まで運んだのであった。
「……已んだね」
「已みましたね」
隼人の携帯は、ようやく振動しなくなった。これで落ち着いて話ができる。なにより沙耶が気にしてしようがなかったのだ。
「沙耶さん?」
「なに?」
「晩御飯っすけど――」
虚勢を張っても無意味だ。彼女はこちらの懐事情を熟知しているのだから。
「どこか、おいしい店知りませんか? 俺、居酒屋くらいしか知らないんすよ」
そうしたら、沙耶が吹き出した。それはすぐ声を立てての笑いへと広がる。
どうリアクションをしたらいいか困っていると、涙を拭いながら笑ったわけを教えてくれた。
「たずなさんがね、言ってたのよ。男が最初に連れて行く店は、彼の意気込みと性格を物語るって」
「へぇ、なるほど。じゃあ俺は失格っすね」
「そんなことないわよ」
沙耶はすっきりとした顔で椅子の背にもたれかかった。
「素直でよろしい」
「おお」
「……なによ?」
「いま、すっごくお姉さんぽかった痛いです」
足を結構な勢いで踏まれた。
「どうせわたしは年上ですよ」
「拗ねてもかわいいっすね」
反発も照れもなく、沙耶はじっとりした。でも、今までのそれとは違って声に明るさを含んでいるように聞こえる。
「……年が上とか、気にしないの?」
「気にしたことないっすね。そんな贅沢言える身分じゃないし」
「……いっぱい、いたんでしょ? お付き合いした人」
今度は隼人のほうがやさぐれるはめになった。机に頬杖をついてぼやかざるをえない。あるいは、言いわけを。
「どうも勘違いされてるんすけど、より取り見取りじゃなかったっすよ、俺」
「ちぎっては投げちぎっては投げって聞いたけど」
「それ千早と圭ですよね? 情報源」
あいつらはほんとに……
沙耶はふーんとわざとらしく言って机に頬杖を突いた。
「そういうことにしておくわ」
「有難き幸せ」
受け答えにまた小さく笑って、立ち上がった彼女が携帯を取り出すのを眺める。
「あ、もしもし、鷹取と申します。オーナーさんいらっしゃいますか?――ご無沙汰しております、鷹取沙耶です。5時半から2人お願いしたいんですけれど――」
なんか盛大に照れて通話する沙耶を眺めながら、千早と圭をどう懲らしめるか考えを巡らす隼人であった。
4.
「号泣のち泥酔、かいな」
「そのまま冷たくなれば幸せやのに」
「お前ら、さりげにひどいな」
搬送先の公園でまた一悶着あっても、琴音は帰らなかった。
『さあさあ呑みましょう』
なんて言って連れて行かれたのは、理佐の自宅。なんとそこには、大量の飲料を担いだ鈴香が待っていたのだ。続いて、海原家の厨房に作らせたおつまみがやって来た。
そのまま明るいうちから大宴会。『座る場所は自分で片付けて』という条件付きで、西東京支部スタッフにご案内が回ったのだ。
「噂には聞いてたけど……」
「ほんとにゴミ部屋なんですね……」
「ゴミ部屋言うな! 言うなぁ!」
と絶叫されても、未洗濯下着まで散乱しているこの惨状を目の当たりにすれば、
「汚らわしい……」
「はい汚らわしい入りました~!」
どの理由でか聞く気もないが、また泣き始めた理佐を生温かく見守りながら、でも誰も隼人のことには触れない大人の宴会が始まって、もう2時間ほどになる。
しゃくりあげながらも立ち直った様子の理佐が、ぎろりと目を光らせてグラスを突き出した。
「鈴香ちゃん、ウォトカちょうだい」
「ごめんなさいもう全部呑んじゃいました」
「鷹取家め……ぇぇぇぇっぇぇぇ」
理佐ににらまれてすくみ上がる鈴香。それをかばう琴音に助太刀しようか迷っていると、また客が来た。
「ちわーうわ酒臭っ!」
「ああ、高校生はビール――「ここで人間燈籠になってゴミを照らしたいんか?」
言葉の意味は分からないが、美紀が怒っていることはよく分かるので、髪を掴まれてガタガタと震えている真紀も放置する。こんな状況で、よりによって二人連れで来た会川京子と海原春斗をからかう輪に加わるために。
「なにもこんなとこに来なくても。ねえ万梨亜ちゃん」
「そーですよ京子さん。どっかでしっぽりしてればいいのに」
「いや別に付き合ってないし」
「そ、そうっすよ……琴音ちゃん、手帳をしまって」
「……などと容疑を否認しており、と」
書き込みを終えた琴音に、以前から訊いてみたかったことを訊く気になったのは、お酒と(理佐の)泪と男と女がこの室内に存在しているからだろう。
「琴音ちゃんはどうなの?」
「え? わたしですか?」
危うく黄色い革の手帳を取り落としそうになって、目の前に置いたビールをゴクゴクと飲み干して。十分に溜めを作って、琴音は笑った。
「いやー振られちゃったんですよ」
「隼人に?」
「違います違います! 大学の人に告白したんですけど――鈴香」
意味ありげな鈴香の笑いが、ビール缶を一気に圧縮する音を聞いて凍りついた。
「絶交する」
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい!」
「「仲ええな、キミら」」
険悪な雰囲気になった二人をミキマキが茶化したが、琴音はすっかり拗ねてしまい、またビールをあおり始めた。
(ああ、図星だったんだな)
隼人に気があったんだろう。その気持ちを捨てて、沙耶の擁護役に回らねばならないなんて、不憫すぎる。
そして大量の酒類のわけも理解できた。自分が呑みたかったのだ。
ここは、隼人への想いを埋める墓場ということか。いや、ゴミ部屋だから、ゴミ捨て場だな。
新しい缶を手に取りながら、優菜もまた、へべれけになる道を取った。
5.
ディナーはただただ美味しかったとしか表現しようが無かった。いまだかつて足を踏み入れたことが無い場所――沙耶専用のリムジンが迎えに来て、都内のどこかに連れてこられたのだ――で、明らかに隼人の想定を上回る店が待っていた。
それよりも何よりも、
「まさか、ドレスコード必須の店をチョイスするとは……」
この日の隼人の出で立ちは、長袖Tシャツに綿のハーフパンツ。もちろん靴はスニーカーである。
「ごめん、まったく考えてなかったのよ、ほんとに」
レストランを出て歩く横で、沙耶が言いわけしながら笑ってる。
「よかったわ。ちょうどぴったりの背広があって」
「……場当たり的にもほどがありますよ」
そう、店に向かう途中で運転手に言われたのだ。『失礼ながら、あのお店にはドレスコードがありませんでしたか?』と。
そこで車は寄り道して、運転手行きつけの店で吊るしの背広ほか一式を購入した次第である。もちろんショッピングモールに入ってるような量販店ではなく、店構えも店員も格が違うと言わんばかりのそびえっぷりだった。
と、急に沙耶が肩をぶつけてきた。その上に乗っている顔は、なぜかむくれている。
「どうしたんすか?」
「……なんでそんなに目立つのよ」
「目立つ?……ああ」
そう言われて初めて気付いた。歩道をすれ違う女子が、チラチラこちらに視線を投げかけてくるのだ。
「理佐ちゃんが発狂したわけが少しだけ分かるわ……」
「単にでかい奴が背広着てるからってだけじゃないすか?」
納得いかないのか、むくれたままの沙耶と、黙って歩く。途中で気付いて上着を脱いで、涼を取りながら。
またじっとりし始めた沙耶は、さっきの台詞の続きではないようだ。隼人の顔を見上げる目が、訴えているのだから。
このまま終わりなのかな?
ここでさよならなのかな?
隼人は考え考え歩いて、駅の広場にたどり着く直前で足を止めた。
「沙耶さん」
「え、ええ」
「夕飯を食べてた時言ってた美術館の特別展、今度一緒に行きませんか?」
正対する彼女の眼が輝いて、何度もうなずかれる。それを止めるように、隼人は沙耶に近づいた。予想どおり彼女の顔は上向いたまま固まる。微笑みかけると少しだけかがみ、そっと唇を重ねた。
大きく震えたのは気付かなかったことにして、すぐに離れる。
「俺、沙耶さんのこと、好きです」
「あ、ああああの、あの……」
続いて彼女の口から漏れた言葉に、意表を突かれた。
「メールありがとう」
「? メール?」
またブンブンとかぶりを振って、彼女の赤面は続く。
「落ち込んでる時にくれたメール……すごくうれしかったの……あれで元気が出たし……」
なるほど、病気ではなかったわけですね。口に出して言わなかったが顔に出たのだろう、気付いた沙耶は狼狽した。支離滅裂になり始めた彼女の手を握ってさすり、落ち着かせる。
「ごめん……病気じゃなくて……その……」
「いいですよ。また今度教えてください」
「うん……でね、それから、ううん、その前から神谷君のこと、いい人だなって思ってたんだけど、えと……」
久しぶりに出社して隼人に会った時、衝撃が走ったのだと言う。
「ね、熱測ったでしょ? 手で……」
「ええ、しましたね」
「あの時ね、とてもびっくりしたのよ。殴り飛ばそうかと思うくらい」
危うく落命するところだったのか、あれ。
「でも……」
「でも?」
沙耶ははにかんでうつむき、まだ握られたままの手を見つめた。
「うれしかったの」
「逃げたのに?」
「衝撃のほうが大きかったの!」
小さく膨れて、見上げてくる。その瞳は潤んでいた。
「だから、メールのお礼も兼ねて、映画に誘おうかなって……」
(弓子さんに言われたんですね)
鈍感だのなんだのと揶揄される隼人ではあるが、あの日の帰り際、すぐそばの室内で弓子がドタバタしていたことは知覚していた。
その押し殺そうとして失敗しているヤキモキ感に、それ以前からの思わせぶりなニヤケ顔の記憶も加味されて、隼人の推測は完成したのだった。
「あの、お願いがあるんだけど」
「! ああ、はい」
「それよ、それ」
なんだろう。
「敬語丁寧語はやめてほしいなぁ」
「じゃあ、沙耶ちゃん?」
嬉しそうな沙耶と次のデートの約束をして、もう一度キスをした。今度は、ゆっくりと。